ミッキーさんはずっと青春

 2012年2月17

 久しぶりに神保町で昼食だ。学士会館の中華料理である紅楼夢。学士会館という名前は何か権力的で好きじゃないけど、この建物はかなり良い。設計は佐野利器と高橋貞太郎。古色蒼然としているが、天井が高く、紅楼夢にもシーリング・ファンがゆったり回っている。窓とカーテンの感じが往時のコロニアルな雰囲気。本日のランチの麻婆茄子炒飯が来るまで、東京堂で買った本を読んでいた。片岡義男と小西康陽の『僕らのヒットパレード』(国書刊行会)だ。この本は片岡と小西が「芸術新潮」誌上でやっていた交換コラムが一冊になったもの。主に好きなLPを一枚採り上げて、それについてのエッセーが綴られている。片岡が書くナンシー梅木についてのエッセーが面白かった。

 ナンシー梅木には、ぼくも注目していて2〜3年前に『Miyoshi』というCDを買って何度か聴いたことがある。進駐軍まわりの女性ジャズ歌手だったが、26歳のとき本格的に歌の勉強をしようと渡米した人だ。1955年のことだった。その後ハリウッド映画にも出演し、マーロン・ブランドと共演した『サヨナラ』でオスカーの助演女優賞まで獲得している。片岡義男が書いているのは、『ナンシー梅木 アーリー・デイズ』というアルバムで、彼女が渡米する前の1950年から54年までに録音した歌を集めたアルバムだ。片岡は「彼女の英語をぜんぜん違和感なく聞けた」と書いている。「違和感なく聞けた」というのはすごいことだ。なぜかと言えば、片岡義男はバイリンガルで、そのバイリンガルぶりが隅々まで発揮されている『ぼくはエルヴィスが大好き』という名著がくらいだ。戦前だったらディック・ミネの英語も「違和感なく」聞ける気がする。ぼくはバイリンガルではないから片岡義男みたいに断言はできないけど。ちなみに、ぼくが持っている『Miyoshi』というアルバムのタイトルだが、ナンシー梅木の本名は、梅木美代志というのだ。それでMiyoshi。こっちのアルバムには、ジャズのスタンダードの名曲がつまっている。すごくいいアルバム。

 『おれと戦争と音楽と』(亜紀書房)というやたら面白い本も読んだ。書いたのはミッキー・カーチス。「ロボジイ」でロボットの中に入っている爺さんを演じている人だ。まだぼくが幼稚園生だった時代に、母がぼくの友だちのお母さんたちと「淡路恵子とミッキーも離婚しちゃったわね。1年もったのかしら?」なんて話していたのを思い出す。なにせ当時のロカビリー三人男のひとりだったから。ちなみに他の二人は山下敬一郎と平尾昌晃。日劇のウェスタン・カーニバルの時代だ。ぼくは、ずっとミッキー・カーチスのことを忘れていたのだが、ここ10年ぐらいの間に、ぼくの友人の映画に2度も出演していて、すごくいい味を出していた。この老人だれよ?って思ってクレジット見たら、ミッキー・カーチス! 青山真治の『WiLD LiFe』や冨永昌敬の『パンドラの』に出演していた。さっきフィルモグラフィーを調べていたら、最低でも1年に2〜3本映画出演作がある。出ずっぱりの大活躍だ。

 『おれと戦争と音楽と』はミッキー・カーチスの自伝。タイトルの最初に「おれ」がくるところなんか実に格好いいね!謙遜なんてまったくしていない。かつて日本のエルヴィスと言われていた彼は、その呼称に腹を立てていたという。「『和製プレスリー』と呼ばれていたのは許せなくて、エルビスのことを『米製ミッキー』と言えよと、本気で怒っていた」を書いている。どのページにもこのように最低1回は笑えるネタがつまっている。だって彼は立川流の真打ちで、ミッキー亭カーチスなんだ。病床の談志を見舞いに行き、「ミッキーにはいろんな面白い話があるんだから、それを書き残しておかなくちゃ」(あとがき)と談志に言われたことがこの本を書いたきっかけだという。大いに笑って、ちょっとほろりとする。まるで古典落語の世界だ。もっともけっこう語彙も少ないし、文章も練れてない。つまり本人が書いたのに間違いないね。だからもっといい。

