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Report from Cannes 04 | 5月18-19日 

 18日最後の一本は、園子温『恋の罪』。監督週間会場の熱気は非常に高い。現在、国際的な関心を最も寄せられている日本人映画監督の一人であることは間違いないし、その強烈なスタイルを国内の興行に関しても自身の武器としてポジティヴに活用できるという意味においては、非常に「巧い」作家なのだと正直に思う。
小説家とのセックスレスな夫婦生活に生きる自身に疑問を感じる若い妻(神楽坂恵)は、ふとしたきっかけで素人AVに出演することになり、そこで自らの変身願望の可能性を見つける。そして彼女が出会った色情狂の大学助教授かつ「立ちんぼ」の女性(冨樫真)は、「言葉とは身体」であり「言葉には意味が必要」であると言い、自らの「言葉=身体」の「意味」を獲得するために、自身の身体を一発5000円の売春行為に捧げ続けている。彼女たちが勤しむ、「セックス=労働」による「自己実現」は、そのまま『恋の罪』というフィルムそれ自体の論理であるように見える。彼女たちが自らの衣服を脱ぎ捨てるのは、自らの裸体それ自体に潜在する可能性を追求するためではない。それは、既に用意された世界に仮構された、「キャラクター」という新たなフレームを身に纏うための「通過儀礼」であり、それはまさしく「自己実現」の殻を被った「売春」行為にほかならない。
廣瀬純に倣えば、園子温は紛れもない「シネキャピタリスト」の一人であるだろう。イメージたちを極限まで労働させ疲弊させ、その剰余価値を搾取することで自身の世界を構築することに、おそらく一遍の戸惑いもないのではないか。もちろんそこには『愛のむき出し』の満島ひかりのような例外的な輝きを勝ち取る可能性がないわけではない。このフィルムにおいても、たとえばスーパーの実演販売の台詞を口ずさみながら鏡の前で懸命にポージングをとる神楽坂恵の姿は、例外的にある種の「演技」なるものの真実を曝け出す前兆を見せているかもしれない……けれども、最終的に僕はこのフィルムの息苦しさにまったく首肯できない。なぜ「裸体」を「裸体」として肯定できないのか、なぜ「売春」を「売春」として肯定できないのか、なぜ「セックス」を「セックス」として肯定できないのだろうか?

失言を理由にカンヌからの追放を命じられてしまったスキャンダルばかりが話題になっているけれども、19日の1本目、ラース・フォン・トリアー『メランコリア』は、実際かなりの力作だ。「スクリーン」や「フィルム・フランセ」などの星取りでもかなりの高評価を集めている。映画は、ダンスト演じるジャスティンの結婚式での顛末を描いた前半部と、シャルロット・ゲンズブール演じるクレールの家族とジャスティンとの最後の数日間を描く後半部の2部構成。異様な反響を巻き起こした『アンチクライスト』をタイミングを逃して未見のままだし、そういえば『マンダレイ』も見ていなかったのでトリアーを見るのは『ドッグヴィル』以来のことになってしまうけれど、俳優たちの素晴らしさに本当に魅せられた。シャルロット・ゲンズブールも、シャーロット・ランプリングも、ジョン・ハートも素晴らしかったけれど、しかし誰よりもキルスティン・ダンスト! 一緒に見ていた坂本さんや槻舘さんも絶賛していたけれど、「ダンストってこんなに凄い女優だったか?」と、いちファンである僕も本当に驚いた。
いつもながらのことだが、本作においてもトリアーは作り手である自身のエゴ=悪意の刻印を忘れていない。しかし本作においてそれは、『奇跡の海』から『ダンサー・イン・ザ・ダーク』、そして『ドッグヴィル』へと至るサディスティックな「神の視座」の変遷からはやや距離を置いて、月に並んで夜空に浮かび上がる惑星「メランコリア」をCGで映し出したロングショットの中に、決して起こりえないはずの「ハレーション」を合成する、というささやかな徴に留まっている。もちろんトリアーらしい悪意に変わりはないと思うけれども、同時にそこにはどこか「慎み」めいたものの萌芽を感じた。基本的にはいつもと変わらない方法論で撮られた『メランコリア』だけれども、その「慎み」のありようは、今作におけるキルスティン・ダンストの素晴らしさにも関わっているのではないかと勘ぐる。が、今はまだ考えがまとまらない。そのことは、このフィルムの印象的なオープニング(あたかもフランドル絵画のような幻想的な質感を有した、実写映像をCG加工したと思しきいくつかのスローモーション映像)とも関係がある……のだろうか。

続けて「ある視点」部門、ホン・サンス『The day he arrive』。『メランコリア』の直後だということもあるけれど、心底ホッとした。重くて暗くて辛い映画ばかりを見続けながら思い悩む私たちのことを、映画はこんなにも素晴らしい「軽さ」を生きることができるんだよと、ホン・サンスは軽く鼻で笑い飛ばしてくれているかのようだ。4本の作品を撮った後田舎へと引っ込んでいた映画監督の男が、ソウルへの数日間の旅行へ出かけ、そこでいくつかの再開と出会いと別れを経験する……。いつもと同じ「任意」の時間と場所を舞台にした、まったくたわいもない出来事の続く世界が、なぜこんなにも面白いんだろう! けれども今作のホンさんは、いつもよりなんだかロマンティックだった気がする。女優さんに綺麗な人が多かったこともそうなんだけど、それに加えてモノクロ撮影が効いている。降りしきる雪の中で、やや唐突に始まるキスシーンは、ちょっと身震いするくらい素晴らしかった。そういえばこの日の夜、いい感じに酔っぱらっていたホン・サンス監督を街中で見かけた。映画の登場人物まんまであった。

