ニュースアグリゲータ

さえずり@ブログ 05022014

革命の日の朝の屑拾い日記 - 木, 05/01/2014 - 17:35

先般の酒席でまったく話が通じなかったので仕方なくここに書きつけておくが、徳田博丸作のときの吉本新喜劇・茂造シリーズが持つプレストン・スタージェス的なハイパー古典主義は大阪人だけに独占させておいてはいけないレベル。

『男として死ぬ』 ジョアン・ペドロ・ロドリゲス @THE LAST BAUS/爆音映画祭

荻野洋一 映画等覚書ブログ - 水, 04/30/2014 - 15:41
 ジョアン・ペドロ・ロドリゲスの『男として死ぬ』(2009)がTHE LAST BAUS/爆音映画祭で上映された。主人公は、ポルトガルの首都リスボン在住のドラッグクイーン、トニア(フェルナンド・サントス)。その恰幅のいい肉感は、在りし日のディヴァイン、あるいは、肉乃小路ニクヨをイメージさせる。
 「トニア」という名前は、主人公の男性時代の本名「アントニオ」を女性形に変化させた「アントニア」の略称である。「アントニオ」のばあい「トニ」と呼ばれることが多い。語尾変化によって名前が変わると同時に彼自身もまた女として生きようとして、妻も息子も捨てた。みずからを鬼畜として位置づけているらしい彼(彼女)は、非常なる諦念と共に生きている。つまり、自分は幸福のうちに死ぬことを許されぬ存在であると。いっぽうで彼(彼女)は出来の悪い息子たちをいつも心配しては鬱陶しがられ、結局は子どもたちの不始末の尻ぬぐいに精を出すはめに陥るお母ちゃんでもあって、いわばヘンリー・キング『ステラ・ダラス』(1925)、プドフキン『母』(1926)から連綿とつづく母ものメロドラマ(Maternal melodrama)の系譜につらなる。実の息子ゼ・マリアは殺人を犯し、同棲相手のロザリオは薬物依存症、ヌバ族出身の店の若手ジェニーは店の看板スターの座を伺う邪魔な存在である。母にとって、子どもたちは頭痛の種でなければならない。
 爆音上映によって、つねに苛立っている登場人物たちが物を乱暴に置く音、突如として発砲されるライフル、バタンと閉められる扉、主人公トニアがつとめるゲイ・バーの陳腐なダンスミュージック、薬物依存症のロザリオによる破滅的な自動車運転エトセトラ、エトセトラ──この映画の音響的な兇暴さが明るみに出た。不断にとげとげしい世界と素肌で無防備に接しあっている主人公の魂に、幸あれと祈りたいと思う。


吉祥寺バウスシアター(東京・武蔵野市)の《THE LAST BAUS/爆音映画祭》で上映
http://www.bakuon-bb.net

2014-04-30

『建築と日常』編集者日記 - 火, 04/29/2014 - 15:00
2013年の4月30日に刊行した別冊『多木浩二と建築』が今日で刊行1周年となりました。それ以前の『建築と日常』や別冊『窓の観察』よりも歴史的な地平を意識して作った本ですが、多くのご高評をいただき、あらためて手応えを感じています。まだ読んでいない方はぜひお手に取ってみてください。 別冊『多木浩二と建築』 http://kentikutonitijou.web.fc2.com/taki.html 知の巨人の知られざる一断面。多木浩二の建築分野での活動を振り返り、その仕事を歴史に開く。1000件を超える詳 ...

『闇をはらう呪文』ベン・リヴァース、ベン・ラッセル結城秀勇

nobodymag journal - 月, 04/28/2014 - 08:46
未明の湖上で、カメラはゆっくりと360°パンする。 レンズが南東側に向かうにつれてほのかな陽の光とともに画面は白んでゆき、また次第に黒みを帯びていき、やがて再び北西方向を指したときにはスクリーンの大半が闇に沈む。その闇のもっとも深い部分、フィルムがほとんどなににも感光せずに残ったはずのその場所で、灰白色の蠕虫に似たデジタルノイズがにぎやかに蠢きだす。光量の少なさが一定の閾値を越えて、情報の無として...

