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フランス日刊紙「リベラシオン」ロカルノ映画祭総括

ロカルノ映画祭授賞式、『サウダーヂ』を忘れる

フランス日刊紙「リベラシオン」2011816

フィリップ・アズーリ

 スイスのロカルノ映画祭は土曜日に授賞式を行ったが、日本社会の不安を描いた富田克也監督の『サウダーヂ』は受賞作品の中から外される。同映画祭を総括する。

 64回ロカルノ国際映画祭は、社交界的なけだるさが漂う中で開幕した。ある嵐の夜には、アベル・フェラーラがトラットリアでギターを乾いた音で弾いていた。そして同映画祭は、土曜日に外交的な揉め事の騒ぎの中で幕を閉じた。審査員長のポルトガル人プロデューサー、パウロ・ブランコが授賞作品発表のプレス記者会見にて、スイス人監督フェルナン・メルガールのドキュメンタリー作品『Vol spécial』を「ファシスト的」であると述べたのだ。『Vol spécial』はスイス国境で、避難所を求めてやって来る外国人たちを追放している現状についてのドキュメンタリーだ。フェルナン・メルガールは最近、頭角を現してきているドキュメンタリー作家であるだけに、この発言はスイス国民を驚愕させた。メルガールは土曜日の夜、名誉を傷つけられたとして、ブランコを訴えると声明を発表した。

 しかしメルガールはその方法の両義性の代償を払うことになったのではないだろうか。(……)『Vol spécial』は、身を潜めて暮らしている人々の状況の複雑さをきちんととらえられているだろうか? 礼儀正しくても、外国人たちを国外に追放する行政機関の冷笑的な態度を示し得ているだろうか? ブランコはこの作品に激怒しながら、おそらくレーモン・ドゥパルドの何本かのドキュメンタリー(たとえば『Urgences』など)を思い出していたのではないだろうか。ドゥパルドンの作品を見れば、大衆への媚、デマゴギーの疑いから作品を守るためには、フレームをきちんと選択すればよい、ということが分かるからだ。

見えない者たち

 そこまでラディカルさを見せるならば、ブランコ率いる審査員団には、金豹賞の選択においてもそのラディカルさを見せてほしかった。しかし残念ながら、同映画祭の最高賞はスイス=アルゼンチン人の若手女性監督ミラグロ・ムメンターレーの『Abrir puertas y ventanas』の手に渡った。三姉妹が、ブエノスアイレスにある祖母の残した大きな邸宅にてひと夏を過ごす。チェーホフ的ながら、何の神秘もないこの作品への最高賞は、同映画祭ディレクター、オリヴィエ・ペールが確実なる手腕で率いた今年のロカルノ映画祭の豊かで濃密なセレクションを反映していないと言わざるを得ない。

 とりわけ疑問に思うには、どうしたら審査員たちは、これまで無名だった39歳の日本人監督富田克也の『サウダーヂ』に賞を与えずにいられたのかということだ。三時間ちかくあるこの作品は、いまや見られなくなった自由さで撮られている。上映会場フェヴィでの舞台挨拶では、主演俳優のラッパー・田我流がフリースタイルを披露し、その即興の歌の中で日本の政治家たちが嘘つきであることを激しく非難しながら、3月11日の大地震、津波の二重の大災害の被災者たちにそのフロウを捧げた。3月の大災害以前に撮られている『サウダーヂ』は病んでいる日本社会を見せながら、日本の権力者たちに公然と挑むことをもはや恐れることはない。『サウダーヂ』というポルトガル語のタイトルは、気取ってつけられたわけではない。同作品は、3つ、あるいは4つに分かれる人々の生の軌跡を追いながら、タイ人、日系ブラジル人たちの日常を描いているのだ。彼らの存在は日本社会で認識されていないが、建設工事現場の労働者、あるいはバーのホステスとして働く者もいれば、どこからも拒否されてしまう者もいる。『サウダーヂ』はまた日本人の若者の混乱も描いている。すべてを約束されながら、突然の経済危機によって、外国人を排斥するような言説や、社会の中でまったく居場所を見いだせない者たちを、彼らの場所を奪ってしまったと非難することでしか答えを見いだせず、激しくぶつかり合ってしまう若者たちの狼狽を。

 富田克也は、(フランスではごく一般的な)国や自治体の助成金やテレビ局などの出資を得ることなく、一般に寄付金を募って集めた約8万ユーロの予算でこの作品をHDビデオカメラで撮った。週日は日本の中央に位置する甲府の周辺でトラック運転手として働き、週末に、主演俳優の鷹野毅や伊藤仁が働く建設工事現場をロケ地に撮影を行った。かつてのジャン=リュック・ゴダールの処女短編作『コンクリート作戦』が思い出される。「LExpresso」誌の優秀なポルトガル人映画批評家、フランシスコ・フェレイラはこの作品についてさらに明確な比較をしてくれている。そう、『サウダーヂ』は「ロバート・クレイマー的」な作品である。間違えてしまった者も含め、あらゆる言説、意見を羊飼いのように集めるように、自分たちの国を想像したクレーマーが70年代中盤に撮った『マイルストーンズ』のようだ。『サウダーヂ』は、アイデンティティの建設工事現場であり、そこでは自分たちの墓を掘る者たちが、自らの根源を求めるために必死になっている者たちと出会う。

失踪

 『サウダーヂ』という甲府の山の向こうには、『東京公園』という公園、青山真治の新作が広がる(46歳でこれまでのすべての業績を讃えた審査員特別賞を授賞するという快挙!)。これまでの作品に比べると人間たちの内面に向かう作品ではなく、一種の見せかけの商業映画である『東京公園』は『欲望』(公園、女性、写真)のように始まる。そこでは互いの間の繋がりが見えなくなっているが、まさにその繋がりによって結びついていく人々の輪が描かれている。

  幻滅し、傷ついていながら、そこには知性がある。コンペ外作品として上映された30歳の真利子哲也監督の非常に美しい中編『NINIFUNI』は、日本の道路の上での絶望的な逃避行を描いていて、そのフレーム感覚はスティーブン・ショアーの写真を思い出させる。この作品の傷ついた沈黙はひとつのことだけを述べている。私たちはもはやどこに行けばいいのか分からないのだと。3月11日以来、日本の悲しみがより強く響いてくる。

 翻訳:坂本安美

本文中で、『サウダーヂ』の出演者の名前や、監督の職業について事実と異なる記載がされていたので、正しく訂正させて頂きました。

 

いくつものパッサージュ

2011年7月24

 

 東横線の中で『旨い定食 途中下車』(光文社新書)を読んでいた。著者の今柊二さんの本は定食関連に限って何冊も読んでいる。「定食関連」と書いたのは、彼が書いたガンダム関連の本を読んでいないからだ。行ったことのある店もあったし、行ったことのない店もあった。行ったことのある店については、彼の感想に同意する部分もあったし、「そうかな?」と思う部分もあった。でも、この本を貫いている彼の姿勢は共感できる。