コンペ作品、河瀬直美『朱花の月』。想像を遥かに超えた酷さに愕然とするばかり。単純に出来が悪いだけならば笑って済ませれば良いが、キャメラの前に存在する「他者」を、一義的で恣意的なプロパガンダのために「利用」するこのフィルムの卑劣さ、醜悪さには本当に辟易する。トリアーを追放した映画祭関係者たちは、いったいこのフィルムのことをどう見ているのだろうか。

監督週間、Jean-Jaques Jauffret『Après le sud』。周りの評判はあまり芳しくなかったけど、僕はこの作品を大いに支持したい。5人の登場人物たちがすれ違っていた「ある日」の出来事が、個々の登場人物たちのエピソードとして分割されて語られていく。『エレファント』のようなその語り口に関心は集まっているようだが、個人的にはそれよりもひとつひとつのスポットの「当て方」に目を惹かれた。些細な身振りや出来事に寄り添って、ひたすらにロッセリーニ=バザン的な「待機の姿勢」を堅持するという、ここ数日見た若い作家たちの作品に決定的に欠けていたこの感覚を、このフィルムは自身の拠り所にしている。こういった態度がやや「アカデミック」な趣に過ぎると一緒に見た槻舘さんやクレモン君は言っていたけれど、僕はむしろその誠実さを買いたい。安易なイメージの捏造を試みるのではなく、ただただそこに「ある」ことを徹底する、俳優たちの姿がとてもよかった。

カンヌ映画祭日記⑥ 5/18-19

 5/18 

   今日の一本目は監督週間の『Blue Bird』。カンヌ初の途中退席をする。監督週間の中でもこの作品は最悪だった。やっぱり各紙が事前に出してる批評を参考にしないと…。そのあとは、数日前に知り合いになったジャーナリスト兼、監督から招待状をもらった短編作品シネフォンダシヨンの上映に向う。他の上映に比べると人はかなりまばら。短編という尺の問題なのだろうか、ストーリーに固着しているのか、映像で見せるというよりは、どの作品も物語を言葉で語ろうとする。にも関わらずーー恐らく撮影日数の問題もあるのかーー台詞がまったく肉体化されていない。その結果、かなり悲惨なことになっていた。カンヌの新人監督の作品を見るにつけて、いかに日本の若手監督が才能があるかを身にしみて感じる。その後、私は22時からのアラン・カヴァリエ、田中さんは、21時過ぎからの園子温の上映に行く予定だったので、数時間の空き。坂本安美さんと合流して、パレに近いPetit Parisで夕食をとる。安美さんと私はアラン・カヴァリエ『Pater』に向うも、前の上映がおしていて、待つこと1時間、やっと開場する。

 会場を出たところで、シネマテークのプログラムディレクターのロジェ夫妻に偶然会い、安美さん、田中さんとともにバーに飲みにいく。シャブロル特集では30本以上の作品が見れるという話を聞いて、田中さんとともにかなりうらやましがる。パリに来てすぐにレトロスペクティブはあったけど、10本がせいぜいだった。さらに別のバーに移り、帰宅はまたもや3時過ぎ。明日は朝からラース・フォン・トリアーに行くはず…

 

 5/19

    カウリスマキに入れなかった苦い記憶があるので、ラース・フォン・トリアー『メランコリア』には開場一時間前に到着した。プレスだけで満員になる勢いだったので心配していたものの、安美さんもなんとか入れて一安心。が、トイレに行ってる間に荷物をどかして何食わぬ顔で私の席にフランス人の男の子が座っている。文句を言ってる間に会場は暗くなり、何を言ってもなかなか席を立ってくれないので、頭にきて蹴りを入れたらやっとどいた。本当にこっちの人は割り込みは日常茶飯事だしびっくりする。まさか、蹴りを入れられるとは思ってなかったみたいだけど…。もう監督週間には見切りをつけて、今日からコンペ作品を中心に見ることにした。好き嫌いは別にしてやっぱりラース・フォン・トリアーは段違いにすごい。何の事前情報も知らずに見たこともあり、主演している女優がキルスティン・ダンストであることには中盤まで気づかなかった。個人的に彼女はブスキャラだと思っていたので綺麗すぎたから笑。逆に嫌がらせとして思えないくらいシャルロット・ゲンズブールはひどい。劇中で起こる出来事や急激な変化に明確な理由を見いだすことは難しいものの、そんなことを考えることが些事であるとしか思えない。圧巻!

  二本目は、急いで移動してなんとかホン・サンスの新作『The day he arrive』に滑り込む。いつも通りのホン・サンスなんだけど、どの部門の作品も主題に不幸を抱えていることが大半なのでこういう軽やかな映画をカンヌで見れることは貴重な体験だ。世界の終わり、貧困、病気…。そういう主題すべてを否定するわけではないけれど、普通に人が愛し合っていたり、戯れている姿をもっと見たい。

  三本目は、ある親子の押しに負けて、河瀬直美『朱花の月』を見に行くものの、絶えきれなくなり田中さんを残して途中退出する。こんなものが今の日本映画だなんて思われたら本当に困る。糞を巡るのではなく、まさに糞映画だった。ただ今回はかなり海外メディアの評価も低いとのことなので、河瀬の作品をありがたがられることももうないのだろう。