 幼稚園生だったぼくは、ミッキー・カーチスを「外人」だと思っていた。顔も外人だった。この本を読んでみると、彼は日英のハーフの父バーナードと日英のハーフの母リリーから生まれている。生まれは赤坂、そして育ちは上海。本書の18ページにカーチス家の系図が出ているけれども、複雑すぎてぜんぜん理解できない。やっぱりかなり「いかがわしい」。バーナードは、上海に行ってからほとんど家に寄りつかなくなったらしい。ミッキーさんはバーナードがスパイだったんじゃないかと睨んでいる。戦前、戦中の上海だ。『上海バンスキング』だ。リリーは戦前の日本では、「スタァ」誌で映画ライターをやっていたという。「スタァ」は、淀川長治や双葉十三郎が編集していた雑誌だった。だからミッキーさんのお母さんは、淀長や十三郎と一緒に仕事をしていたっていうことだ。戦中の上海では、顔かたちから、憲兵にしょっちゅう着けられ、敗戦後、引き揚げ船で苦労して東京に帰ってくると、「進駐軍」を言われる。普通こういう場合、「居場所がない症候群」で引きこもりになり、「おれって誰?」という問題に悩むものだ。もちろんミッキーさんも例外ではなく小さい頃は人見知りだったらしいが、思春期に入ると、通った和光中学がよかったのか、音楽に親しみ、学校をサボって新宿末広亭に「引きこもる」。「引きこもって」大笑いの毎日だ。将来のミッキー・カーチスも落語家ミッキー亭カーチスももう中学時代にほぼ完成だ。そして、当時の音楽と言えば「進駐軍まわり」。顔が「外人」なのに、英語が鍛えられたのはキャンプだ。だって、英語が下手だと、米兵からブーイングを喰らったからだ。ミッキーさんの友だちでいちばんブーイングを喰らったのはムッシュだったと書いている。

 それからサムライというバンドを率いて欧州ツアーを何度もやったり、音楽プロデューサーとしてガロ(『学生街の喫茶店』という曲があったよね)や細野さんの初期をプロデュースしている。サムライの頃はヴェトナム反戦の時代だった。つまり、ミッキーさんはここでも「戦争」と出会う。ロカビリーで始まり、ロックの多様な進展を、ミッキーさんは、その中心に居ていつも受け止めていた。そして音楽の動向の中心に居たということは、世界の運動の中心にいたということでもある。

 ミッキーさんは50歳を迎えた1988年から音楽の方向を少し変えた。「ロックから少し離れてジャズに真剣に取り組むようになった。ジャズの本当の良さがわかるのは、そのくらいの人生経験が必要なんだね」。Youtubeでそんなミッキーさんの歌を聴くことができる。たとえば『マック・ザ・ナイフ』(http://www.youtube.com/watch?v=GEMWhVSi3l4)、それから『我が心のジョージア』(http://www.youtube.com/watch?v=OU3rVGu5-Ko)。ホントうまいよね。「アメリカのある女性シンガーがおれの歌を聴いて、『私、その歌を20年も歌っていて、初めて本当の意味がわかったわ』と言ってくれた」とミッキーさんも書いているけど、歌詞を大事にするミッキーさんの最近の歌は実にいい。もっとも、そう思っているのは、ぼくばかりじゃなさそうだ。「カントリー界の大御所ウィリー・ネルソンがスタンダード・ナンバーばかりを集めたアルバムを何枚も出している。おれもカントリーに縁があって、風貌が似ていてスタンダードも演っているから、『ミッキーさん、ああいう路線はどうですか?』なんて訊かれる。/でも、おれが目指しているのはもう少し都会的な感じのものだ。彼は彼ですごい歌い手だけど、おれはやっぱり、ミッキー・カーチスという歌手が一番好きだからね」。ウーッ、カッコいいな。