演出家という名の怪物
ジャン=クロード・ブリソー インタビュー 
後編

聞き手:大寺眞輔/翻訳:坂本安美
 
 
「演出家」の存在
 
――照明に関する話題に移りたいと思います。例えば、『ひめごと』の中盤で、ナタリーとサンドリーヌがアパートで話し合う場面があります。ここでは、サンドリーヌの後ろにはランプが置かれ、ナタリーの背後にはドアからの光が漏れています。このように、ブリソー監督の作品では、切り返しの手法が用いられる時でも、どこに照明を置くかという問題には、常に細やかな配慮がなされているように感じられます。
 
JCB:私は、映画の中で、照明が常に重要な意味を担うと考えている。例えば、『白い婚礼』では、照明とフレームの問題に実に多くの時間を費やしたが、ここでは、ブレッソンの『ブーローニュの森の貴婦人』のように、裕福だが自由のない生活の中に囚われている少女という存在を強調するため、光が常に外から入ってくるようにした。こうした配慮は、私の全ての作品で、特に時間をかけて行っている。とりわけ『セリーヌ』では、照明の重要性が歴然としたものとなっているだろう。『ひめごと』でも、他の作品と同様、私の妻であるリザ・エレディア(訳注:本名マリ=ルイザ・ガルシア・マルティネーズ。ロメール作品の編集を手掛けていた。『野蛮な遊戯』より、照明、衣装係として参加し、以後、最新作までブリソー作品を支え続けている。また、女優としても、リザ・エレディアという別名で殆ど全てのブリソー作品に出演している。)が美術や色彩を担当しているので、照明については、取り入れるべき原則が撮影に入る前から了解済みだった。また、そこに与える意味についても、あらかじめ考えていた。しかし、具体的なことについては、実際に撮影監督と二人で現場を見た時、そこではじめて決めたんだ。例えば、あそこから光が入ってきている場合、その光とバランスを取るためには、どこに照明を置き、俳優たちをどこに配置するべきかといった具合に考えていく訳だ。
 
――色彩に関しては、例えば、ナタリーがサンドリーヌに人生のレッスンを施す場面など、アパートのカーテンなどで赤に統一された色彩設計が実に印象的でした。また、あの場面では、ナタリーは既にクリストフに操られていた訳ですが、そうした物語全体の悲劇的なトーンから離れて、ダンスを踊ったり、地下鉄で性的な冒険を楽しむなど、こうした一連のシークエンスは、非常に生き生きとした大らかな魅力に溢れてもいました。
 
JCB:そうだ。あそこはほとんど喜劇的なトーンになっている。全くその通りだ。
 
――こうした場面に於いて、ナタリーは演出家の役割を果たしているように見えますが、それはまた、ブリソー監督にとっての演出概念を反映しているようにも感じられます。
 
JCB:確かに、ナタリーは演出家と呼べるだろう。更に言えば、その背後にいるクリストフは、もっと大きな演出家だ。この問題に関して、フランスのある批評家は、ドラクロワとサンドリーヌの関係を、『めまい』に於けるジェームズ・スチュワートとキム・ノヴァクとの関係に近いと述べていた。「カイエ・デュ・シネマ」前編集長のシャルル・テッソンは、コラリー・ルヴェルは私にとってのキム・ノヴァクであると言っている。こうした考えは確かに間違っておらず、他の批評家たちにも、殆ど全ての私の作品が『めまい』のように構築されており、それが私にとっての演出概念となっているのではないかと聞かれたことがある。『めまい』の中で、ジェームズ・スチュワートは、完全に実体のない世界の前に立っており、観客は、彼と共に、ヒッチコックによって完璧に構築された世界の中へと深く入り込んでいくことになるのだが、実のところ、スチュワート自身も演出家なのであって、キム・ノヴァクを自分好みの女性とそっくりに仕立て上げようとする。同様に、私の作品でもまた、実体がなく、見せかけだけの偽りの世界が構築されていると言えるだろう。意図的にそうした訳ではないのだが。
 
――ブリソー監督自身を別にすると、『ひめごと』では最大の演出家と呼ぶことができるクリストフについてお伺いしたいと思います。クリストフが他人を操り、自らの思うままに演出する時、彼は他人の欲望を利用しています。相手の欲望を喚起し、それを媒介に自らへと引きつける訳ですが、逆に、彼自身は決して欲望を持たない。刹那的な快楽は享受しますが、欲望のような人間の精神的奥行きを欠いた怪物のような存在として、映画では描かれているように見えます。
 