  今日の最後は、カイエやアンロックでも評価が高かったJean-Jaques Jauffret『Après le sud』に。いくつかの視点から捉えられた出来事が何度も繰り返されるという構成になっている。そこには俯瞰的な視点も同時に存在していて、それぞれのエピソードで違う時間を生きていたはずの登場人物たちがすれ違う。映画っぽい映画なんだけど、私にとってはどうしても予定調和という感が拭いきれなかった。夜はシャルル・テッソンから招待されていた批評家週間のパーティに行き、思ったより顔の小さいエマニュエル・ドゥボスを見てキャーキャーいったり、エヴァ・イオネスコのオーラに圧倒されたり、女の子たちと踊り狂う指導教官を見てびっくりしたり…そんなこんなで楽しい夜は更けていく。だから今日も寝たのは朝の4時過ぎ。

 

 

 

やっと『トゥルー・グリット』を見た

2011年5月20

 

 やっと『トゥルー・グリット』を見た。試写を見逃し、封切りからすでに2ヶ月以上経過していると、上映している映画館を探すのも一苦労。丸の内東映で朝1135分から1回だけ上映されている。最近、超多忙で銀座にも出ていない──といっても2週間くらい前に行ったけど──ので、遅い昼食にすれば見ることができる。早速、出かけた。

 『これでいいのだ』と『抱きたい関係』が通常上映されていて、『トゥルー・グリット』はポスターさえ出ていない。コーエン兄弟という「作家主義」的固有名も神通力がもうないだろうし、ジェフ・ブリッジズが『クレージー・ハート』で最近いくら頑張っているにせよ。ジッちゃんでは客を呼べない。さらにたくさんノミネートされていたオスカーもひとつも取れなかった。客も十数人。それもぼくが若い方。もちろんガラガラで寂しい限りだが、東京の映画館では、こんな風景が当たり前だ。それにさっきこのフィルムのオフィシャル・サイト(日本版)を見たら、「試写会中止のお詫び」から始まっていた。最終の試写会が3.11だったらしい。

 『ホテル・シュヴァリエ』でナタリー・ポートマンのファンになってしまったので、『抱きたい関係』も『ブラックスワン』も見たけれど、「なんだかなあ」と中原昌也の口癖を真似たくなった。この女優さんも「女優さん」したいのかな? 『ホテル・シュヴァリエ』では、ただホテルの部屋にいて、ちょっとだけ服を脱いでいけば見事な存在感を出せたのに、小津や成瀬の映画の彼女ではない舞台の杉村春子みたいに演ると、「すごいなあ」と思う人もいるかもしれないけど、演技にしている女の人という側面ばかりが目立って、ナタリー・ポートマンその人の良いところがぜんぜん見えなくなってしまう。『ブラックスワン』を見ていると、彼女はきっと背の低いことにすごいコンプレックスを持っているんだろうな、とか、こんなフロイトみたいな演出して、「深いな」を喜ぶ「浅い」人たちが多いんだろうな、とか、いろいろ思い悩んでしまった。

 それに比べると、ジェフ・ブリッジズはやはり凄い。デブなだけ。飲んだくれているだけ。そこにいるだけ。つまり、『クレージー・ハート』と同じ。映画っていうのはフィクションなんだけど、「そこにいる人」が「そのまま」見えてしまうわけで、徹底的にドキュメンタリーなのだ、ということが分かるね。共演しているマット・デイモンも、さすがに最近はイーストウッド・ファミリーだけのことはある。立派にジェフ・ブリッジズに対抗していたね。ナタリー・ポートマンだって、無理しなくていいんだ。君がそこにいるだけでかなりいいんだよ。

 「そこにいる」のは人ばかりではなかった。『トゥルー・グリット』を見ていると、「そこにある」ものの存在感も際立っている。帽子の布の質感。古い拳銃の引き金の重そうな存在感。ゆったり流れている川の水。樹木の大きさ。しばらく映画でそんなものたちを発見したことがなかった。『センチメンタル・アドベンチャー』で、クルマのホコリを払うと、見事な質感のボンネットが見えたのを思い出す。イーストウッドは『グラントリノ』でも同じことをやっていたね。イーストウッドを除くと、今、アメリカ映画の中で、そんな「質感」が出せる例外的な人材が、コーエン兄弟なのかもしれない。昔のアメリカ映画だったら、そんな「質感」なんて当たり前に出せていたのに。

 ぼくらがそういったアメリカ映画──もちろんアメリカ映画ばかりじゃなくて、ルノワールの映画でも、トリュフォーの映画でもいいんだけど、つまり、映画と単に呼んだ方がいいなら、映画の「質感」についてはっきり意識したのはいつからだったろう? もちろん、後からジョン・フォードの『捜索者』や、ニコラス・レイの『夜の人々』を見たときでもあったけど、そのとき、ぼくらはすでに蓮實重彦の批評を読み込んでいて、そうした映画の「質感」に敏感になっていたはずだ。「いつから」というぼくの疑問は、蓮實さんを読む前に、そんなことを朧気にでも感じたのはいつごろからだったろうか、ということ。かすかすの同時代に『ハタリ』だって封切りで見たことがあったけど、小学生のぼくが見たのは、アフリカの大自然の中の猛獣狩りであって、サバンナの草原の質感ではなかった。