『ゴダール・ソシアリスム』ジャン=リュック・ゴダール@LAST BAUS田中竜輔

nobodymag journal - 日, 04/27/2014 - 16:53
たとえばジェームズ・キャメロンは『タイタニック』で、豪華客船を直立させる様子を圧倒的なスペクタクルとして私たちの目の前に映し出した。一方でジャン=リュック・ゴダールは、船ではなく「海」そのものをひとつの壁としてスクリーンに屹立させることを選ぶ。もちろん『ゴダール・ソシアリスム』の海は、その上に浮かぶ豪華客船に乗り込んでいた人々(=イメージ)を落とし込みなどしない。ゴダールがこのフィルムにおいて真に...

2014-04-28

『建築と日常』編集者日記 - 日, 04/27/2014 - 15:00
昨日書いたことと関連して。岡谷公二『郵便配達夫シュヴァルの理想宮』(作品社、1992)では、シュヴァルの創作の価値を「おのれの生の欲求だけに従うこと」(p.243)に見ていた。「彼らは、この日常の現実が生きるに価しないならば、敢然として、もうひとつの現実──その中でなら彼らが真に生きることのできる、この現実以上の密度と強度と鮮やかな色彩と輝きとを持つもうひとつの現実を、わが手で作り出そうとする」(p.237)。そしてそうであったからこそ、むしろ(現代芸術においては失われた)「民衆の感性と想像力の土壌の ...

2014-04-27

『建築と日常』編集者日記 - 土, 04/26/2014 - 15:00
岡谷公二『郵便配達夫シュヴァルの理想宮』(作品社、1992)を読んだ。例の講義の課題図書の1冊にあげているので(3月27日)、出題者として読まないわけにはいかない。たまたま初回の講義で紹介したT・S・エリオットの「伝統と個人の才能」(1919)が、本の最後の章で引き合いに出されていた。以下の部分を引用し(実際の引用文は吉田健一訳)、それと対比的に、シュヴァルおよび著者の関心対象であるアンリ・ルソー、レーモン・ルーセルが論じられている。

春で朧の京都で、溝口健二の時代考証を担当した甲斐庄楠音の絵を見る

荻野洋一 映画等覚書ブログ - 木, 04/24/2014 - 18:55
 2009年、文藝春秋の子会社である求龍堂から、甲斐庄楠音(かいのしょう・ただおと 1894-1978)の画集『ロマンチック・エロチスト』が出版されたとき、これはすごい画集だと思った。酒井抱一にしろ池大雅にしろ、あるいは松岡正剛『千夜千冊』にしろ、求龍堂の出版活動には度肝を抜かされることが少なくないが、『ロマンチック・エロチスト』はその中でも指折りにやばい部類に入る。
 うす気味悪い女たちの肖像画がこれでもかこれでもかと掲載(美しいのもあれば醜いのもある)されているのに留まらず、画家みずからが女装して自己陶酔しきった写真もたくさん掲載されている。中には、それなりに色っぽく撮れているものもあるが、見るに堪えない代物もある。果ては彼のスクラップブックもスキャンされて掲載されているが、最後の方はエロ本からの切り抜き帖といった体だ。

 そんな甲斐庄の作品を初めて実見する機会があると聞いて、春爛漫の京都に飛んだ(左京区岡崎の京都国立近代美術館)。上記画集に掲載の絵たちが、私の眼前にものすごい轟音を奏でながら屹立している。日本におけるデカダンの極致と私が位置づけたいのは次の二人──この甲斐庄楠音と、それから冷泉為恭(れいぜい・ためちか 1823-1864)である。後者の為恭のばあい「冷泉」などと名乗っているが、これは冷泉家(藤原定家の末裔)に無断で勝手に名乗ったに過ぎない。しかし為恭は、幕末に尊攘派の志士に暗殺されるというバイオグラフィによって、京都文化史にあやしげなデカダンを振りまくことに成功したのである。
 楠音と為恭、両者に相通じるのは、近代の荒波にあってもなお、公家文化の雅に染まりきっている点である。そしてそれは当時においてすら、もはやフィクショナルかつ擬態的なものであった。冷泉為恭については、遅かれ早かれどこかに書くことになるだろう。