 どんな姿勢か? たくさんの定食屋さんが沿線別に記述されていて、たまたま東横線に乗っていたぼくは、東横線の部分(冒頭だ)から読んでいったが、私鉄沿線の駅でぶらりと降りて定食屋さんと古本屋を回る彼の姿勢が良い。がつがつしていない。めざす店に一気に向かうのではなく、まず駅についての記述から入り、街の雰囲気に触れ、そして定食屋さんに出会う。私鉄沿線の小路の商店街の雰囲気、なかなか良いよね。たくさんの人々が行き交っている。彼自身もベンヤミン風に書けば「遊歩者」なんだ。私鉄沿線の商店街を作っている小路は、ガラス張りの天井こそないものの(もちろん武蔵小山のパール街みたいにガラスの天井がある商店街も存在しているけど──アーケードって言うんだった!)、まるでベンヤミンが死ぬまで書き続けた「パッサージュ」みたいだ。

 そんなことを考えていたら、すごく悲しくなった。本家本元のパリのパッサージュのことを思い出したからだ。

 セーヌ左岸のぼくのアパートからは右岸にあるパッサージュはけっこう遠い。もともと映画館などパッサージュにはあまりなかったから(といっても当時ドミニク・パイーニがやっていたステュジオ43はモンマルトル通り43番地にあったので、いろんなパッサージュにも近かったが)しばらくの間、パッサージュと縁がなかった。パッサージュは、むしろ劇場の記憶と結びつく。サッシャ・ギトリが長いこといたエドゥアール七世座周辺を散策したり、オペラ・コミック座周辺を歩くと、至る所にパッサージュが走っていた。後にパッサージュ・パノラマにある映画専門の書店にも行くようになった。パッサージュを歩くと、パリの成り立ちが本当によく分かった。グラン・ブールヴァールと劇場、そして商店街を形成するパッサージュ。80年代も後半になると、たとえばギャルリー・ヴィヴィエンヌに進出したジャン=ポール・ゴルティエのブティックのように、そうしたパッサージュにも新進のデザイナーの店が現れはじめた。

 さっき「すごく悲しくなった」と書いた理由? 確かにパッサージュを歩いているとハッピーにはなるけど悲しくはならない。別の「パッサージュ」のことを思い出したからだ。パリでパッサージュの走るのは旧オペラ座の裏当たりばかりではない。バスティーユからレピュブリック周辺にも多くのパッサージュが走っている。いちばん愛着があるのはパッサージュ・ドゥ・ラ・ブールブランシュ。雪玉小路とでも訳すんだろうか? そこに30年近く存在していたのは「カイエ・デュ・シネマ」編集部だった。80年代末期から今世紀になるまでいったい何度通ったことだろう。左岸のホテルに宿を取って86番のバスでフォーブール・サンアントワーヌで下車し、目の前のパッサージュに入り、中庭を抜けたところに「カイエ・デュ・シネマ」はあった。いつも迎えたくれたのはクローディーヌ・パコ。出版局長でカイエのゴッドマザーでもあった。とてもタフなネゴシエーターだったけれど、タイトな話が終わると、ときどき一緒に昼食に行った。当時カイエの編集長だったティエリー・ジュスも一緒のことが多かった。タフでタイトな話を忘れて、彼女たちといつも通ったレストランも「ル・パッサージュ」という名前のアンドゥイエットがとてもうまい店だった。そのレストランは、カイエの事務所から歩いて10分近くかかるパッサージュ・ドゥ・ラ・ボングレーヌにあった。そのレストランではいろいろなことを話した。カイエの企画のこと、ゴダールのこと、カラックスのこと、ロメールのこと、エドワード・ヤンのこと、デリダのこと、ドゥルーズのこと、北野武のこと……。昼食を食べ終わるともう午後4時頃になったことも何度もあった。いつもクローディーヌが奢ってくれた。

 悲しいのは、そのクローディーヌ・パコが亡くなったからだ。カイエの最新号の冒頭はクローディーヌの追悼文がある。彼女を雇ったセルジュ・トゥビアナの追悼文。彼女は1951年の生まれ、つまりカイエが生まれた年に彼女が生まれた……ちょっと涙ぐんだ。そしてディエリー・ジュスの書く追悼文のタイトルは、”9, passage de la boule blanche”。彼にとってもカイエとは雪玉小路の同義語なのだ。アンドレ・テシネの『野生の葦』についてクローディーヌの話したとき、彼女はこんなことを言っていた。「私の息子も映画に出てくる男の子の同じようにラグビーをやっているのよ」「ポジションは?」「第2列」「じゃ大きいんだ!」「頼もしいわよ」……。考えてみればクローディーヌ自身がカイエ・デュ・シネマにおけるパッサージュのような人だった。

 

日本映画の風景をめぐる状況について

2011年7月6日

 

 3.11以降の日本映画。たとえ、それらが3.11以前に撮影されたにせよ、3.11を体験したぼくらの眼差しは、それらを同じものとして捉えてくれない。イーストウッドの『ヒアアフター』が何かの前兆のように公開され、3.11という重要な日付を過ぎ、次第に3.11をめぐる様々な映像がぼくらの視界に入ってくる。真っ黒い壁のような津波が仙台空港を襲う映像、まるで大空襲後の東京のような、原爆後の広島のような三陸地区の市町村、そして、建屋が吹き飛ばされ白い蒸気を上げ続ける福島原発。それらは映画を越えた事実でしかない。事実が映画を越えてしまったとき、それが撮影された時刻に関係なく、映画は「事後」の相貌を見せ始める。惨劇の後、惨劇の模様ではなく、惨劇の後という意味においての「事後」。たとえばセルジュ・ダネーならば、アウシュヴィッツ以降の映画、つまり『夜と霧』以降の、『ヒロシマ・モナムール』以降の映画と言った。映画には、確実に「事前」と「渦中」と「事後」が存在する。

 おそらく「日本映画」を包む風景は、3.11以前から崩壊を始めていた。地方都市のシャッター・ストリート化、「16号線的風景」、「ファストフード化」……。その崩壊にさまざまな言葉が与えられてきたにすぎない。シャッター・ストリート化の反対物として、都心の高層化があり、「ヒルズ」的なものや、ショッピングモールがあるのだろう。だが、それらは決して崩壊の反対物ではなくて、スカイラインが奇麗に揃っていた銀座に、先回扱った松坂屋の跡地にビルが建ったり、統一感のあった表参道の同潤会アパート群の後に表参道ヒルズができたりすることは、やはり何かの崩壊と同義語なのだ。日本のどの場所でもよいが、映画を撮ろうすれば、否応なしにその「崩壊」と関わらざるを得ないことになる。

 そして、「崩壊」の風景が、「事後」の風景として決定的なまでに定着しているのは、東京からさほど離れていない千葉、そして山梨という地名を持つかも知れない。真利子哲也の新作『NINIFUNI』が見せる外房の海岸、あるいは空族の『サウダーヂ』の山梨の風景は、その何もなさにおいて、あるいは、その空白性において、明らかに「崩壊」であり、「事後」の風景そのものだった。ベストセラー漫画を原作にしたフィルムや、ライトノベルの映画化とは別に──つまり、マーケティングの原則のみに則った映画とは別に、現在の日本の風景と誠実に接することで映画を撮ろうすれば、この「崩壊」の「事後」の風景はぜったいに映ってしまうし、その風景を背景に人物を立たせることなしに、現在の日本で映画など成立するはずはない。