 はっきり思い出すのは、あの頃だ。そして、あれらの作品だ。まずトリュフォーの『恋のエチュード』。『大人は判ってくれない』や『突然炎のごとく』のヌーヴェルヴァーグ的なるものから、トリュフォーがちょっとスタイルを変えた時期だった。後から思えば、それはネストール・アルメンドロスの力もあったと思うけれども、ラスト近くに見えるベッドの上の真っ赤な血だった。すごく即物だな、と思った。映画というビロードみたいな保護装置がすっかり外されて、生身の何かに触れたときのような感じ。『恋のエチュード』と、確か前後して見たアメリカ映画の1本にもそんな感じがした。南北戦争時代のアメリカで逃げ惑う少年たちの話だった。食べ物がなくなって、草原を走るウサギを捕らえた少年たちは、ウサギを「さばいて」料理する。それも後になって見れば、エルマンノ・オルミの『木靴の木』で豚を捌くところが詳細に演出されていたのも思い出される。そして、何と、ウサギを「さばいて」見せてくれたのは、『トゥルー・グリット』で、ただのデブのマーシャルを演じていたジェフ・ブリッジズだった。1972年の映画『夕陽の群盗』でのこと。監督はロバート・ベントン。ハーヴィー・シュミットの唄『トライ・トゥー・リメンバー』が本当に美しく使われていた映画だった。

 『トゥルー・グリット』のコーエン兄弟は、確かにそんな「質感」が十分に伝えてくれるし、このフィルムは決して悪い作品ではない。だが、『夕陽の群盗』にあって、『トゥルー・グリット』にないもの、それこそ『トライ・トゥー・リメンバー』みたいな素敵な主題歌だった。

 映画が終わり、銀座に出ると、五月の陽光が眩しいくらいだった。『トライ・トゥー・リメンバー』を口ずさみながら──この歌は9月の唄だけど──、光に溢れた横断歩道を数寄屋橋の方へ渡った。

 

 

カンヌ映画祭日記⑤ 5/17

    今日も監督週間からスタート。Karim Ainouz『O abismo prateado』。夫から突きつけられた突然の別れと失踪。数日後の夜、思い立って飛行機で彼を追うことを決めるものの、その日の飛行機はすでに発ってしまった。それから彼女が過ごす夜明けまでの時間を追う。これまで見た監督週間の作品がどんどん内側にのめり込んでいくものが多かっただけに、街を彷徨って人や風景に遭遇していく姿は悪くない。でも、どうしても監督週間の中で相対的に考えて面白いという感は拭いきれないんだよね…。

   二本目は、批評家週間へ。昨日の夜入れてもらえなかった笑 エヴァ・イオネスコ監督の『My little Princess』を見るため、会場に早めに到着する。ジャック・ドワイヨンの『恋する女』で出会ってからとても好きな女優なので、カンヌ前からとても楽しみにしていた。再チャレンジして良かった!会場入り口でシャルル・テッソンにばったり会ったのでしばし立ち話。この作品をセレクションに入れたのは彼であることやイオネスコの出演していたイタリアのポルノ映画の話などを聞く。そこにちょうど東京日仏学院の坂本安美さんの姿を見つける。久しぶりの対面。フランス流にビズで再会の挨拶をした。話には聞いていたけど、パスのレベルが低いようで、グランドリュミエールでの上映は招待状がないと入れないし、私たち以上に上映前に並ばないといけないそうだ。本当に失礼な話だ。主演は、イザベル・ユペール。一応、現代なんだけど、ほとんど室内にとどまっているのと、彼らのファッションが相俟って時制はあいまいだ。開く窓の風景でそこがパリのモンマルトルであることがかろうじでわかる。ユベールは、最近見たシュローターの『マーリナ』『Deux』に出演していた時の雰囲気に近いものがあって、娘を被写体にひたすらエロ写真を撮りまくるというかなり破綻した人物ではあるんだけれど、どうしても枠組みの中での過激さにとどまっているように見えた。処女作なんだし、エヴァ・イオネスコなんだし、もっと過激でもいい。カンヌで監督週間、コンぺも含めて何本もの処女作を見て共通しているのは、どれもなんとか形にしようというか、上手くまとめようとしていて破綻がないことだろう。処女作だからこそ完璧さから遠くてもいいのに、なんだかもったいない気がする。

   三本目は、引き続き批評家週間の『Avé』。街路で出会った男女がヒッチハイクするロードムービー。いくつかのエピソードを通じて少しづつ関係性が進展していくように見えて何も変わらない。トラックの運転手を誘惑しての金品の強奪、知人のふりを参加してのお葬式への参加…出来事を積み重ねながらもなんともこぎれい。上映後、女優が完璧にドレスできめてる姿を見てさらになえる。今日の最後はエリック・クーの『TATSUMI』。上映20分の時点で、満員だったはずが私の周りにいたジャーナリストたちは次々と席をたっていく。すでに田中さんが述べた通り、糞とゲロまみれの映画のため? 個人的には田中さんほどの思い入れはないものの、一環して汚さに留まってるのは素晴らしい。



Report from Cannes 03 | 5月18日

 朝一はトリアー新作を、と考えていたけれど、予定を変更してジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ『Le Gamin au vélo』へ。正直な所まったく期待していなかったが、本当に素晴らしい! 個人的にはダルデンヌ兄弟の最高傑作ではないかとすら思う。方法論はこれまでと何も変わっていない、けれどもそこに投入された今作の主人公である父親に捨てられた少年と、そしてセシル・ド・フランス(『ヒアアフター』に負けず劣らず素晴らしい!)演じる少年の保護者を請け負う美容師との、いくつものアクション-リアクションが、『野生の少年』と『大人は判ってくれない』のちょうど中間に位置するかのごときトリュフォー的な映画の喜びを「ダルデンヌ・スタイル」から抽出することに成功している。とりわけ、終盤の自転車での並走シーンの素晴らしさといったら……。