JCB:欲望を持ちたいし、性的快楽を感じたいとも思っているのだが、もう感じることが出来なくなってしまったんだ。あらゆることを試み、性的な侵犯も繰り返してきたが、いかなる試みによっても、手前にある障壁が一つ後ろに退くだけのことだということにクリストフは気づき、そしてある時、もはや快楽を感じることができなくなってしまった。それが彼に起こったことだ。
 
――例えば、『かごの中の子供たち』のブリュノ・クレメールにとっては、戦争体験がきわめて重要な役割を果たしていました。『ひめごと』に於いても、クリストフは、母親の死と共に、その身体が腐っていく過程を一人でずっと見続けたというエピソードが紹介されます。彼らにとって、本来、欲望の対象であった筈の人間が、まるで木片か何かのように見えてしまった瞬間が存在したのだろうかとも思うのですが。
 
JCB:彼らは、悪のスペクタクル、そして死のスペクタクルによって心に深い傷を受けた人々だ。そのことによって、生について、悪について、深く考察することを余儀なくされた。このような体験は、その後の彼らの行動に大きな影響を与え、両方の場合とも、反抗という形態を取ることになったのだ。『かごの中の子供たち』のクレメールの場合、その反抗は社会的反抗であり、戦争へと彼を導いた社会に対して反抗している。クリストフの場合、それは形而上学的な反抗だ。神の存在や悪の意味について自ら理解しようと試みるのだが、どうしても理解できないため、破壊や死に関するあらゆる実践を行う。なぜならば、彼にとって、神もまたそうした存在であるからだ。
 
――クリストフが他人の欲望を引きつけることができるのは、単に美しい顔をしているからではなく、形而上学的な反抗を試みる者、あるいは、死のスペクタクルを通過してしまった者に特有の悪の魅力が備わっていたからとも言えるでしょうか。日本映画でも、黒沢清という映画作家の幾つかの作品では、こうした怪物の姿が奇妙に魅力的な輪郭を伴って描かれているのですが。
 
JCB:同様に考えて、クリストフが既に多くの女性を苦しめ、焼身自殺にまで追い込んでいることを知っておきながら、ナタリーが彼に近づき、恋に落ちてしまうことをかなり異常なことだと見ることは可能だろう。彼女もまた、他の女性たちと同じく焼身自殺してしまうかもしれないのに。彼女はマゾヒストなのだろうか、それとも情熱によるものなのか。あるいは、その二つが混在しているのだろうか。これらの要素は勿論ある訳だが、指摘されたように、悪や死に魅惑されている部分も大きいに違いない。
 
――映画の後半では、クリストフが紙幣を燃やすという場面が登場します。ナタリーが紙幣を数えるシーンと合わせて、ブレッソンの『ラルジャン』なども想起させられましたが、これはクリストフの怪物性を要約するような、きわめて印象的な場面だったように思います。
 
JCB:クリストフが怪物であるというのは、全く指摘された通りだと思うが、演じた俳優に対しては、まるで子供であるかのように、それから何も愛せなくなった人物として演じてほしいと要求した。お金に関して言えば、クリストフが紙幣を燃やすのは、彼がお金に全く執着していないということを表している。だからこそ、ラストでは、彼のお金は全てサンドリーヌのものとなる。他人を操り、権力を獲得し、楽しみを得るためにのみ、彼はお金を必要としていたのだ。彼は何物にも執着することがなく、唯一、形而上学的な反抗、そして快楽を得ることのみを目的としている。自分が神であるかのように世界を操ること。母親を死に導き、その身体を腐敗させた神の力に自らを同一視しているんだ。
 
――資本主義社会の中では、他人の欲望を喚起しながら、自らは決して欲望を持たず、同時に、欲望のシステムをある意味で演出するような存在がお金であると言えるようにも思います。こうしたお金という存在とクリストフのような怪物には、何か共通する部分があると言えるでしょうか。
 
JCB:例えば、ブレッソンの『ラルジャン』でも、お金の存在は、悪魔的なるものが結晶化したもの、具象化したものだった。『ひめごと』の脚本段階や撮影中に、こうしたことを考えていた訳ではないが、クリストフに関わる主題は、指摘されたように、確かにこれと類似した部分があるかも知れない。
 
――『かごの中の子供たち』でも、ブリュノ・クレメール演じる怪物は、息子に札束を渡し、「自分の同じように生きろ、奴隷となって生きるな」と話します。
 
JCB:勿論、お金というのは、あらゆる人間関係に関わる重要な要素であり、とりわけ互いに権力関係にある場合、お金、そして欲望がそこに介在することになるだろう。『かごの中の子供たち』のクレメールも、単に生きるためのみお金を必要としているが、社会の中に入りたくないため、盗みを働いてお金を手に入れている。
 
