爆音収穫祭レポート

11/1(金)『スプリング・ブレイカーズ』田中竜輔

『スプリング・ブレイカーズ』の4人の女の子たちは、開放的というよりは呪術的なマイアミの狂騒の中で、しかし一度としてセックスをめぐる直接的なシーンに遭遇しない。レイチェル・コリンだけはそのオッパイをスクリーンに曝け出す点で例外かもしれないが、しかし彼女もまた「このプッシーは誰にもあげない」と宣言するわけで、やっぱり彼女にもそれは遠いものなのだ。このフィルムの「拳銃」をめぐるあらゆるシークエンスが、メタフォリックに彼女たちの性的なイメージを昇華させているのだと考えることはできる。しかしそれら拳銃=陰茎は、彼女たちには決して「正しく」接続されはしない。彼女たちはそれを咥えこみ捻じ込まれる側に立つのではなく、むしろ咥えさせ捻じ込んでやろうとする側に回るのである。ゆえに、フィルムの冒頭でノートにペニスのイラストを書きなぐってフェラチオの真似事をしていた、かつての「日常」の彼女たちのイメージは、もはや重なり合うことはない。スプリング・ブレイクの日々とは、彼女たちの退屈で鬱屈に塗れた日常を解消するための時間でも、胸に秘めた欲求を現実に反復してみせる時間でもないのだ。ゆえに彼女たちにセックスを実現する時間は訪れない。つまりスプリング・ブレイクは、有限性に基づいた「人生」と比較されうる「期間」のことではない。

このフィルムの代名詞ともいうべき、ジェームズ・フランコの「Spring Break, Forever」という囁きは、スプリング・ブレイクがすでに「永遠である」ことを示す端的な事実についての断言であって、「願望」ではいささかもない。「私の日常には同じことしか起こらない」から、このスプリング・ブレイクの「特別な時間」を「永遠にしたい」と語った、スプリング・ブレイクを「青春」と取り違えて生きた黒髪の女の子が、解き放たれるのは当然だ。「青春」をめぐるあらゆる物語が反復してきたことと同様に、『スプリング・ブレイカーズ』もまたその意味で正しい「青春」の時間を黒髪の女の子に託している。『アデュー・フィリピーヌ』(ジャック・ロジエ)のラストシーンを思い出す。どんなに切望しても「永遠でないもの」を「永遠にする」ことはできない。人生に訪れるふとした「中断」。それと同じものがあの女の子には刻まれたのだ。

では、『アデュー・フィリピーヌ』でその地を去る船上の男に手を振って、彼に「中断」を刻んだ「女の子たち」は、どこへ行ってしまったのか? もちろん彼女たちはいまだ自らの生み出したその「中断」のなかに、一瞬の「永遠」に置き去りにされたままだ。『スプリング・ブレイカーズ』は、まさしく「永遠」それ自体としての「中断」を生き続けるゾンビのようにジェームズ・フランコを映し出す。彼にはもはや総体としての「人生」など、何の問題ともならない。彼が生きるのは「一瞬」に内在して生み出される「永遠」であり、「中断」それ自体としての「永遠」であり、すなわち「スプリング・ブレイク」の時空でしかない。

ふたりのブロンド娘はこのゾンビから「永遠」そのものとしての「中断」を、「スプリング・ブレイク」を引き継ぐことになるだろう。その「春休み」は終わらない。そのことは、すなわち彼女たちが『アデュー・フィリピーヌ』の女の子たちの永遠の輝きを引き継ぐことでもあるだろう。乾いた引鉄の音色のごとき、鮮烈な一瞬の永遠。その永遠は「青春」、そして「人生」の彼岸にある。

 

田中竜輔

11/4(月)『ホーリー・モーターズ』田中竜輔

レオス・カラックスが目覚める部屋は、そしてその壁の先に繋がる映画館は、いったいどこなのか。窓の向こうには空港に降り立つ飛行機が垣間見えるが、一方でその部屋にはまるで船の汽笛のような音色も、あるいは海の、潮の響きも差し込んでくる。重厚な機械の捻り出す振動音の、その奥底からこそ響いてくる世界の音響。映画館とはおそらくそのようにして生まれ出ずる音を聴き取るための場所なのだ。

『ホーリー・モーターズ』において、あらゆる事物は「人工/自然」という二項対立など生きていない。機械のような森だとか馬のような自動車といった比喩を超えて、あらゆる事物がハイブリッドとしての宿命を背負っていることを、このフィルムは私たちに気づかせる。知覚の再生産装置としての映画は、私たちに無垢なる自然をそのものとして与えてくれるわけではない。メルド氏の徘徊する墓地のあらゆる墓石に刻まれた「私のサイトを訪れて下さい」という一節は、そのままに受け取らねばならない。「死」でさえもまたすでに「自然」へと還るための純粋な手段ではなく、デジタルの信号のなかに自らの新たな生の様態を刻み込む行為と不可分なのだ。

オスカー氏の「森」への憧れは決して成就しない。「森」はもはや私たちの周囲に広がる人工物と不可分に融和しているのであり、そのざわめきを膨大なノイズの中から掠め取る術を介してしか、私たちは「森」に触れる術はなく、そしてそれはもはやかつて憧れた「森」と同じものではない。そのような「機械」それ自体としての「森」こそが、レオス・カラックスが目覚めた「映画館」という場所ではなかったか。

無数の役柄を渡り歩くこと、それは無数の生を引き継ぎ続けることであるとともに、そのたび毎に新たな死を自らに刻み続けてゆく行為である。機械のように、否、機械そのものとして自らの身体を躍動させ運動させるドゥニ・ラヴァンは、己の身体をフィルムそのものとして無数の死を刻み続けたまま、決して辿り着けぬ「森」の方へと足を進めている。『リアル』の「首長竜」が唸りを上げ、あるいは『マーヴェリックス』の「大波」が轟き、そして『スプリング・ブレイカーズ』の「銃声」が炸裂する、そんな「森」の方へ。

 

田中竜輔