現時点でおそらくコンペ作品では圧倒的な人気を集めているアキ・カウリスマキ『Le Havre』の上映に向かうも、満員。諦めてプレスルームにて前日分のブログを更新し、14時からの「ある視点」部門作品を続けて2本見ることに。しばし休息。プレスルームは日中人だらけ、席を取るのも一苦労。なので、大抵は床に座ってPCに向かう。Wi-fiはバンバン切れるので、アップロードには本当に時間を食ってしまう。
Joachim Trier『Osro,august,31st』。オスロの街並を映し出した映像に、無数の人々の「私は思い出す……」という声が重ねられたオープニングに期待が高まったものの、見事に裏切られる。薬物依存から快復しようとする主人公が、自殺に踏み切ろうとして踏み切れなかったり、人々との関係性の構築に悩む描写だけがダラダラと続くばかり。描写のひとつひとつは紋切り型に留まり続け、主人公の崩壊をたんに審美的な構図の中に押し込めるだけで解決をもたらそうとするラストシーンには、怒りを通り越して呆れた。愚作。「誰もが感じている孤独」が主題なのだと監督本人は語っていたけれど、本当にそうなのだとすればこの人は「孤独」を哀れみの対象としてしか見てないのだろう。
Catalin Mitulescu『Lovelyboy』。黒海の街コンスタンタを舞台に、自分に寄ってくる女たちを友人や売春へと斡旋する主人公と、その主人公に初恋をした一人の少女の悲しい顛末……だがそんな暗い物語にも関わらず、この作品には「軽さ」がある。まあ、言ってしまえば「雑」でもあるのだけれど、若者の貧困やら絶望やら、そういった主題に対するアプローチとしては、その最悪な例であろう『Osro』の形式主義とはまったく異なったものだ。『Loverboy』はとりえあず説話の経済性を捨て、ひとつひとつのシークエンスの瑞々しさを最大限に生かそうとする意味で、ユスターシュの『わるい仲間』や空族の『国道20号線』、そして三宅唱『やくたたず』にも通じるような、ある種の「不良映画」のヴァリエーションを織りなしている。「傑作」とは到底言い難いけれども、悪くない作品だった。

カンヌ映画祭日記④ 5/16

      今日の一本目は、楽しみにしていたテシネの新作『Impardonnable』に向かう。予想通りのすごい人。でもテシネが監督週間で上映されることへの違和感は拭えない。ノミネートしている他の監督と比べると、テシネはあまりにも巨匠過ぎるからだ。次回作を準備中の作家と不動産業を営む初老の女性の出会い、その後の展開は、春夏秋冬、大雑把な時間経過が示されるだけで、事は私たちを置き去りにして知らない間に進んでいる。『証言者たち』以降、個人的にテシネの作品はかなり変わったと思っていて、70年代、80年代の重さ、暗さ、厳しさを乗り越えて、なんとなく軽さを獲得したように見える。『証言者たち』で、テシネはかつての映画の登場人物にもう一度生き直させていた。その中心にはエマニュエル・べアールがいて、小説家である彼女が彼らの物語をタイプライターに向かい、もう一度語り直す。結局のところ、男娼として生きることになるピエール(『深夜カフェのピエール』)も行き詰まっている舞台女優(『ランデブー』)も、かつてと迎える結末にさほど変わりはない。けれど絶望的な夜の風景の中に沈んでいくことはもうない。新作はというと、さらにというか恐ろしいほど軽い。何といえばいいのか、テシネが自身のクリシェと戯れているような映画だ。2000年以後のガレルの作品と似ているかも。

  Q&Aに出席していたらもう二時近くになっていて、テレンス・マリックに並んだけど、時すでに遅し。カンヌに来て初のまともなランチを食べて、16時半からのブリュノ・デュモン『Hors Satan』に並び、なんとか入れた。ブリュノ・デュモンの映画は個人的にはかなり苦手な部類だけど、あえて挑戦。『ユマニテ』『フランドル』『ハデウィヒ』…どの登場人物も、悪い意味ではなく表面的というか、物体として捉えられていてひとかけらの感情も見えない。だから、見ていて本当に恐ろしい。新作はいくつかの奇跡はあるものの、同じ姿勢を貫いているように思えた。つまりやっぱり苦手なんです。夜は、クレモン君に誘われて、韓国の映画セクションが主催するパーティに連れて行ってもらい、ポン・ジュノにご挨拶。ホン・サンスと再会できるかなと思って楽しみにしていたけど、まだ到着していないようだった。帰宅は1時過ぎ…明日も8時30分からのプレス上映には行ける気がしない。

 

Report from Cannes 02 | 5月17日

 2日目、クロワッサン×2、スクランブルエッグ、ベーコン、ヨーグルト、それからコーヒー。ホテルのビュッフェ形式の朝食をたっぷりと食べてから、10時15分発のシャトルバスに乗り込む。東京の映画祭でも同じことだし、そもそも当然のことだけれども、ひとつの映画祭でなるべくたくさん映画を見ようとすると、適切な時間に適切な量の昼食や夕食を取る時間を捻出するのは至難の業だ。朝早い時間か、夜遅い時間にしかまともに食事を取れない。本日のスケジュールも例に漏れず、合間にのんびり食事を取っている余裕はない。