 私たち映画ファンにとって甲斐庄楠音という存在は、画家としてよりも、溝口健二や伊藤大輔ら京都の映画作家たちのために風俗・時代・衣裳考証をつとめた人物として名高いだろう。映画界における30年のキャリアが甲斐庄の美術家としての生命を台無しにしたという評価もあるが、『雨月物語』(1953)ではアカデミー衣裳デザイン賞にノミネートされている。溝口健二の『歌麿をめぐる五人の女』(1946)で、主人公の喜多川歌麿と狩野派の絵師が、絵のテクニックの果たし合いをする場面があるが、ここで戦いの小道具として描かれる観音像は、まぎれもなく甲斐庄の手になるものだ。
 甲斐庄と溝口のなれそめは1939年の『残菊物語』だったそうだが、そこで描かれた上方歌舞伎の非情なる世界こそ、甲斐庄が最も自家薬籠中のものとしていた宇宙ではなかったか。


京都国立近代美術館《生誕120年 甲斐庄楠音特集》は5/11(日)まで開催
京近美コレクション・ギャラリー平成26年度第1回展示
※今春の京近美のコレクション・ギャラリーは、一粒で何度もおいしい展示となっていてオススメです。まずエルンストとピカビア、ふたりのダダイストの絵を同館が新規購入したということでお披露目しています。そして次にこの甲斐庄楠音レトロスペクティヴ。都築響一〈着倒れ方丈記〉も非常にアクチュアルで面白いコーナーでした。これは京都というよりきわめて東京的な展示です。そして《チェコの映画ポスター》展。ミロシュ・フォルマン、ヴェラ・ヒティロヴァーといったチェコ映画に留まらず、アメリカ映画、ヌーヴェルヴァーグを当然含むフランス映画、そして日本映画のチェコ版ポスターを見ることができるのですが、それらはいずれもデザイン的におそろしく秀逸です。ブレッソン『やさしい女』のポスターは美術作品としても一級品だと思います。

2014-04-25

『建築と日常』編集者日記 - 木, 04/24/2014 - 15:00
テレビで放映していた、マーク・ウェブ『アメイジング・スパイダーマン』(2012)を観た。テレビ用に吹き替えだったりCMを挟んでいたりしたせいもあったかもしれないけど、それほどひどいというわけではないにしても、なんとなく全体として散漫な印象を受けた。サム・ライミ版のほうが全一的な作品世界がかたちづくられている感じがする。ストーリーはかなり重なるところもあるので、すでに世間で一定の評価を獲得したサム・ライミ版との差異を出すために、物語の要素を断片化して再構成するような作り方がされたのだろうか(内側から膨ら ...

2014-04-23

『建築と日常』編集者日記 - 火, 04/22/2014 - 15:00
昨日は銀座でムーミン展を観たあと、京橋でLIXILギャラリーの「ブルーノ・タウトの工芸‐ニッポンに遺したデザイン‐ 展」に寄りつつ、上野の東京芸大で開かれた特別講演会、今福龍太×多木陽介×伊藤俊治「「映像の歴史哲学」─「オリンピア」から「プロヴォーク」まで、多木浩二の映像文化論─」に足を運んだ。あらかじめある程度の段取りが決められていたらしく、三氏で即興的に議論が交わされるというより、伊藤氏の司会を介して今福氏と多木氏がそれぞれ長めの発言をしていくという格好だった。 会場には昨日上海の篠原一男展のオー ...

『サンブンノイチ』 品川ヒロシ

荻野洋一 映画等覚書ブログ - 火, 04/22/2014 - 14:23
 世の中には、伊藤俊也の『ロストクライム 閃光』であるとか角川春樹の『笑う警官』のような、なぜこんなものが作られてしまったのか見当もつかない、おそろしく無惨なる愚作というものが厳然と存在してしまうから、一人前の映画ファンの定義のひとつに、少々の駄作、凡作を見たくらいでうろたえたり、金を返せなどとヒステリーを起こしたりしない耐性を身につけた者たち、ということがあるのではないか。そして、その伝で言うなら『サンブンノイチ』は大丈夫なのではないか。
 金庫破り、銀行強盗の映画と聞いて、映画をまともに見てきた人なら、前田陽一の『三億円をつかまえろ』(1975)くらいのレベルのものを期待する権利はある。ところが驚くべきことに、『サンブンノイチ』では金庫破りも銀行強盗も描かれていないのである。いや、申し訳程度に描かれていたような気もするが、正直もう憶えていないというレベルである。
 犯人三人組のアジトであるキャバクラの店内で、三人組──藤原竜也、小杉竜一、田中聖──が札束の分け前をめぐって化かし合いをする。そして、このズッコケトリオ結成のいきさつがフラッシュバックされる。それがどうやらこの映画の本筋らしい。「人生の一発逆転をかけた大バクチ」などというふれ込みで藤原竜也が登場すると、『カイジ』『カイジ2』の続きを見ているかのような既視感がある。
 「窪塚洋介演じるイカれたヤクザが突然シネフィル批判を始めたところでマジでドン引き」とgojoさんが書いているが、まったく異存なしである。作者の感覚はずれてる。
 珍しく川崎の風俗街・堀ノ内がメイン舞台になっていて、猥雑な空間にスポットが当たることがどんどん減っているから興味津々だったが、あまり街の空気が伝わってこなくてもったいない。