 だが、「事後」の風景が見せる「何もなさ」に伴う、どこまでも抜けのよい風景の中にいる登場人物たちが背負っている関係性は、その抜けのよさとは正反対に、絶対的に閉塞している。豊かで多彩な出会いをいくつも経験できる人間関係は、その風景の中で欠落している。共に暮らしていても、蓋tりの間には決定的な行き違いがあり、「何もない」風景の彼方にクルマを走らせても、その果てに街があるわけではなく、そののっぺりした何もなさは永遠に続いていくようだ。人と人が出会うことさえ不可能なほどに「何もない」「誰もいない」風景の中で、登場人物たちが途方に暮れている。あるいは、出会いなどあっさり諦めて、言葉もなくクルマを走らせるだけだ。それぞれの街が持っている固有名の重さはどうでもよいものになり、地名の持っていた単一性も唯一性の必然ではなくなる。陸地とか海岸とか一般的な名詞しか持たない地ばかりが風景を構成するようになり、固有名の必然は消滅する。気仙沼も宮古も釜石も同じだ。そこは「事後」の世界がどこまでも広がっている海岸に過ぎない。

 小津安二郎の北鎌倉、成瀬巳喜男の柳橋、川島雄三の品川──日本映画の黄金時代を形成した映画作家たちは、決まって固有名のある場所を描いたものだ。彼らの土地への執着こそ、彼らの映画を成立させるエンジンだったと言ってもいい。ぼくらは、横須賀線の北鎌倉を通ると『晩春』を思いだし、浅草橋駅の陸橋を総武線が通ると、ここの駅で下車した田中絹代とともに『流れる』を思いだし、山手線が五反田から品川へと右に大きくカーヴを切るとき『幕末太陽伝』の冒頭を思い出したものだ。だが事後の世界には、そうした特権的な固有名と豊かに戯れる映画が生まれることが不可能になった。

 思い出してみれば、すでに今世紀に入った直後、「小説家」青山真治は、そうした「何もない風景」なくしては創造することのできない小説『死の谷95』を発表していた。東京と海を隔てた千葉県の「何もない風景」がこの絶望的な小説のエンジンだった。聞けば、もともとこの小説は映画のシナリオとして記されたものだという。『東京公園』で「まっすぐに人を見つめる」ことで、希薄化され続けた他者との関係性をもう一度結び直す決死の行動は、そのフィルムのためにだけ実現されたわけではない。いくつもの迂回路を経て、いくつもの断絶や、いくつもの絶望を経て、ようやくたどり着いた行動だったことになる。三浦春馬が住んでいる日本家屋から、彼が井川遙を追う公園までどうやってたどり着いたかは分からない。彼と小西真奈美が歩く夜の公園まで、ふたりがどんな経路を辿ったかは分からない。だが、その途中には、いつ果てるとも知れない「何もない風景」が広がっていたことはまちがいない。その間にある風景は、『NINIFUNI』の宮崎将がクルマの中から見つめていた誰もいない荒れ果てた海岸だったかもしれない。

 日本映画は極めて困難な場所にあると言わなければならない。困難な場所にある、とは、「シネコンが映画を殺す!」といった意味のない常套句の中に収まるような経済的な困難ではない。経済的には、日本での映画のシャアとしては、日本映画が外国映画を凌駕しているのだから、むしろ日本映画は好況とさえ言えるかもしれない。困難な場所とは、文字通りの、場所、つまり、日本映画が撮影しなければならない日本という場所の困難さだ。ヒットする日本映画は、宮崎アニメだったり、ミリオンセラーのマンガやライトノベルが原作だったり、いずれも「何もない風景」や「誰もない風景」と無関係に成立するものが多い。もし映画作家が誠実に自らの周囲に展開する、3.11以降、宮古や気仙沼のような「何もない風景」に眼差しを向けるとしたら、そこには人と人が関係を結ぶことさえ困難な場所を見つめるしかない。多くの人々は、そうした風景から目を背け、そうした風景があることを知りつつ見ないふりをしようとして映画館に逃げ込んでいるのかも知れない。最近の、野心的で、しかも誠実でもある映画作品は、人々があえて目を逸らそうとするそうした風景を意思として見つめることを選んでいる。

 

まつりのあとに (1)

 カンヌから帰ってからの2週間ほど、パリのいくつかの上映施設で、「ある視点」、監督週間、批評家週間の諸作が、いくつかの上映施設で特別上映されていた。その中で、カンヌでは見ることのできなかった作品をいくつか見ることができた。

「ある視点」部門オープニング作品、ガス・ヴァン・サント『Restless』は、死に至る病を背景にしたラブコメ(平たく言えば「難病もの」)という物語にやや鼻白んだものの、これが悪くない。その理由は、デニス・ホッパーの息子ヘンリー・ホッパーと、『アリス・イン・ワンダーランド』の記憶も新しいミア・ワシコウスカのカップルを、いかに魅力的に撮るかということに映画が徹していたからだ。余計なイメージショットに見えてしまう所も多々あるけれど、ぼーっと見ていると死という主題を扱っていることをほとんど忘れてしまうほど、彼らの姿は生き生きと画面に定着している。彼らの悲しい運命=物語は、ヴァン・サントにとってふたりを撮るための、ほとんど方便だったのではないかとさえ思う。画面とその繋ぎがあまりに緩く、これが『ジェリー』を撮った人の映画なのかと脱力したのも正直なところ。しかしこの「緩さ」なしにはこの映画は成立しなかったのだと、ラストのヘンリー・ホッパーを捉えた何気ない、しかし素晴らしいワンショットには感じさせられた。自己模倣の極みだった『パラノイドパーク』から『ミルク』への変化ほどのインパクトはないものの、これはこれで異様な作品であるように思う。それに加えて、今作において文字通り「ただそこにいる」存在としての幽霊を体現する加瀬亮には、どこか『デッドマン』のジョニー・デップのパロディのような歪さがあったことは気になった。それはこれまでのヴァン・サントの作品では感じなかったようなものだったが、いったいどんな演出がそこには介在していたのだろう?

移民問題を背景に、黒人の少年たちによる白人やアジア系少年たちへの「ゆすり」を、強烈な長回しで捉え続けることに徹した「監督週間」のRuben Ostlund『Play』。今回見たカンヌ関連の作品の中でもトップクラスにハードコアな作風で、無数の暴力が画面の内外から唐突に訪れる瞬間を捉えることに成功している。同じく監督週間作品のJean-Jaques Jauffret『Après le sud』と並べてみたくなる、派手さはないけれど力のある作品だ。しかしながら、疑問が残るところもある。長いワンショットは、ルノワール、あるいはタチの映画のように、確かに私たちの硬直しがちな「視線」を解放する。けれども、それらひとつずつのショットが蓄積していくと、当然そこには黒人の少年たちに対するある種のネガティヴなイメージが不可避的に生成されてしまうだろう。その点について、このフィルムはいささか自己批判的な視点を欠いているように見えたのだった。ショットの美学的な力に引きずられるがゆえに、モンタージュにおける倫理的な思考が欠如してしまっていると言えばよいだろうか……もちろんそれはこのフィルムの果敢な挑戦を踏まえた上での疑問であることは言い添えておきたい。

