Report from Cannes 06 | 5月21日

 カンヌ滞在最終日。目覚めは9時半。連日の疲れからか、完全に寝坊。荷造りを済ませ、最後の上映へと向かう。毎朝お世話になったホテルのビュッフェへ向かうも終了時間ギリギリで、まともにパンもベーコンも残っていない有様。ま、今日はどうせ1本しか見る時間がないのだから軽くでいいかと思いつつ、ちょっと硬めで噛みごたえのある、お気に入りのクロワッサンを食べ納められなかったのは残念無念。
カンヌ最大の上映ホール、Grand Théâtre Lumièreへ初めて入る。収容人数は2500人。よく考えるとこんなに沢山の人たちと映画を見るのって初めてじゃないだろうか。バルコニー席ほぼ中央の素晴らしい位置を確保して、コンペ外作品、クリストフ・オノレ『Les Bien-aimés』の開始を待つ。クロージング作品だし、午前中の上映ということもあって、後ろにはチラホラ空席も見えるけれど、中学生くらいと思しき少年たちの姿なんかもあって、ちょっと嬉しくなる。日本の映画祭で中学、高校生の観客の姿って、ほとんど見たことがないな。

僕はオノレを『Dans Paris』しか見ていない、文字通り「悪い観客」である。『Dans Paris』はいい映画だと思っていたけれど、その後の作品は特別上映などの機会を逃してしまい、こちらで公開されていた『Homme au bain』にもなんとなく足が向かなかったまま。だから、オノレという作家については無知極まりない身分ではあるけれど、この『Les Bien-aimés』には、びっくりするくらい感動した。評判はどうやらあまり芳しくないのは、プレス・コンフェランスの閑散振りを見ればわかるし、それも頷けるような「弱さ」があちこちにあることは認めなければいけない。でも、そういった「弱さ」こそが何よりも捨ておけないのだ。
1964年、リュディヴィーヌ・サニエ、そして後半部ではカトリーヌ・ドゥヌーヴが引き継ぐこのフィルムの主人公マドレーヌの働く、パリの一角の靴屋からこのフィルムは始まる。冒頭の店の中を歩き回る足の交錯は、槻舘さんが言うように『恋愛日記』であり『ゴールデン・エイティーズ』だ。そこから、いわば「おフランス」的な色使いやセットのひとつひとつが、まごうごとなきクリシェとして立ち上がっていく。いや、『ゴールデン・エイティーズ』自体、それは既にひとつのクリシェを形作っていたのだから、このフィルムで繰り返されるのは、クリシェに対するクリシェだと見るべきだろう。要するに、『Les Bien-aimés』に許されているのは、いわば「孫引き」のオマージュでしかない。物語の展開点で挿入されるミュージカルのシーンは、もちろんある程度の多幸感を与えてもくれる。けれどその驚くほど稚拙なリップシンクの前で、私たちはどうしようもなくその「夢の世界」の手前に引き戻されてしまう。
『Les Bien-aimés』は、ジャック・ドゥミへの愛を隠さないし、そしてヌーヴェルヴァーグへの愛も隠さない。けれども、それはもう二度と取り戻すことができないものだということもまた、このフィルムは十分すぎるほど知っている。いつかの夢の余韻をそのままに生きることなど可能ではない。AIDSが蔓延し、ツインタワーが崩壊した「その後の世界」を、私たちは拒むことができない。『シェルブールの雨傘』や『恋愛日記』を可能にしたあの素晴らしき世界は、もうそこにはない。前半のポップな色調は、映画が現代へとその舞台を近づけていくごとに、少しずつくすんでいく。もう世界には、トリュフォーもドゥミもいない。このフィルムは2008年で物語を終えるけれども、それから2年の間にロメールやシャブロルも逝ってしまった。世界は終わり続けているのだ。
 でも、それでも失われた時代の映画への想いを生きていきたい、いやそれ無しでは生きていけないと、『Les Bien-aimés』は、まっすぐ告白する。 「あなた無しでも生きていくことはできる/でも、あなたを愛すること無しには、生きていけない」 と、終盤で流れたAlex Beaupainによるシャンソンは歌う。失われてしまったものへの私的な想いを馳せてのみ映画を作ってしまうことは、たぶんとても「弱い」ことだ。でも、『Les Bien-aimés』はそんな「弱さ」に寄り添って生きること、その「弱さ」に寄り添うという過酷を肯定するための術を模索することを諦めない。ダニエル・シュミットの『季節のはざまで』や、エドワード・ヤンの『ヤンヤン 夏の想い出』、あるいはデプレシャンの諸作を思い出しもする。けれども、彼らよりも圧倒的に若いオノレのような作家がこういった主題を手がけることは、彼らの場合とはまったく違う意味を持つはずだ。そしてそれは危険なことだし、簡単なことではまったくない。だからこそ、オノレは愚直にカトリーヌ・ドゥヌーヴ、そしてその別れた夫役にミロシュ・フォアマンの力を必要とする。ふたりの力を直接的に「借り」ることでしか、こういうフィルムを実現することなんかできないとでも言うように。もちろん、キアラ・マストロヤンニをマドレーヌの娘ヴェラ役に選んだことだって同じことだ。
実に安易だと思う。多分似たような趣向の映画は沢山あるだろうし、そういう映画の大半は個人的にも好きじゃない。けれども『Les Bien-aimés』がどうしようもなく愛おしくなるのは、そうやって借り受けた「記憶」に対して、「落とし前」をつけようともがいていることが、ありありと見えるからだ。たとえば、マドレーヌたち家族3人がパリでの久々の再会後にベッドに3人で横になって会話をする本当に愛らしく素晴らしいシーンがある。そのシーンの記憶がまだ乾かないうちに、今度はアメリカのホテルの一室を舞台に、ヴェラが自分が恋をしたゲイの男とその恋人とともに3人でベッドに寝転がるシーンを、今度は優しくも痛ましく映し出すことで、オノレはそれを「リメイク」する。
無論、完璧な出来だとは思わないし、安易であることには変わりない。でも、そんな壊れやすく危険な幻想を生きようとする、それもここまで愚直で必死な態度というのは、本当に久しぶりに見たような気がする。あらゆるすべてを失ったドヌーヴに、最後に訪れたほんの少しの奇跡は、誰にだって予想がつくような安っぽい「お約束」な演出だ。けれども「その後の世界」に生きる映画である以上、このフィルムはそうやってしか終わることができなかっただろう。僕はこの映画の全てを肯定する立場にありたいと思っている。そして、大切な人たちみんなに見てほしいと思う、そんな映画だった。

エンドロールの「マリー=フランス・ピジェに捧ぐ」の一節とともに、初めてのカンヌ映画祭は終わった。カウリスマキとボネロが見れなかったことが何よりも心残り。この文章を書いている今は月曜深夜にして火曜早朝。実質5日間程度しかカンヌに滞在できなかった僕には、当然のことながら受賞結果はまったくピンと来ない。まずは気を切り替えて槻舘さんと同じくパリで封切られたカンヌ上映作品をなるべく早く見に行きたい。それとともに、一刻も早くオノレの過去作品のDVDを探しにいかなければならないと思っている。