角川シネマ新宿(東京・新宿文化ビル)ほか全国公開
http://www.sanbunnoichi.jp

『クローズEXPLODE』豊田利晃渡辺進也

nobodymag journal - 火, 04/22/2014 - 08:04
 くすんだねずみ色の中に灰のような白い塊がふわふわと舞っている。小さい男の子が母親に手を連れられて孤児院へと連れて入るときに降っているこの雪は冷たいとか、重いとか、そんなことは考える由もなく、ただただ乾いていて、軽い綿のように見える。そして、例えばこの雪は、この映画で後ほど出てくる、ふたりの男が殴り合いをする産業廃棄場に舞う綿ぼこりか何かとまるで同じもののように見える。この2つの場面の雪がほとんど...

2014-04-22

『建築と日常』編集者日記 - 月, 04/21/2014 - 15:00
トーベ・ヤンソン生誕100周年記念「MOOMIN!ムーミン展」を松屋銀座のイベントスクエアで観た(〜5/6)。平日にもかかわらず会場は大勢の人で混雑していた。メインは「日本初公開作品約150点を含む約200点のオリジナル原画」ということだったのだけど、ヤンソンのモノクロのインク画は、言ってみれば印刷媒体でいかに有効に作品世界を表現するかを考えて編みだされた手法だろうから、原画を見たからといって、本の挿絵と比べてそれほど特別な印象がもたらされるわけではない気がする。混んでいなければまだしも、生誕100 ...

『キャプテン・アメリカ ウィンター・ソルジャー』 ルッソ兄弟

荻野洋一 映画等覚書ブログ - 土, 04/19/2014 - 22:22
 マーベル・コミックの映画化『アベンジャーズ』(2012)は総花的で、さして感興を呼ばなかったが、今回の新作『キャプテン・アメリカ ウィンター・ソルジャー』の頑張りには快哉を送る。前作から引き継がれたキャラとしては、今回の主人公キャプテン・アメリカ(クリス・エヴァンス)のほか、ウィンター・ソルジャー(セバスチャン・スタン)、ブラック・ウィドウ(スカーレット・ヨハンソン)、ニック・フューリー長官(サミュエル・L・ジャクソン)、ペギー・カーター(ヘイリー・アトウェル)、マリア・ヒル(コビー・スマルダーズ)、ゾラ博士(トビー・ジョーンズ)など多数で、私のような不真面目な観客にはいちいち把握できない。今回はアイアンマンもハルクも登場せず、したがってグウィネス・パルトロウもお休みであるという点が、淋しいといえば淋しい。それだけにいっそうスカーレット・ヨハンソンの性的魅力がクロースアップされるしくみだ。
 スカーレット・ヨハンソン扮するブラック・ウィドウは、秘密文書提出のシーンでも分かるように、ウクライナ人だ。これもまた、現代の紛争地図からするときな臭い。ブラック・ウィドウの本名ナターシャ・ロマノフから言って、おそらく彼女はウクライナ人ではなく、ウクライナ領内のロシア系住民の出身ではないだろうか。しかもロマノフという苗字は、帝政ロシアの皇室の姓である。
 今回作品に緊張感をもたらすのは、「世界の警察」の自称をいまだ捨てないアメリカ合衆国が、全世界に向けてテロリストの予備軍となりそうな人物像2000万人をあらかじめあぶり出し、衛星空母からその人たちを一斉に狙撃するシステムを作りあげるという想定のためであろう。この映画を見てテロリスト候補2000万人などという膨大な数字を出されると、私自身が当たり前のごとくそれに該当してくるという気がしてしかたがないし、この計画を阻止しようと内ゲバを開始する主人公キャプテン・アメリカをひたすら応援したくなるのである。アメリカの国防システムがナチスの残党「ヒドラ」(映画内では「ハイドラ」と発音されていた)に乗っ取られているという壮大な陰謀論は、あながち突拍子もない設定ではない。