 監督だけでなく若い出演者もたくさん会場に現れて、いつもとはちょっと違う空気をシネマテークに吹き込ませてくれた「批評家週間」のDelphine Coulin, Muriel Coulin『17 filles』。一時話題となった女子高生の「集団妊娠」を題材にした作品。スキャンダラスな物語にも関わらず、映画自体はなんと言うかとてもおおらかなものだった。オープニングの身体測定のシーンから、女の子たちは惜しげもなく下着姿を披露してくれるのだが、そこにエロティックな要素を搾取するような視点はまったくない。物語や説話やらといった「制約」をうまくかいくぐって、単純に女の子たちがみんな魅力的に撮られているという点だけで好感が持てる。作中にも出演しているノエミ・ルヴォフスキの『人生なんて怖くない』には及ばないけれども、青春映画の現代におけるひとつのヴァリエーションとして、悪くない作品だと思う。
ところでこのフィルムでは、説話上、必然的に介在するはずのセックス描写がほとんどない。それどころか男たちの姿というものはほとんど積極的に画面から排除されていて、たまに現れると道化かさもなくば暴力の象徴として、記号的にあっけらかんと処理されてしまうばかりだ。つまり悪く言えば、このフィルムは性差という絶対的な区別のもとで、ひたすらに閉じられてしまっている作品でもある。そんな中で、主人公の兄の姿だけには例外的な親密さがあり、ほとんど近親相姦的な関係として映し出されていたことが印象的だった。この要素がクロースアップされていたら、もう少し別の方向へとこの映画を開かせる可能性もあったかもしれない……と思いつつ、それが良いことなのか悪いことなのか、ちょっと判別に迷う。

横浜松坂屋に続いて銀座松坂屋もなくなる

2011年6月9日

 

 松坂屋は空いているな、といつも思っていた。銀座のデパートでは松屋が好きだ。大きくはないけれども、なんとなく買いやすい。7階の「デザイン・コレクション」をゆっくり見るのも長年の習慣になった。紳士服の5階も、ブランドの選択がかなりよいと思う。改装後の三越も行ってみたけれども、新館と旧館の2つの建物が一体化していないし、以前のほどよい大きさの三越の方が好きだ。

 そして松坂屋! 今日の主題だ。友人のひとりはデパ地下は松坂屋がいちばんだ、と言っていた。まさか! あそこは何もないじゃん。いや、いちおう何でも揃っている。すごいものは何ひとつ置いていない。それに空いている。だからいちばんだ。特に松屋の地下は混んでいるし、けっこうテナントが変わるでしょう。松坂屋は買うものさえ決めておけば、売り場が空いているからすぐに終わる。早い。だから松坂屋がいい。

 つまり、空いているから買いやすいっていうことだ。松屋にも三越にもないけれど、松坂屋にあるのは資生堂パーラーくらいかもしれない。子どもが小さい頃は、彼を連れてオムライスを食べに行った。でも、本物の資生堂パーラーも、ほぼ松坂屋の正面にあるよね。希少価値というわけではない。やばい! 今、調べてみたら松坂屋の資生堂パーラーは、20092月に閉店! ちょっと年取ったボーイさんなんかはどこへ行ったのかな? これで松坂屋は、ホントに何もなくなった!

 銀座松坂屋は建築としてなかなか素敵だ。長谷部鋭吉という人が1952年に設計した。全面ガラスと金属によるカーテンウォール。モダニズムそのものの四角い箱ではあるけれども、今は青木淳の意匠が全面を被っているけれど、本当は伝統的な百貨店建築である松屋や、三越よりもずっとモダンだ。この空間をそのままリノヴェーションする方法も見つかるだろうし、その中にはきっと魅力的な解答もあるだろう。

 もちろん、松坂屋サイドでも空いているのは困るわけで、いろいろ工夫はしてきた。まず高層ビルで再開発っていう最低の解も世に問うたことがあった。確か2002年頃だった。森ビルが中心になって松坂屋の周囲まで地上げして超高層という案だった、でも周囲の商店街から総スカンを食った。松坂屋の裏にある、ぼくが贔屓にしているバーも、この再開発で閉店になるはずだったが、今でも生き延びいている。銀座には銀座としての街の生業があるってわけだ。銀座は六本木じゃない。ショッピングモールなんていらない。俺たちはもともとストリートなんだ。正しい意見だ。で、松坂屋は、ラオックスやフォーレバー21をテナントにした。大家さんとして稼ごうとしたわけだ。これもイージーな解だね。立地がいいのだから、それを活かして店子を募る。

 でも、ラオックスは銀座になくてもいい。秋葉原でいいよね。フォーレバー21だけは人が入っているようだった。近くにH&WやユニクロもZARAもあるから、相乗効果だったのかも知れない。でもフォーレバー21だけが混んでいて、従来からの売り場は相変わらず。並ばなくてもよいデパ地下はそのまま。渋谷の東急フーズショーなんかとえらい違い。

 でも森ビルは諦めていなかったんだね(http://blogs.yahoo.co.jp/guntosi/60671875.html)。昨日、銀座松坂屋が2013年に閉店されることが発表された。再開発地域は2002年と一緒。でも今回は、「銀座ルール」(http://www.ginza-machidukuri.jp/rule/district_rule.html)を守って56メートル。地上12階、地下6階で、大駐車場、駐輪場、多目的ホール(地下1階)、6階までが店舗、7〜12階までが事務所。ちなみに設計は谷口吉生。松坂屋とその別館(裏にある壊れかかっているけど、リノヴェーション意欲がそそられる建物)、さらにその周囲のビル(このひとつの地下にぼくの贔屓のバーがある)を巻き込み、最終的には13の地権者が合意して銀座松坂屋がなくなることになった。地権者を説得して、大規模な再開発をやるという森ビルの方法だ。この方法自体、不動産屋のやり方そのものだ。六本木ヒルズも表参道ヒルズも同じやり方。すごく手間がかかるけれど、地権者が全員了解している。森社長はこの方法を自画自賛している。今まで銀座にクルマを止めるのも大変だったし、ましてやチャリの駐輪場まで作って、「みんな」に協力しているんだぞ、というわけだ。大きなお金が動いて経済も活性化する、だからいいことなんだ、という論理。

 溜息が出てくるなあ。横浜松坂屋も取り壊されてショッピングモールになるらしいし、銀座松坂屋も無くなって、巨大なビルになる。東京R不動産が支持を集める世の中なのに、まだバブル期の残像を引きずっているようなやり方に溜息が出てくるなあ。今ちょうど『ジェイコブズ対モーゼス』(アラン・フリント著)という本を読んでいる。この本の書評に柄谷さんはこう書いていた。「本書は、一口でいうと、1950年代から60年代にかけて、モーゼスという人物が強引に推進したニューヨークの再開発を、ジェイコブズという主婦が阻止した事件をあつかっている。(……)モーゼスは60年代に、ローワーマンハッタン・エクスプレスウェイを建設しようとして、再び、ジェイコブズの反対運動によって挫折し、完全に没落してしまった。彼女がいなければ、モーゼスは勝利したかもしれない。そうすれば、ニューヨークは地下鉄やバスのない自動車化した都市になっていただろう。しかし、本書を読みながら、私が考えていたのは、日本においてなぜ原発建設を止めることができなかったのか、止めるにはどうしたらいいのかということである」http://book.asahi.com/review/TKY201105170210.html)。原発だって、福島の人も最初は納得してつくったのだけれども、結局、ひどいめに会っている。もちろん、銀座松坂屋と原発を比べるのは飛躍しすぎとぼくも思うけれども、さっき日立の社長が、新興国のニーズがあるから、これからも原発をつくるぞ、と言っているのをテレビで見た。儲かれば何をしてもいいんだ、とむき出しの資本主義でものを言うのは、3.11以降──もちろん、それ以前だって──決定的にまちがっている。