1本目は、コンペ外作品ジョディ・フォスター『The Beaver』、のつもりが、会場を間違えていたことに上映直前の監督舞台挨拶の段階で気づく。もちろん退出なんか恥ずかしくて今更できない……。気を切り替えて、「ある視点」部門のOlivier Hermanus『Skoonheid』を見ることに集中する。
普段はごく普通のお父さん、一家の大黒柱で、材木会社を経営していて、妻の望むようにちゃんと家も建てた。そんなお父さんが、たまの休みに隠れ家めいたところでゲイの仲間たちとフリーセックスを楽しむ……という、決して珍しいものではないと思うけれど、それなりに過激な物語。その過激さが濃縮された激しいアクションを伴うシークエンスが、全体的には落ち着いた語りの合間合間に挿入される。おそらく作り手の側からすれば「ここを見てくれ!」という瞬間なのだろうけども、とはいえ破綻も何もないからまったくドキドキしない。それが人によっては美点なのかもしれないが、個人的には退屈にしか思えなかった。ただ、関係を迫ろうと狙っていた若い男(友人の息子であり、娘の恋人であり、このフィルム最大の被害者…)の交遊関係を目撃したときの、オヤジの哀愁漂うピュアな横顔はなかなか良かった。こういう表情は「オヤジ/ギャル」という関係だと、なかなか成立しにくいものなのではないかと思う。

ポランスキー『テナント/恐怖を借りた男』やドワイヨン『恋する女』などに出演していたエヴァ・イオネスコ『My little princess』、「批評家週間」作品。美しい小学生の一人娘をあたかも着せ替え人形のように扱って、「生活の糧」且つ「自己表現」としてのエロ写真撮影に熱中する、母親役のイザベル・ユペールの振る舞いが、どこか登場人物それ自体の「薄さ」を体現したかのような「紋切り型」の演技に意識的に留まっているように見え、その点に関してはとても興味深いものを感じた。ヴェルナー・シュレーターの『Malina』という「分身」を主題にした作品でのユペールのそれにどこか共鳴するようなクリシェ、というよりは“キッチュ”な振る舞いというか……。決して悪い作品だとは思わないが、こういう題材で映画に綻びが生まれないというのは、どうも寂しい気がする。ある意味でソフィア・コッポラ作品に対するアンチテーゼにも成り得るような作品であっただけに、残念。ユペールの友人アーティストを演じていたドゥニ・ラヴァンの体現する「汚れ」にこそ、真にこのフィルムを輝かせる可能性はあったのではないかと勘ぐる。

「監督週間」のブラジル作品、Karim Aïnouz『O Abismo prateado』。「ダルデンヌ以降」と一括りにしてしまうことにはやや抵抗があるけれど、被写体とキャメラとの間の「距離」をひとつの尺度とする、ある種のリアリズムの公式に寄り添っただけ、という感触以外ほとんど何も感じ入る所がない。それなりに見れてしまうので苦痛ではなかったし、激しいセックスや自転車での転倒からクラブでのダンスまで、主演女優の熱演に対しては頭が下がるが、そこにはある種の「スタイル」以上のものを、見出せはせず。

上映後、同じ作品を見ていた坂本安美さんと少しだけお話を。フィリップ・アズーリにもほんのちょっとだけお会いする。今見たばかりの作品に対する不満を口切りに、坂本さんに昨日のボネロの素晴らしさ(残念ながら会期中には見れなさそう……)や、日本でのことを伺いつつ、昨日のテシネについて何がそんなにダメだったのかと聞かれたり……。思い返すと、テシネは自身の方法を危険に晒しているという意味では、『O Abismo~』とは比較にはならないなと、話の中で少し反省する。

この日最後の作品は「ある視点」部門、エリック・クー『TATSUMI』。「劇画」の生みの親である漫画家辰巳ヨシヒロの作品を元にしたアニメーション作品。否、正確には、このフィルムは「漫画」そのものを「被写体」としたドキュメンタリー作品だと見なすべきなのだろう。辰巳氏自身の過去と、そして彼の生み出した劇画作品たちが、辰巳氏本人のナレーションを媒介に絡み合っていく。クリス・マルケルの『ラ・ジュテ』について ももちろん考えたけれど、それ以上に、一冊の本を被写体にして、監督サッシャ・ギトリ自身がひたすらそこに書かれた内容について語り続けるという、『ジャンヌ・ダルクからフィリップ・ペタンまで』という奇妙な作品を思い出した。時に色彩を、時に空間の差異を与えられながら、登場人物たちは決して自らの身体に与えられた「線」としての身体を放棄しない。「この作品については、既にストーリーボードが劇画の中で完成していたので、作業はシンプルなものだった」と監督本人は語るが、そのシンプルさを選択する勇気もまた、映画作家としてのひとつの資質にほかならないだろう。

この作品の最も素晴らしい点、それは、世界はやるせないほど残酷で、猥雑で、悲劇的で、恥知らずで、クソだらけであり、ゲロだらけだという辰巳ヨシヒロ作品における視座を、エリック・クーがほぼまったくフィルターをかけずに提示していることにある。終盤のワンシーン、どこかの街の本屋の中で、ゲロまみれの世界に絶望し続けた辰巳作品の登場人物たちが、自身や他の登場人物たちの描かれた漫画を手に、薄く笑みを浮かべている。このシーンを見たとき、どうしようもなく目元が潤んでしまった。無論、不満がないわけではないーーとりわけ音響的な処理に関しては安易な感は否めないーー、けれども、僕はそういった不器用さを含めてこのフィルムのことが大好きである。

帰り道、時刻は既に2時近く。この日一日ほとんど何も食べていなかったので、ここはクー作品に倣って、「ジャンク」としての世界を「食」で堪能して一日を終わらせるべきだと、マックでハンバーガーをテイクアウトする。ホテルまでのタクシーの運ちゃんに、「マクドナルド?」と聞かれたので「ウィ」と軽く答えた。「クセーよ、袋閉じろ」と怒られた。