TOHOシネマズ日本橋、丸の内ルーブルほか全国で上映
http://studio.marvel-japan.com/blog/movie/category/captain-america2

2014-04-19

『建築と日常』編集者日記 - 金, 04/18/2014 - 15:00
芝浦工業大学で八束はじめさんの退任記念講義を聴いた。「Retrospective 八束はじめ 1967-2013」という題目で、大学入学以降のご自身の足跡を、学生時代/建築家時代/教員時代の3期に分けて語られた。僕としては、そうした歩みを踏まえた上での、その集大成となるような建築なり都市なりの考えをうかがってみたかった気もするけれど、これはこれで八束さんらしさを感じさせる興味深い最終講義だった。 とりわけ特徴的だったのは、最後の教員時代についてのパートだと思う。八束さん自身の活動を軸にするのではなく、 ...

試写日記『収容病棟』

Dravidian Drugstore - 金, 04/18/2014 - 02:54

試写日記『収容病棟』ワン・ビン:素晴らしい!ここには口当たりの良いメロドラマがなければ、社会へと向けられた紋切り型のメッセージもない。ただ、彼らと共有する時間の強度、日常の反復、鉄格子、マージナルなものへと向けられた真摯でおだやかな眼差し、そして様々な人生だけがある!

4時間もの時間を精神病院に収容された人々への凝視に費やす体験は、たとえば『それでも夜は明ける』といった作品を鑑賞して、主人公の境遇に共感して涙を流したり、社会に対して怒りを感じて拳を振り上げるのとは全く違った時間と感動と体験の質を観客である私たちにもたらします。

それは精神病院という特殊な境遇の中で生きる人たちと共有する時間そのものであり、私たちの世界からは隠された場所に生きる者たちの人生そのものであり、さらには人生そのものであるかもしれません。もしかすると、ただ映画だけが発見することの可能な人生の輝きこそがそこにはあるのです。

『収容病棟』6月にイメージフォーラムで公開みたいです。必見!

『収容病棟』は、男性が収容された3階の鉄格子で遮られた廊下をグルグル回り続けるような(腰の高さくらいの?)カメラに独特の世界観とスタイルがあってそれも本当に素晴らしいんだけど、過度に審美的にならない映画作家としての倫理観みたいなものも強く感じられる。

『収容病棟』では、邪気のない笑顔を振りまくんだけど、体中に文字を書き続け、隣にいる年長者をボコボコ殴ろうとする少年も登場して、彼はブカブカの服が奇妙にかわいくて、その寝姿で前半が終わるように下手するとキャラ化寸前なんだけど、やっぱり人間としての手応えがすごくてそれを許さない。

映画の持つこうした凝視の力ってのはやっぱり圧倒的であって、現代において映画を作ろうとする者は、もちろんその試みの方向は多様であるべき何だけど、いずれにしても、こういう力強い作品と対峙しつつ、では自分はどうやってその圧力に対抗するかって覚悟を持って欲しいと思った。