 それより、かつての空間が、何らかの理由で、銀座松坂屋や横浜松坂屋のように、今のぼくらにそぐわないものになったとしたら、その空間を壊して再開発するという解ではなく、その空間をどうやってリユースして、今のぼくらにふさわしい空間に変貌させることができるのか、というもっと難しい解を探す魅力的な時間を持ちたい。

 

カンヌ映画祭総論 ツリーがパルムへ

 ツリーがパルムに

カンヌ映画祭2011 総論

 ジャン=マルク・ラランヌ(「レザンロキュプティーブル」編集長)

 マリックがパルム・ドール、ダルデンヌ兄弟とヌリ・ビルゲ・ジェイランが再び(グランプリ)受賞。映画祭そのものよりもインスピレーションに欠けた受賞結果となる。

  一年半前から、すでに『ツリー・オブ・ライフ(原題)』が2010年のカンヌ映画祭のイベントになると考えられていた。しかし最終的に2010年の映画祭には間に合わず、テレンス・マリックの新作は、翌年の映画祭まで、この世に誕生するのを待つことになった。まるでこうした作品が日の目を見るためにはカンヌ映画祭を必要としているかのようだ。時間をかけて構想する(=妊娠する)という選択は報われ、『ツリー・オブ・ライフ(原題)』はパルム・ドールを獲得した。

 この評価が逆説的なのは、それが予想されていたことであると同時に、思いがけないことであったからだ。予想されていたとするのは、新聞紙上では、マリックがパルム・ドールを獲得するのは当たり前のように思われていたからだ。テレンス・マリックは、現代映画界において、よい意味でも悪い意味でも、徐々に、もっとも強力な神話のひとつになってきた(よい意味では、それは彼の途方もない才能のために、悪い意味では、姿が見えない、ほとんど現れないという、天才についての多少古びた神話を生きているから)。しかしカンヌでの上映以来、パルム・ドール受賞はそれ以前より確実ではないように思えた。『ツリー・オブ・ライフ(原題)』はカンヌ映画祭の多くの観客を当惑させ、そして意見は大きく分かれた。

 この作品にパルム・ドールを与えることは、最終的に、かなり強固、頑固とも言える意志に貫かれた行為であると言えるだろう。なぜなら『ツリー・オブ・ライフ(原題)』は、だめな部分を見過ごしても、とにかく好きになるべき作品だからだ。そしてこの作品を好きになることはそんなに難しいことではない。マリックという物語作家の才能、点描画家のように小さな出来事を細かく拾い上げながら、ひとりの男の人生、そして人類の軌跡を語るその方法は驚嘆させられる見事なものだからだ。したがって、常軌を逸していて、見事であると同時にどこかぎくしゃくとしたこの作品を目にすると、『ツリー・オブ・ライフ』がパルム・ドールを受賞したことは毅然とした選択に思える。

 その他の受賞作品については、それよりは毅然とした選択だとは言えないだろう。グランプリを二作品に与えたことは、折衷主義的な審査団が了解に至るのが難しかったことを示唆している。おそらく、ダルデンヌ兄弟の作品をこれまで一度も見たことのなかったアメリカ人俳優は、『自転車に乗った少年(原題)』に新鮮な驚きをおぼえたのだろう。しかしこの兄弟の映画のファンにとっては、そこまで重要な作品に思えなかったかもしれない。ダルデンヌ兄弟にもう一度、重要な賞を授与することの意義はあまり感じられない。しかも受賞経験があり、グランプリも二度目であるヌリ・ビルゲ・ジェイランにも同じグランプリを与えている。少なくとも、『ドライヴ(原題)』(非常に才気ある選択であるか、逸話的な選択と考えるか、おそらく両方だろう)をどのように思うにせよ、ニコラス・ウィンディング・レフンに監督賞を授与したことは、発見しようという審査団の意欲を示しているだろう。

 しかし、この受賞リストに不在の作品を思うと、この結果には失望を感じざるを得ない。多少なりとも順応主義的な傾向にあるとは言え、カンヌ映画祭でつねに高く評価されてきた二人の作家、アルモドバルとカウリスマキの新作が受賞しなかったことは驚きだ。より大胆な傾向にある作品、たとえば素晴らしいボネロの『アポロニド、娼館の思い出(原題)』が受賞しなかったことはまったくもって悲しいことだ。そしてアラン・カヴァリエの『パテール(原題)』についても同様だ。『パテール(原題)』は映画祭には「大きな」作品が相応しいという考えを再構築し、転換させる作品の一本である。小さいながらも、同時に大きな広がりを持ち、映画がこうであると考えられていたり、製作されていたりするのとは逆を行く、この非常に現代的な作品に賞を与えることができたら、昨年の『ブンミおじさんの森』のパルム・ドールと同じぐらい力強い態度を示すことができただろう。2011年度の審査団がその機会を逸してしまったのは残念である。今年は、二本の「大きな」フランス映画がコンペティションに出品された。『アーティスト(原題)』の主演男優ジャン・デュジャルダンと、マイウェンの『ポリス(原題)』だ。審査員たちはこの2本に賞を与えることを選択したのだ。

 しかしながら、強い印象を残す決断があった。それは記者会見でのラース・フォン・トリアーの暴言にも関わらず『メランコリア(原題)』にひとつの賞(主演女優賞)を与えたことだ。カンヌ映画祭当局は監督本人の出場資格は剥奪しても、映画の出品を取りやめることはしなかった。審査員たちはこの自由を大いに行使し、何はともあれ、彼の作品を支持した。そして主演女優賞を受賞したキルスティン・ダンストの演技はまさにそれに値するものだったと言えるだろう。

 こうして今年の受賞結果は、私たちが体験した映画祭のレベルには到達せず、複雑な感情を生むことになった。そう、私たちは非常にいい映画祭を過ごしたのだ。

 

ロッテ・レニアと『Speak Low』

2011年5月31

 

 大学で長い会議が終わった夜、職場の同僚をクルマに乗せて、ある駅まで送ったときのことだ。キーを差しこみ、エンジンがかかると、CDが回り始めた。突然、『Speak Low』が流れた。そのアルバムは、ダイアン・シューアの『Love Songs』というアルバムで、そのころクルマの中で毎日聴いていた。『Our Love is Here to Stay』や『September in the Rain』という大好きな曲も収録されていた。ダイアン・シューアは、生まれながらに盲目のジャズシンガーだ。ダイアナ・クラールみたいにセクシーじゃないけれど、彼女のヴォーカルは極上だ。