カンヌ映画祭日記③ 5/15

 昨日のモレッティの上映の開始時間が一時間ほど遅れたため、帰宅は0時過ぎ。だいぶスロースタートで11時半からの上映に向かう。一本目は、昨日の昼の上映で偶然となりの席に座っていたジャーナリストから勧められた監督週間の『Code Blue』。日曜だからなのか、40分前なのにすでに長蛇の列。期待したものの、うーん。騙された!会場の反応はだいぶわかりやすくて、怒りのあまり叫び声をあげる人、席を立つ人が続出した。は〜。二本目も監督週間の作品、Valérie MréjenとBertrand Scheferの共同監督『En ville』を見る。この作品はなかなかの佳作。パリからやってきた40代の写真家と16歳の女の子が小さな街で出会って一緒にひとときを過ごす。今までの監督週間の作品に比べて、言葉、台詞に傾斜しているんだけど、だからこそとても新鮮さを感じた。上映後のQ&Aで、監督は『ギターはもう聞こえない』を参考にしたとのこと。主演女優のローラ・クレトンがかわいい。まだ幼さを残しているんだけどある瞬間大人びて見える。前作はカトリーヌ・ブレイヤの『Blue Bread』で、ミア・ハンセンラヴの最新作にも出演しているそうだ。

 さて、今日の三本目はある視点部門。指導教官のシャルル・テッソンから、会場に着いてすぐ電話。傑作を見に行こう!というお誘いだったんだけど、向かっていた先は一緒だった。『ソフィアの夜明け』を日本ですでに見ていて、とても気になっていた監督であるジェフ・ニコルズの新作。パスが青いため大人しく列に並んでいたらシネマテークでプログラム担当のキャロリーヌにばったり会って、情報交換をする。なんと監督週間、批評家週間の作品は六月にパリ市内の劇場と、シネマテークで見れることも教えてもらう。なんだ、結局パリで見れるのか…知らなかった。作品はというと前作とはだいぶ雰囲気が変わったという印象だ。ど、アメリカ映画っぽい。テッソンは傑作と絶賛していたけど、私は前作の方が好み。

 四本目は、22時からプレス上映で、すごく楽しみにしていたベルトラン・ボネロの新作を見る。人によってはだいぶ評判が悪いけれど、私は好き。具体的に年号を画面に示しながらも、あまり時代考証は関係ない。ダンスシーンで鳴り響く音楽がそれを決定づけていて、歴史への距離感はガレルの『恋人たちの失われた革命』に近い。だから娼婦である彼女たちの生活はなんの悲壮感もなくただただ軽く、現代に一直線につながる。女優一人一人が本当に魅力的。エスター・ガレルが出演しているのにも注目!1日の最後に素晴らしい作品を見れて大満足。さて、明日は何を見ようかな。

 

Report from Cannes 01 | 5月16日

 槻舘さんから遅れること3日、5月16日13時にカンヌ到着。移動のTGV車内では昨日寝つけなかった分を盛大に取り戻したものの、軽い頭痛に襲われながら、初夏の日差しを全身に浴びて会場を目指す。

 プレスパスを受け取って、さ、とりあえずはホテルへ荷物を置きに向かって、カフェで一息ついてカンヌに到着した感慨を味わってみるか……なんてわけにはいかない。絶対に見ておきたかったモレッティの新作のカンヌ最終上映が、なんと到着から1時間後の14時開始なのだった。重い荷物を担いでヒイコラ言いながら、上映会場である映画館「STAR」へと向かう。

 コンペティション作品、ナンニ・モレッティ『Habemus Papam』。ローマ教皇就任をめぐるコメディ、だととりあえずは言えるだろう。相変わらずモレッティらしいスキャンダラスな題材である。その責任の重さゆえに、誰もが選ばれたがらない新教皇の座に、なし崩し的に新任されてしまったミシェル・ピコリが、民衆への演説直前にして「無理無理、そんなのできない!」とパニックに襲われ、モレッティ扮する精神分析医のカウンセリングを受けるも、自らの存在を世界から消し去るための逃走へと踏み切ることとなる。
冒頭、赤い衣服を纏った司祭たちがノソノソと列を為して歩み、教皇選出の投票の最中にペンで机を叩いたり、一票一票の読み上げに表情を歪めたりするその一連のシークエンスの「紋切り型」なギャグの演出に、あるいは彼らを取り巻く憲兵隊や教皇のボディ・ガードたちの姿に、『アウトレイジ』(北野武)のヤクザたちの姿を思い起こさせられる……というよりも、これはまったく同じ「ファミリー・ビジネス」なのだと気づく。要するにモレッティのこの新作が映し出すのは、「宗教」や「信仰」それ自体に関わる真価やら欺瞞やらではなく(もちろん無関係ではないが)、そういった組織の空疎な構造と、それに寄生することでしか自らの生を肯定できない、「普通の人々」の「生」、そのヴァリエーションなのだ。
かつて「演じる」ことに自らの「夢」を見たピコリは、しかしいつの間にか自分自身がすでに何かを演じることでしか生きられなくなっているという、当然の事実に直面し、当惑する。彼にとっての「生」とは、彼が暗唱するチェーホフの台詞の中にあったのだということに。舞台の上に立たずとも、バルコニーに座っているだけで万雷の拍手を受けざるを得なくなってしまう「持つ者」、否、「持たされてしまった者」の悲劇は、けして特権階級の専有物ではあるまい。
その傍らで、今作モレッティが演じるのは教皇=ピコリの精神分析医である。その身振りは、前作『カイマーノ』でのようなシリアスな役回りではなく、たとえば『親愛なる日記』や『エイプリル』といった作品におけるような、コミカルな趣に特化したものだ。けれども、かつての作品で自身の身体が「映画」それ自体の化身であるかのような身振りというのは控えられていて、むしろ本作においてはモレッティは周囲の人々の身振りを相対化させることに、つまり「演出」の側に執心している。ピコリに逃げられてしまった後のモレッティは、「教会」という「演劇」に安住してしまった人々を「リハビリ」へと導くこととなる。そう、つまり『神々と男たち』における「生活」ではなく、『神の道化師 フランチェスコ』の「運動」の方へと彼らの肉体を解き放とうとする。モレッティは神の奇跡を信じてはいないかもしれない、しかし彼は「映画」の奇跡を、ロッセリーニの名の下に今もなお信じ続けている。

