カンヌ映画祭日記2 2013年5月17日(金)

カンヌ二日目。11時より、ある視点部門のアラン・ギロディー新作「L'INCONNU DU LAC」(Stranger By The Lake)を見る。発展場の湖のほとりに集まるゲイの男たちを描いた作品で、女性がひとりも出てこない、かつ男性器がこれでもかと映し出されるスキャンダラスな作品。ファーストショットでゲイたちが駐車している数台の自動車が示されるのだが、一見すると適当な配置に見えながらも、男たちが集う湖の異様な空気感がその「適当」な車の配置からバンバン伝わってきて、始まってから早くも期待が高まる。主人公の男が湖に着くと、すぐさま真っ裸になり、男性器モロ出しの姿がローアングルによって丹念に撮られていく。露悪的な映画というよりも、むしろ奇妙な爽快感が画面に満ち溢れていて、見ていて清々しい作品になっているのだから、アラン・ギロディーは本当に凄い映画作家だ。湖の近くの森の中では男たちがセックスをしていたり、好みの相手を探しながらうろうろしているのだが、冒頭の自動車の配置と同じように、異様な雰囲気が画面から伝わってくる。とはいえ、単に監督が綿密に構図やタイミングを計算してつくられている映画であるだけではなくて、本当に射精やらフェラチオやらをしている俳優たちの、その「曝け出し」具合にとにかく圧倒された。現在、フランスでは同性婚の合法化をめぐって物議や事件が起こっている最中であり、そんな中でこういった映画が上映されるのはさぞやスキャンダラスな出来事だろう。しかし、ただスキャンダラスな作品という枠だけに留まらない、性をテーマとした挑戦的な映画であり、ギロディーの底力を垣間見ることのできる傑作だったと思う。かつては大島渚が『愛のコリーダ』を引っさげて訪れたカンヌの地で、こういった挑戦的な新しい映画を見れるのは、本当に嬉しいことだ。でも、この作品は日本で公開されたとしても、ほぼすべてのシーンにモザイクがかけられてしまうと思うので、それが残念。となると、そもそもこの映画を日本で見る機会が今後あるのかどうかさえ怪しいところ。

カンヌのレストランはどこも高級リゾート地価格で、とても払えたものではない値段なので、売店でサンドイッチを食べたあと、14:30よりコンペティション部門のメキシコの映画監督Amat Escalanteの「HELI」。よくCNNのニュースとかで報道されているメキシコの麻薬絡みの犯罪を描いた作品で、歩道橋に見せしめとして死体が吊るされるシーンから始まるのだが、吊るされる死体が人形であることがバレバレで、不満というわけではないのだけれど(だって本当に人間を吊るすわけにもいかないから、しょうがないものね)、導入部分にはあまり乗れず。主人公エリの妹の恋人が見習い警察官で、その男が主人公の家に麻薬を隠したことから、家族が汚職警察たちによって酷い目に合わされるというのが話の筋。メキシコの麻薬犯罪の実態(に少なくとも見えるような映画)を、たとえばナポリのマフィアを描いた『ゴモラ』並に追求しているのであれば結構面白かったと思うのだけれど、社会性を適度に背景としてメキシコ青年の鬱屈を描いているだけの、ひどく小粒な作品に収まってしまっている感が否めない。要するにあまり面白くなかった。鑑賞中、アレックス・コックスのメキシコ警官ものの『エル・パトレイロ』がまた見たくなってきてしまう。とはいえ、麻薬組織に捕まった見習い警察官が、拷問によって男性器を火で焼かれるシーンがあって、隣で見ていた槻舘さんが少しぎょっとしていたのが妙に印象深い。あれ、本当に火をつけていたみたいだけど、どうやって撮ったんだろう?そこがちょっと興味深い作品であった。じゃあ、冒頭のあのバレバレの人形をどうにかしてくれよ、とも思うのだけれども……。

続いて17:15より監督週間部門のClio Barnard監督作「The Selfish Giant」。上映前の挨拶でわかったのだが、イギリスの女性監督である彼女はとてつもなく背が高く、てっきり「自己中な巨人」というタイトルは自分のことなのだろうなと思いつつ、鑑賞。クズ鉄を拾ってはそれを回収業者に売っている、自己中で生意気な少年とその友人を描いた作品で、洗練されたイギリス英語はまったく出てこず、汚い言葉ばかり言うような人々がたくさん登場する。これも先ほど見た「HELI」と同じく、ある特定の場所とそこで暮らす特定の階級の人々を描いているのだが、主人公の少年が「自己中」であろうと必死に演じている感が拭いきれず、あまり魅力的な作品には思えず。そもそも、映画の子供はたいてい生意気か元気か馬鹿か可愛いか何かだと思うのだが、自由奔放なありのままの子供の姿を率直に撮ったほうが良かったのではないか。『大人は判ってくれない』や『動くな、死ね、甦れ』のような悪ガキ映画の系譜に連なる作品であることは確かなのだが、この映画の場合はぎゃあぎゃあ叫くだけのただの悪ガキにしか見えず、見ていて少し辟易してくる。悪さと言えば電気ケーブル盗むだけっていうのもねえ。ワレルカみたいに列車を脱線させるくらいしてもらわないと、みたいな不満が残る映画であった。

大した休憩もできないまま(上映本数が多い上に、1時間前から並ばないと入れないこともあるから)、19:30から監督週間のマルセル・オフュルスの作品「Un Voyageur」。上映前のマルセル・オフュルスの挨拶が30分くらいあって、さすが爺さん、話が長いと思っていたら、この映画は自分で自分のことを撮ったドキュメンタリー作品のようで、映画の中でもまた監督の長話がスタートし、少し疲れる。とはいえ、父マックス・オフュルスをめぐって展開する前半部は面白く、ナチス政権下のドイツからフランスに亡命してきたときのこと、アメリカに渡り、プレストン・スタージェスといった監督との交流の逸話は息子マルセル・オフュルスにしか語ることができない貴重なものだろう。ただ、ところどころに父親オフュルスや息子オフュルスの作品の抜粋が挿入されるというような、映画としてはひどく普通につくられたドキュメンタリー作品であり、ある映画監督が見てきた出来事や生きた時代の証言を収めたもの、という程度にしか見えず、映画として目新しい何かが生まれている感じはせず。そもそも、自分で自分のドキュメンタリーを撮るってどういうことなんだろう、と思っていると、案の定(?)、後半は自分が獲った賞の授賞式の映像やら、ウディ・アレンからもらった賞賛の手紙やら、ゴダールが自分を褒めている映像やらばかりが紹介され、「わしはこんなにすごい監督なんじゃぞ!」という自画自賛映画に陥ってしまっていた。なるほど、誰も自分のドキュメンタリーを撮ってくれなかったから、自分でつくったということね。でも、この手の映画を、何も自分で撮らなくても、と思った。もしゴダールが『JLG/自画像』の中で自分の自慢話ばかりしていたとしたら、あの映画はさぞかしつまらないものになっていたんだろうな。「JLG/自画自賛」みたいな、などとどうでも良いことを考えつつ、ホテルに帰り着床。