 同乗していた彼は、ぼくに言った。「男しか乗っていないクルマには似合いませんね。それに家族の待っている家に帰る時に聴く曲じゃない。仕事が終えて愛人の部屋へ急ぐときにはピッタリだけど」。正しい。「愛を語るときは、小声でね」で始まる歌詞は、シェイクピアの『空騒ぎ』の台詞から取られたものだ。確かに、妻子の待つ家庭へ帰るのに、『Speak Low』は合わない。「まあ、いいじゃない。夜の第3京浜には合っていると思うけど」。「ええ、まあ。でも、この曲、確か、クルト・ワイルですよね。クルト・ワイルのメロディー・ラインっていいですね」。フリー・ジャズや現代音楽の専門家である彼の耳に、ぼくがクルマで聴いている曲を聴かせるのはちょっと恥ずかしいことだったけれど、「クルト・ワイルのメロディー・ラインがいい」という彼の指摘はちょっと嬉しかった。

 あれから何年経ったろうか。それからクルト・ワイルの楽曲をよく聴くようになった。たとえば、ここ20年くらいクルト・ワイルと言えば、必ず彼女を思い出すといってもいいくらいの、ウーテ・レンパーが歌うワイル。彼女も『Speak Low』は歌っているけれども、レンパーだったら、『マック・ザ・ナイフ』などのブレヒト=ワイル時代の曲の方がいいだろう。レンパーのドイツ語によるワイル──ヴァイルと書いた方がドイツ語っぽくていいかな──を聴いていると、正調・ブレヒト=ヴァイルも聴きたくなる。もちろんロッテ・レニアの出番だ。(http://www.youtube.com/watch?v=iJKkqC8JVXk)  ロッテ・レニアは、クルト・ワイル夫人だ。Youtubeなどでロッテ・レニアのパフォーマンスを見ていると、ヴァイマール共和国時代のベルリンが思い浮かぶ。ブレヒトやマックス・ラインハルトが活躍し、多くのキャバレーがあって……。たった15年間のことだったが、ヴァイマール文化がなければ、今のぼくらの文化なんてぜったいあり得なかったろう。ブレヒトやワイルばかりじゃない。グロピウスやミースのバウハウス、パウル・クレーなどの絵画……数え上げればきりがない。乳母車一台分の紙幣でやっとパンが買えたという例え話があるほどのインフレで、生活は大変だったろうし、そのことがナチの勃興の一因にもなっているわけだが、それでも、ヴァイマール文化の果たした役割の大きさは計り知れない。

 ウィーンに生まれたロッテ・レニアは、女優を志してチューリッヒの演劇学校に通い、後に、ベルリンに出る。そして、オーディションの末、『三文オペラ』のジェニー役を得る。ヴァイマール末期、ロッテ・レニアは、ブレヒト=ワイルの舞台の中心にいた。そして1933年、この年にベルリンを去った多くのアーティストたちと同じように、彼女もパリを経由してニューヨークに亡命する。ワイルはニューヨークでグループ・シアターの人々と知り合い、後でミュージカルになる『ジョニー・ジョンソン』をポール・グリーンと一緒に作っている。いろいろ調べてみるとロッテ・レニアは大変な女性だったようだ。周知の通り、クルト・ワイルとは1度離婚して、もう1度結婚している。クルト・ワイルとロッテ・レニアは、ワイマール時代のベルリンからナチの勃興によってアメリカに亡命していたのだが、ロッテ・レニアは、ワイルとの最初の結婚のドイツ時代にも、そして2度目の結婚をしたアメリカ時代にも、何人もの愛人がいたらしい。クルト・ワイルとの2度目の結婚は、クルト・ワイルが亡くなった1950年まで続くが、『ジョニー・ジョンソン』のポール・グリーンは、ロッテ・レニアの「最初のアメリカ人の愛人」と言われている。『Speak Low』が生まれたのもそんな頃の話だ。ワイマールのベルリンから、パリを経由してニューヨークへ移住するという大変な時期に、クルト・ワイルは同じ女性と2度結婚し、2度目の結婚直後に、ロッテ・レニアはもうアメリカで最初の浮気をしている。「愛を語るときは、小声で」というとってもロマンティックな曲は、そんな公私共々「激動」の時代にできたということだ。

 クルト・ワイルが亡くなった年、彼が音楽を担当した映画が封切られた。『旅愁』だ。監督は、やはりウィーン生まれのウィリアム・ディターレ。ジョセフ・コットンとジョーン・フォンテインが演じる甘い甘いメロドラマ。主題歌を歌っているのはモーリス・シュヴァリエ。あの『September Song』だ。ここでもまたメロディー・ラインが極めて美しいラブソング。激動の時代をかろうじて生き抜き、妻に裏切られ続けても、ワイルは、ラブソングを書き続けた。ケン・ラッセルが、クルト・ワイルの名曲を歌うロッテ・レニアを1962年に映像に収めている。(http://www.dailymotion.com/video/x6gtsw_lotte-lenya-sings-kurt-weill-ken-ru_music

 ぼくと『Speak Low』をクルマの中で聴いたのは、一昨年に亡くなった大里俊晴だ。彼とクルト・ワイルのことをもっと話したかったな。

 

Report from Cannes 06 | 5月21日

 カンヌ滞在最終日。目覚めは9時半。連日の疲れからか、完全に寝坊。荷造りを済ませ、最後の上映へと向かう。毎朝お世話になったホテルのビュッフェへ向かうも終了時間ギリギリで、まともにパンもベーコンも残っていない有様。ま、今日はどうせ1本しか見る時間がないのだから軽くでいいかと思いつつ、ちょっと硬めで噛みごたえのある、お気に入りのクロワッサンを食べ納められなかったのは残念無念。
カンヌ最大の上映ホール、Grand Théâtre Lumièreへ初めて入る。収容人数は2500人。よく考えるとこんなに沢山の人たちと映画を見るのって初めてじゃないだろうか。バルコニー席ほぼ中央の素晴らしい位置を確保して、コンペ外作品、クリストフ・オノレ『Les Bien-aimés』の開始を待つ。クロージング作品だし、午前中の上映ということもあって、後ろにはチラホラ空席も見えるけれど、中学生くらいと思しき少年たちの姿なんかもあって、ちょっと嬉しくなる。日本の映画祭で中学、高校生の観客の姿って、ほとんど見たことがないな。