――ラスト近くの場面について、お伺いします。クリストフがナタリーに拳銃で撃たれる場面では、絶望の果ての浄化、そして救済のようなものが幻想的な形で描かれていたと思います。
 
JCB:あの場面では、まず鷲が登場することで、観客は、冒頭のシーンに引き戻されることになる。そして、ベールを被っている黒い人物が、ナタリーの顔をしていたことに気付くと共に、死んでいったクリストフに接吻することが重要な要素として現れる。つまり、それは、ナタリーとクリストフの間に非常に深い関係があったことを意味している訳だ。そして、ナタリーは、クリストフが心から欲していたこと、つまり死を与えた訳であって、このため、あのシーンは、形而上学的な愛と呼ぶことさえできるほど、ロマンチックなものとして作られているのだ。ナタリーは牢屋に入れられるが、そこから出てきた後の彼女はすっかり変貌しており、そこには、贖罪や救済のようなものがあったことを感じさせる。彼女は、情熱に打ち勝ち、殆どの人間的欲望を捨て去り、自らの人生をあるがままに受け入れ、そして、この作品に於ける唯一の勝者となるのだ。
 
――ラストでは、再び切り返しが作品に導入されます。ナタリーとサブリナは、あたかもこんなに隔たってしまったにも関わらず、それでもなお、お互いを見つめ合うことだけはできるのだと、その切り返しは示しているかのようでした。実際、二人を映し出すショットは、それぞれ、余りにも異なった全くの別物であるかのようにさえ感じられました。
 
JCB:そうだ。その通りだと思う。
 
 
「『ジュテーム・ジュテーム』は映画史に残る傑作だ」
 
――ここからは、ブリソー監督の作品を離れ、余談として、シネフィル的な興味からお話を伺おうと思います。例えば、『ランジュ・ノワール』からは、50年代ハリウッド映画の雰囲気が濃厚に感じられるのですが。
 
JCB:あの作品は、全体として、50年代ハリウッド映画へのオマージュとなっている訳だが、内容的に言っても、全てがまやかしである世界を描いており、ハリウッドが全てまやかしと操りの世界であるという意味に於いて、ハリウッド映画との間には多くの類似点がある。また、その見解に関して、もうひとつ思い出すのは、ちょうどこの作品が公開された時、フランスでは『めまい』が再上映されていたのだが、ある劇場では「『めまい』と『めまい』を巡る作品群」という特集上映がプログラムされたことがあった。そこでは、『めまい』と同時に2本の作品が上映されたのだが、1本目はブニュエルの『エル』で、2本目が『ランジュ・ノワール』だった。この組み合わせで私の作品を上映してもらえたことは、個人的にとても嬉しかったね。
 
――素晴らしいプログラムですね。ヒッチコック以外の映画作家についても、お伺いしようと思います。ジャック・ターナーは、お好きでしょうか?
 
JCB:もちろん大好きだ。『キャット・ピープル』や『ブードゥリアン』、それから子供の頃に見た冒険もので『快傑ダルド』というバート・ランカスター主演の作品も好きだった。晩年は、あまり面白くない作品も撮っているが、詩的な要素と幻想的な要素が奇妙に混ざり合っているあたり、大いに気に入った。
 
――エイブラハム・ポロンスキーは如何でしょう?彼の作品にある社会性には、興味を持たれる部分があるのではないかと感じるのですが。
 
JCB:『苦い報酬』などが好きだ。彼はコミュニストだったから、他のアメリカ映画に比べて、社会的現実が作品の中にずっと強く存在している。
 
――アラン・レネについては?例えば『ジュテーム・ジュテーム』などは如何でしょうか?
 
JCB:実は、ヌーヴェル・ヴァーグの映画作家たちの中でも、アラン・レネは、私が最も好きな監督で、『ジュテーム・ジュテーム』は、大変な傑作であり、映画史に残る偉大な作品だと考えている。これ以外でも、『戦争は終わった』や『去年マリエンバートで』、『ミュリエル』などが大好きだ。レネが私の『ランジュ・ノワール』を見て、とても気に入ったと言ってくれたときは、本当に嬉しかった。『ランジュ・ノワール』には、凍るように冷たく、不安にさせるような、不気味な側面があって、それはレネの作品にも共通する要素であるのだから、そう考えると彼が評価してくれたことは驚くことでもなかったのかも知れない。しかし、それにしても、あのレネに褒められたのだから、これには、とても感動したよ。私の作品は、しばしばロメールを引き合いに出して語られることが多いのだが、ロメールからは芸術的側面に於いて殆ど影響を受けておらず、ヌーヴェル・ヴァーグの世代では、むしろレネから大きな影響を受けてきたと、自分では考えているのだからね。