『フルートベール駅で』 ライアン・クーグラー

荻野洋一 映画等覚書ブログ - 木, 04/17/2014 - 16:16
 アカデミー作品賞受賞の『それでも夜は明ける』と同じく、『フルートベール駅で』も黒人差別をめぐる実話である点が大きい。1841年の南部プランテーションで主人公は奴隷として扱われ、2009年ベイエリアの主人公は鉄道の公安部隊に無意味な発砲を受けて死亡する。この間の時差は170年近いが、文明は思ったよりも進歩していないことが分かるだろう。ベイエリア高速鉄道(BART)フルートベール駅のプラットフォーム上で主人公は訳の分からぬまま撃たれてしまうのだが、彼の一日が親密な日記のように展開される。
 主人公がスーパーの食肉係を解雇されたこと、きょうが大晦日だからサンフランシスコ湾でのカウントダウンイベントを見に行こうと計画していること、実家の忘年会に出席して母親から「道路の渋滞がひどいので電車で行ったほうがいい」と諭されること、妻の姉に預けた幼い娘が不安そうな表情で両親の夜遊びを見送ること、ラッシュ状態となっている帰りの電車で、昼間に親切にしてあげた白人女性に再会して声をかけられること、そしてたまたま同じ車輌に乗り合わせ、彼の名を呼ぶその女の声を聞いた彼の敵対グループが彼に気づいてしまうこと、エトセトラエトセトラ。
 まさに運命の、偶然の戯れが、主人公の死を手繰り寄せてしまうという描写をさりげなく案配して、気の毒な主人公を私たち観客全員が悼むように作り込んでいる。病院の手当も空しく絶命した主人公の体を前に、母親はこう嘆くのだ。「私が電車で行けと言いさえしなければ!」
 本作のうまいのは、主人公も無傷の存在ではないことを示している点だ。つまり彼がかつてはヤクの売人で、懲役刑に服したこと、更正した現在も寝坊と遅刻の常習犯で、悪友たちですらそのことに呆れていることなど。
 『ロッキー』(1976)という三流ボクサーのシンデレラストーリーがあったが、あの映画が頭脳的だったのは、試合が主人公の判定負けに終わるという点だ。それでもロッキー夫婦はリング上で幸福の絶頂を味わい、しかも判定負けというグレーな決着が絵空事じみたストーリーにどことなくフェアな印象を持たせることに成功したのだ。この『フルートベール駅で』も、主人公のネガティヴな部分を克明に描くことによってロッキー効果をもたらしている。


ヒューマントラストシネマ有楽町(東京・有楽町イトシア)ほか全国で順次上映
http://fruitvale-movie.com

「映画は映画である」についてもう少し

Dravidian Drugstore - 水, 04/16/2014 - 03:32

私はしばしばシネフィル批判するシネフィルなんだけど(笑)、それはシネフィルというトライブを批判しているのではなく、その中の「映画は映画である」という同語反復にのみ安住する心の傾向とそれに伴う様々な弊害を批判したいから。

よくシネフィル批判してる人見てると、トライバルウォー仕掛けたいだけの単純な言説が多く、あまり興味ないし不快なケースも多い。一方、日本映画界ではあまりに「映画は映画である」が君臨しすぎてると思う。色んなタイプの人がいるけど、でも殆ど共通して同じ傾向がある。

「映画は映画である」については先日も書いたけど、そこで何が問題になるかというと、一つには新しいものへの知的好奇心が失われがちだってこと。勿論変われば良いってものではないけど、変わらなすぎるのも問題あるわけよ。とりわけインディペンデントでやってる人間には死活問題だよ?

あ、私はインディペンデントだろうがDIYだろうが、喜んで使いますよ!それで伝わるもの、拡がるものがあればそっちの方がずっと大事だから。ももクロよく知らないんだけど、ももクロが個人映画やってたとしてこういう言葉回避したりdisったりするとは絶対思えないしな。

よく知らない憶測を何重にも重ねた不用意なこと喋ってますが(笑)。まあ、そういう言い方が良いのではないかと思った。間違いだったらいつでも訂正しますー

「映画は映画である」は、人を敬虔な信徒かファナティックな狂信者か、いずれにしても線の細い真面目なタイプにしがちなんだけど、それを否定的に乗り越えようとする人たちは基本的にロックとかヒップホップとかヤンキーとかワイルドな方向に行きがちで、これもパターン決まっていて実につまらない。

『ペイン&ゲイン 史上最低の一攫千金』マイケル・ベイ高木佑介

nobodymag journal - 火, 04/15/2014 - 15:41
レンタルビデオ屋の「新作」コーナーをぶらついていると、アメリカ国旗を背景に厳めしいポーズを決めているマーク・ウォールバーグと“ザ・ロック”ドウェイン・ジョンソンのふたりと目が合った。『トップガン』(86)並にダサいDVDジャケット、そして『トロピック・サンダー/史上最低の作戦』(08)と同じような副邦題を持つこの作品のパッケージを手にとってみると、「トランスフォーマー」シリーズの大ヒットの陰に隠れ...

2014-04-15

『建築と日常』編集者日記 - 月, 04/14/2014 - 15:00
例の講義の初回。緊張感を保ちながら慣れていくこと。積極的に領域を拡張していくように努めること。 講義の最後、初回のテーマに則して、学生たちに「なぜ歴史を学ぶのか?」というタイトルで短い文を提出してもらった。内容はともかく、なにかの執筆を依頼して、こうして間髪入れずにたくさんの文章が手元に集まってくるという体験が新鮮だった。
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