僕はオノレを『Dans Paris』しか見ていない、文字通り「悪い観客」である。『Dans Paris』はいい映画だと思っていたけれど、その後の作品は特別上映などの機会を逃してしまい、こちらで公開されていた『Homme au bain』にもなんとなく足が向かなかったまま。だから、オノレという作家については無知極まりない身分ではあるけれど、この『Les Bien-aimés』には、びっくりするくらい感動した。評判はどうやらあまり芳しくないのは、プレス・コンフェランスの閑散振りを見ればわかるし、それも頷けるような「弱さ」があちこちにあることは認めなければいけない。でも、そういった「弱さ」こそが何よりも捨ておけないのだ。
1964年、リュディヴィーヌ・サニエ、そして後半部ではカトリーヌ・ドゥヌーヴが引き継ぐこのフィルムの主人公マドレーヌの働く、パリの一角の靴屋からこのフィルムは始まる。冒頭の店の中を歩き回る足の交錯は、槻舘さんが言うように『恋愛日記』であり『ゴールデン・エイティーズ』だ。そこから、いわば「おフランス」的な色使いやセットのひとつひとつが、まごうごとなきクリシェとして立ち上がっていく。いや、『ゴールデン・エイティーズ』自体、それは既にひとつのクリシェを形作っていたのだから、このフィルムで繰り返されるのは、クリシェに対するクリシェだと見るべきだろう。要するに、『Les Bien-aimés』に許されているのは、いわば「孫引き」のオマージュでしかない。物語の展開点で挿入されるミュージカルのシーンは、もちろんある程度の多幸感を与えてもくれる。けれどその驚くほど稚拙なリップシンクの前で、私たちはどうしようもなくその「夢の世界」の手前に引き戻されてしまう。
『Les Bien-aimés』は、ジャック・ドゥミへの愛を隠さないし、そしてヌーヴェルヴァーグへの愛も隠さない。けれども、それはもう二度と取り戻すことができないものだということもまた、このフィルムは十分すぎるほど知っている。いつかの夢の余韻をそのままに生きることなど可能ではない。AIDSが蔓延し、ツインタワーが崩壊した「その後の世界」を、私たちは拒むことができない。『シェルブールの雨傘』や『恋愛日記』を可能にしたあの素晴らしき世界は、もうそこにはない。前半のポップな色調は、映画が現代へとその舞台を近づけていくごとに、少しずつくすんでいく。もう世界には、トリュフォーもドゥミもいない。このフィルムは2008年で物語を終えるけれども、それから2年の間にロメールやシャブロルも逝ってしまった。世界は終わり続けているのだ。
 でも、それでも失われた時代の映画への想いを生きていきたい、いやそれ無しでは生きていけないと、『Les Bien-aimés』は、まっすぐ告白する。 「あなた無しでも生きていくことはできる/でも、あなたを愛すること無しには、生きていけない」 と、終盤で流れたAlex Beaupainによるシャンソンは歌う。失われてしまったものへの私的な想いを馳せてのみ映画を作ってしまうことは、たぶんとても「弱い」ことだ。でも、『Les Bien-aimés』はそんな「弱さ」に寄り添って生きること、その「弱さ」に寄り添うという過酷を肯定するための術を模索することを諦めない。ダニエル・シュミットの『季節のはざまで』や、エドワード・ヤンの『ヤンヤン 夏の想い出』、あるいはデプレシャンの諸作を思い出しもする。けれども、彼らよりも圧倒的に若いオノレのような作家がこういった主題を手がけることは、彼らの場合とはまったく違う意味を持つはずだ。そしてそれは危険なことだし、簡単なことではまったくない。だからこそ、オノレは愚直にカトリーヌ・ドゥヌーヴ、そしてその別れた夫役にミロシュ・フォアマンの力を必要とする。ふたりの力を直接的に「借り」ることでしか、こういうフィルムを実現することなんかできないとでも言うように。もちろん、キアラ・マストロヤンニをマドレーヌの娘ヴェラ役に選んだことだって同じことだ。
実に安易だと思う。多分似たような趣向の映画は沢山あるだろうし、そういう映画の大半は個人的にも好きじゃない。けれども『Les Bien-aimés』がどうしようもなく愛おしくなるのは、そうやって借り受けた「記憶」に対して、「落とし前」をつけようともがいていることが、ありありと見えるからだ。たとえば、マドレーヌたち家族3人がパリでの久々の再会後にベッドに3人で横になって会話をする本当に愛らしく素晴らしいシーンがある。そのシーンの記憶がまだ乾かないうちに、今度はアメリカのホテルの一室を舞台に、ヴェラが自分が恋をしたゲイの男とその恋人とともに3人でベッドに寝転がるシーンを、今度は優しくも痛ましく映し出すことで、オノレはそれを「リメイク」する。
無論、完璧な出来だとは思わないし、安易であることには変わりない。でも、そんな壊れやすく危険な幻想を生きようとする、それもここまで愚直で必死な態度というのは、本当に久しぶりに見たような気がする。あらゆるすべてを失ったドヌーヴに、最後に訪れたほんの少しの奇跡は、誰にだって予想がつくような安っぽい「お約束」な演出だ。けれども「その後の世界」に生きる映画である以上、このフィルムはそうやってしか終わることができなかっただろう。僕はこの映画の全てを肯定する立場にありたいと思っている。そして、大切な人たちみんなに見てほしいと思う、そんな映画だった。

エンドロールの「マリー=フランス・ピジェに捧ぐ」の一節とともに、初めてのカンヌ映画祭は終わった。カウリスマキとボネロが見れなかったことが何よりも心残り。この文章を書いている今は月曜深夜にして火曜早朝。実質5日間程度しかカンヌに滞在できなかった僕には、当然のことながら受賞結果はまったくピンと来ない。まずは気を切り替えて槻舘さんと同じくパリで封切られたカンヌ上映作品をなるべく早く見に行きたい。それとともに、一刻も早くオノレの過去作品のDVDを探しにいかなければならないと思っている。

Report from Cannes 05 | 5月20日

 会期も終了に近づくと、上映数自体が激減する。マーケットの上映を加えればそれなりの数があるけれども、そちらにはプレスパスでは当然のことながらなかなか入れてもらえない。その反面、賞の発表が近づいていることもあって、プレスルーム近辺に集まる人々の数はどんどん増えているみたいだ。星取りが掲載されている「スクリーン」や「フィルム・フランセ」の日報は、昨日までだったら夕方近くでも余っていたのに、この日は朝10時過ぎには全滅である。
毎日余裕がなくて映画のことばかり書いていたけれど、槻舘さんやクレモン君に誘われて、一日の上映が終わると色んなパーティに連れて行ってもらったりもしていた。とある場で、坂本さんに現「カイエ・デュ・シネマ」のステファン・ドロームを紹介して頂いたけれども、突然のことでまったくうまく話せず、正直かなり凹んだ。せっかく気を使って頂いたのに、ごめんなさい、坂本さん。
ところで、こうやって毎晩毎晩、深夜3時4時まで街中でおめかしして大騒ぎしている様子の只中にいると、別に映画のことなんかどうでもよくて、ただただパーティが好きなだけの人もたくさんいるんだろうな、とか思えてしまう瞬間も沢山ある。だから、あまり素直にその場を楽しめなかったことは告白しておきたい。もちろん、招待された映画作品の関係者たちにはその時間を心ゆくまで楽しんでほしいと思うけれど、しかしそれとは別に凄まじいズレを感じてしまったのです。
会期中、とある上映を待つ列で、日本のメディアの人たちと思われる人たちが少し後ろに並んでいて、結構なヴォリュームの話声が耳に入ってきたことがあった。

「席は取ってもらってるからなー、一応入らないと」「上映の前に挨拶があるから、それが終わったら出て行けばいいんじゃない?」「そうそう、今日は美味い中華にでも行こうか」「いや、せっかくだから白ワインに牡蠣でも食べようよ……」。

もちろん、「祭」なんだから各々好きなように楽しめばいいんだし、こういう場所でハメを外すのは全然悪いことじゃない。そもそも、旅先で美味しいものを食べることというのは、無条件に素晴らしいことだ。でも、彼らのような人たちには、多分「映画」そのものは「食」と比べれば遥かにランクが低い、「オマケ」みたいなもんなんだろうな。「映画祭」という場は、映画を無条件に祝福する場所では必ずしもあるわけじゃなくて、映画をどうにかして食い潰そうとする人々がたくさん集まる場所でもあり、それは「カンヌ」という場でも同じなのだろう。この感覚だけは、忘れてはいけないと思った。