モレッティの傑作に感動しつつ、さすがに荷物を持っての移動は限界なのでホテルへと向かう。その後、再び会場に戻るとテレンス・マリック『ツリー・オブ・ライフ』の招待券を求める人々の雑踏に揉まれる。熱狂はわからないでもないけど(というかもちろん見たいけど)、この日からパリでは一般公開も同時に始まる作品なのに……。ここが映画「祭」の場であることを再確認する。

一昨日パリに到着した坂本安美さんにおよそ一年振りにお会いしたり、偶然お会いしたドミニク・パイーニ夫妻にご挨拶したりしながら、おそらく今年の監督週間の目玉、アンドレ・テシネ『Impardonnables』への長蛇の列に並ぶ。会場はもちろん満員。
……が、これにはまったく乗れず。ひとことで言えば「疑似家族」をめぐる「関係」を徹底して映し出すフィルム、だと言えるだろうか。スピーディーで的確な切り返しや、大胆なジャンプ・カットの巧みさには舌を巻くものの、あたかも「結果・結果・結果」と連鎖して「過程」が失われてしまっているかのような、語りの側面には静かな過激さが潜んでいるのだけど、どうにもそこに映り込む人々の姿がボヤけてしまっている。この「手法」の選択によって、本当に重要な瞬間こそがすっ飛ばされてしまっているかのようで、腑に落ちないのだ。こんな感覚を最近どこかで感じたなと思ったが、そう、つい最近パリでも公開されたトラン・アン・ユンの『ノルウェイの森』だ。あっちはあっちでやたら思わせぶりな構図やら編集やらに喚起される、「意味」やら「意図」やらの過剰さにゲップ気味だったけれども、こっちはこっちで画面それ自体への執着の薄さに空腹感を覚えてしまう。
海沿いのロケーションと、そこに漂う客船やら小型ボートやらといった小道具が実に魅力的だったのと、何よりも自然音を中心としたハードコアな音響(録音だけで3人の名前が並んでいた)の作り込みには心躍ったのだけれど……。同行したジャン=フランソワ・ロジェのご子息クレモンくんも、ご不満の様子であった。

カンヌ映画祭日記② 5/14

  今日からは週末ということで、とりわけパレ周辺は観光客でごったがえしていて、会場への移動が本当に大変だ。交通規制もあり、目の前、5メートル先にある会場に入るために1キロ以上遠回りさせられる。さらに様々な上映で足止めをくらい、かなり前から並んでも上映に入れない。優先順位の高い魔法のピンクパスを持ってるジャーナリストが会場に吸い込まれていくのを横目に、一時間近く待つものの満員で入れず途方にくれたり…。とりわけコンペ作品に関しては、取材はもちろんのこと、コンフェランスも優先順位の高いパスを持っているジャーナリストで満員。私たちの入る隙はないようだ。待っている時間にもう一本映画が見れると思うと悲しいかなどうしても足が向かなくなる。

 

   さてさて、愚痴はこのくらいにしておいて、今日の一本目は、監督週間での上映『La fin du silence』。監督はRorand Edgard。今まで数本の短編を制作していて、この作品は長編一作目ということだ。それにしても主演の若い俳優がすごい。まさに映画顔。そして全編に漂う不穏さが尋常ではない。監督週間は会場もよりにコンフェランスのスペースが設置されていてプレスのレベルに関係なく自由に出入り出来るため、上映後のQ&Aに参加することができた。若い監督だからか製作がいかに大変だったか、時間がない、資金がない、そして、いかにシンプルな方法で作品を制作したかということが中心だった。監督週間の作品はこれで三本目、なんとなく全体的に重いので気分を変えようとカンヌ初コンペ作『Michel』を見に行く。オーストリア出身のMarkas Schleinzerもはたまた長編第一作目の監督で、製作はフィルムローザンジュ。子供のスチールを全面に出していたので、子供映画なのかと思っていたらだいぶ趣が異なっていた。一人の男と子供、母親の不在。二人での食卓、二人で過ごすクリスマス…でも、離婚後のシングルファザーの話ではない。ネタばれするので言えないけど、これもまた重い。その後はある視点部門の『17 filles』のために別会場に移動しようとすると突然の雨に降られる。雨に負けずに待ったのに、結局は入れずじまい。やっぱり面白い作品を見るためには並ばないといけないのかー。

 本日最後は、念願のモレッティ。会う人会う人が傑作だと話していたので、確認作業のようなものだけど、見て良かった。これまでの1日目、二日目とだいぶ低空飛行している感が否めない。早くまだ見ぬ傑作に出会いたい!