映画日記 パリ―東京―カンヌ1 2013年6月22日(土)

 カンヌ映画祭とパリ滞在中の日記更新が滞ってしまった。慣れない土地で毎日せっせと映画を見て夜遅くにホテルに帰って日記を書くのが思っていた以上に大変だったのと、楽しい反面、ヌテラをパンに塗って食べるだけの日々で蓄積されていくストレスが執筆作業に向かわせなかったのがその理由なのだが、帰国後に映画館でお会いした廣瀬純さんからずばりと言われてしまった通り、三日坊主とはまさにこのことなのだろう。いつかまとめて書いて人知れず更新しておけばいいかと思っていたのだが、案の定、帰国後も日記を書く気にならず、気がつけば6月も終盤に差し掛かってしまった。最初の日記を読み返してみると、飛行機の中で『絶望論』を読み、「パリ到着前からすでに己の無力さを実感」したと書いてある。本当にその通りになってしまった。それに関しては日頃の自分の怠惰さを反省するしかない。  

 とはいえ、こうして日記を再開したのは、特に義務付けられているわけでもない日記を中途半端にやめたことになぜか負い目を感じてしまっているからだ。だがそれ以上に、現在開催されているフランス映画祭で見たいくつかの作品や、本誌の編集作業中に東京で出会った人々とのお話が、今回のパリとカンヌ映画祭滞在中に見た映画や経験をより鮮明に思い出させてくれているような気がしたからである。なので、苦肉の策のようで恐縮だけれど、「映画日記 パリ―東京―カンヌ」とこれ見よがしに銘打って、日記を何回かだけ更新させていただきます。ヘミングウェイは「パリは移動祝祭日だ」と書いていたし、ドゥルーズも「文学とは健康のことである」と書いているしね。いまはそれを「すでに立ち去ったパリ旅行の日記を書くこともひとつの健康的な行いであるはずだ!」と都合良く解釈して、つらつらと書いていくことにしたい。気楽にこの日記を書いていったところで川越シェフみたく本誌ブログが炎上するわけでもないだろうとタカを括っている節も自分の中になくもないけれど、個人の尊厳や事実関係には細心の注意を払いますので、ご容赦ください。  

 槻舘さんやパリでお会いした田中裕子さんが僕に強く薦めてくれたおかげで、フランス映画祭で上映されたギヨーム・ブラックの『遭難者』(仮)と『女っ気なし』(仮)に出会うことができた。どちらも本当に素晴らしい作品だ。両作ともフランス北部にあるオルトという小さな街を舞台にしており、特に『女っ気なし』は、ヴァカンス地に漂う独特の雰囲気や移りゆく光を誠実かつメランコリックに捉えることに成功している。これらの作品についてはすでに本誌編集員の増田さんや代田さんが紹介してくれているのでそちらをお読みいただければ幸いだが、それにしてもこの映画に出ているヴァンサン・マケーニュは本当に凄い俳優だと思う。まず、「まさに田舎の街の孤独でシャイなオタクっぽい男とはこういうものだ」とこの映画を見て誰しもが納得できてしまうように、私たちが頭に思い描いているようなイメージを意図的に体現できている点。たしかに日本は内向的なオタクに縁の深い国なのかもしれないが、いざその紋切り型な人物像を観客にそのものずばりだと納得してもらえるように映画として撮ろうとしても、なかなかこうはうまくいかないものだろう。そのうえで、この映画は短い作品ながらも、そのシルヴァンという男を演じているヴァンサン・マケーニュは、ヴァンサン本人でも他の誰でもなく、まさにシルヴァンという男その人にしか見えない。つまり、この映画を見ると、まるでシルヴァンという男は実際にいまもまだオルトという街で生き続けているように思えてきてしまうのだ。自分自身の演技を正確にコントロールしながらある人物を体現することが俳優であることの最低条件なのかもしれないが、いくら演技を深く追求していったとしても、演じられた人物の「存在そのもの」を創出することは容易なことではない。本誌が行った監督へのインタヴューの中で、監督はこの映画を見てオルトという街を訪れる人が多いんだと言っていたが、それはギヨーム・ブラックが信頼を寄せるこのヴァンサン・マケーニュが創出したシルヴァンという男の存在感とその魅力によるものではないかと勝手に思っている。ヴァンサン・マケーニュはカンヌ映画祭でも3本の出演作が上映され、ル・モンドでも第一面の記事で大きく取り上げられていたが、おそらく日本でも今後多くの出演作が上映されるようになるのではないだろうか。「ヴァンサン・マケーニュの〜」みたいな邦題がつけられた映画が公開される日が来ることを想像しつつ、そのきっかけとなるかもしれない本作の配給を決めたエタンチェの池田さんに深く感謝を申し上げたい。  

 パリ滞在中、ベルヴィルの餃子屋で晩御飯を食べたあとに偶然出会ったヴァンサン・マケーニュはこの映画のような冴えない男ではまったくなく、かなり良い男だった。ギヨーム監督の次回作にも出演する予定で、体重もこれらの映画のときよりも20キロ近く落としているようだったので、いまからその作品の完成が楽しみでしょうがない。たぶん、あのあとヴァンサンも、あのヘルシーな冷凍餃子をダイエットとして食べに行ったんだろうな。ギヨーム監督のインタヴューは今年11月の作品公開にあわせて掲載予定なので、その際にこの作品についてはもっと詳しく書くことにしよう。