さて、昨日お披露目となった残り少ないコンペ作品のひとつ、ペドロ・アルモドヴァル『La piel que habitode』へ。前作『抱擁のかけら』は巨匠の貫禄を漲らせた重みある傑作だったけれど、今作はちょっと様子が違って「ヘン」なアルモドヴァルのラインである。英語タイトルは『The skin I live in』、「私の住まう肌」と訳せるだろうか。多分、ネタバレのないままに見てもらうべき作品だと思うので、細かいことはまだ書かないようにしようと思うが、タイトル通り、映画の中心におかれるのは「肌」であり、その主題を通してアルモドヴァルは、今日における映画の存在論を『抱擁のかけら』同様問い直している。「ヘン」なアルモドヴァルと書いたが、しかし今作では色彩やら人物の造形やらといった点における過剰さは、その物語の過激さに比べて抑えられていて、「皮膚移植」という「表層」の「操作」に取り憑かれた男と、それに対して暴力的に身体を切り刻まれることになる「或る女」の関係が、よりヒッチコックに接近したサスペンスとして描かれていく(このフィルムのアントニオ・バンデラスは、『汚名』あたりの、ちょっとイカれたケイリー・グラントに接近していたような気もする)。
このフィルムにおいて実に興味深いのは、「同じ人間が異なる人間になる」ことと「異なる人間が同じ人間になる」という、ふたつの「分身」に関わる問いが、物語の論理と映像の論理との間において、見事にパラレルなものとして成立していることにある。それを解説してしまうとネタバレになってしまうのだけれども、それを最終的に同時に肯定するものが「肌の上の肌」としての、たんなる一着の「ドレス」であるということは記しておきたい。そして、そのドレスに伴った結末の描写におけるあまりの「薄っぺらさ」は、『抱擁のかけら』のラストシーン、何のことはない劇中で撮影されたラブコメ作品のワンシーンの異様な「軽さ」と同様に、逆説的にアルモドヴァルの演出の凄みを感じさせられる何よりの瞬間だったように思う。

コンペ作品、ヌリ・ビルゲ・ジェイラン『Once Upon a Time in Anatolia』。2000年代カンヌ常連の作家だけれども、日本でまともに紹介されたことはほとんどなかったはず。僕にとっても初ジェイラン。映画は、殺人を犯したひとりの男が、自分が殺した男を埋めた場所を捜して、警察や検死医たちとともにアナトリアの荒野をパトカーでひた走り続けるロード・ムーヴィー的な前半部と、その男の「検死」をめぐる後半部で構成される。広大且つ寂寞とした風景を捉えた緊張感溢れるショットと、目の前で起こっている事態とはおそらく何の関係もないような登場人物たちの会話。おそらくはそのふたつの要素の関係性に何かを見出そうとしたフィルムであるのだろうが、それなりに笑えてしまう俳優たちのコメディタッチな身振りや台詞が、どうも中途半端な「妥協」のように見えてしまう感は否めない。どうせならば、ゴリゴリのハードコアに突っ切ってもらいたかったものだが、これは身勝手な感想だろうか。
ところで、殺人犯の男が死体を埋めた場所を発見することになるのは、映画が始まってから90分近くも経ってからのことである。「ここだ」という台詞に併せて場内から「おめでとう!」的な拍手が巻き起こり、場内は爆笑だった。ある意味、こういうリアクションを起こせることは凄いことだと思った。けど、ねえ……。

 

カンヌ映画祭日記⑦ 5/20-21

   5/20

    昨日のパーティの後、クレモン君とともにホン・サンス、イ・チャンドン、ポン・ジュノ、そしてなんとクレール・ドゥニ!と合流したからほとんど帰りは夜明けに…睡眠時間がここ数日3〜4時間のため、そろそろ体力の限界。今朝はどうにか頑張ってペドロ・アルモドバルの新作『The skin I live in』に並ぶ。今までイメージしていた色彩やタイトルバック、そしていつだって強烈な女優の顔ーー特にペネロペーーと比較すると…なんだろう、すべてが薄いのだ。この映画が皮膚を巡る物語であることを考えると映画の構造的にはアリなのかなと思ってはみたものの、一番薄かったのは私の意識だったと思うので公開されたらまた見ようと心に誓う。昼過ぎからはかなり評判のいいカウリスマキに再挑戦するもまた入れず。三本目の監督週間の作品『The giants』も30分前に着くものの、目の間の前で満員と告げられた。今日は本当についてない。上映する作品の絶対数が減っているからどうしても人は集中するのだろうか…しょうがないので、友達とお茶をしていると、独断と偏見で部門すら無視して何をパルムドールに選ぶかという話になる。カウリスマキ一票、ダルデンヌ一票、ジェフ・ニコルズでしょと言う人がいたり、河瀬(マジかよ)などなど、それぞれまったく意見は噛み合ないものの、ナナコパルムドールはボネロ『L'apollonide-Souvenirs de la maison close』に決定。夜はシネマテークの方々とディナーで、生ガキと白ワインでもう11時頃にはうつらうつら。いろんな誘いを断って今日は、早め…とは言っても1時過ぎに帰宅する。明日は私にとっては最終日。オノレの新作『Bien aimés』で締めくくられる予定。

 

   5/21

   朝からバタバタしつつ、荷造りを終わらせて、一番大きい劇場であるグランドリュミエールに向う。やはり、もう人はまばらになっていて数日前と比べて会場に入りやすい。前作の『浴室の男』も好きだけれど、今回はオノレお得意のミュージカルなので、スチール写真だけでかなりわくわくしていた。複数の女性の足から始まる映画のファーストショットは最近見直した『ゴールデンエィティーズ』であり、もちろんトリュフォーの『恋愛日記』を想起せずにはいられない。1963年からおよそ40年間の時間がサニエからドヌーブ、ラシャ・ブクビックからミロス・フォアマンによって繋がれる。キアラは劇中でドヌーヴの娘として登場し、一人で二つの時間を背負うことになるだろう。60年代の鮮やかでポップな色彩が、70年代、80年代…時を経るにつれて失われていく一方で、ドヌーヴからキアラに継承されたブロンドだけはその色を変えない。さまざまなクリシェーーパリの街、娼婦、3人で潜り込むベッドーーでもどれも40年後に同じようには成立しない。ジャック・ドゥミ的なものであり、ヌーヴェルヴァーグを継承しつつも、今、それが可能なのかという問いかけを発しているように思えた。この作品はある意味で歴史ものなのかも。今年のカンヌではボネロに匹敵するくらい好き。18時のTGVの時間までは空いていたので、ゆっくりランチをして、カンヌの街をお散歩。途中退席を含めれば、30本以上は見たことになるけれど、田中さんの話を聞くと、私は外れくじばっかり引いていたみたい…。初めての海外の映画祭、色々考えることはあるけれど、とりあえず、パリに帰ったらテレンス・マリック、ダルデンヌ、ウディ・アレンの新作を見よう。