——冒頭、鳥の巣が映されて「なぜこんな姿になってしまったのか。その訳をこれから明らかにしたいと思います」と権藤のナレーションがされます。最後にそれが明らかになったときに、鳥の巣が違う意味を持っていたことに気づいて結構驚いたところがありました。なぜあのようなかたちになったのでしょうか。

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冨永:結局それは誰がナレーションの語り手になるかということにつながってくるんです。最初は貫一だったんですけど、あるときシナリオが進まなくなったんです。それは結局、俺が教え子の立場で考えてたからなんですね。愕然としました。もう俺はおっさんだったんです(笑)。権藤のほうにより切実さを感じる。だけど、自分にもまだ貫一のような青年の部分もあるから分断してたんですよね。それが語り部を権藤に切り替えた途端、最後まで書けた。でも権藤が一体どの時点からそれを語ってるのかという問題がありました。冒頭「これが現在の私」と言いながら画面に映ってるのは野鳥の巣なんですよね。この映画は、あの鳥の巣のショットのどこかに現在の権藤が確かにいるということが物語の柱になってるから、権藤は鳥の巣としてナレーションを語ってるんです。コーエン兄弟の『ビッグ・リボウスキ』の冒頭で、「これからある男の話をしよう」とナレーション聞こえますけど、あれって枯れ草の塊が語ってましたよね。どこかの荒野から、風に吹かれてロサンゼルスの海岸へと転げ回るでしょ。つまり物質が語ってるわけですよね。あそこまでふざけるつもりはなかったですけど、語る以上はその姿を見せないといけない。そういうことは自然と縛りになっていた気がします。

——それで思い出すのは『シャーリーの転落人生と好色人生』公開時のトークショーだったと思うのですが、冨永さんが監督した『転落人生』では裸体を見せる映画だったけど、もう一方の佐藤央監督の『好色人生』は裸を見せない映画だと話されていたことです。

冨永:裸体なんか見せなくても映画はエロを表現できます。でも貫一とみはり(柳英里紗)がセックスすることになったら、当然ふたりは裸になる。目的はエロでも裸でもなくて、裸になってて当然の場面を我慢せずにちゃんと見せたいということです。『好色人生』は『転落人生』とちがって、セックスの場面自体がなかったので、比較はできないんですけど。

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——裸体というのもそうですし、それがさらに皮膚の下まで露わになって骨にまでなっていますね。

冨永:骨といえば『パビリオン山椒魚』でオダギリジョーさんが放射線技師でしたよね。彼は人間の身体の中を写真に撮る仕事で、骨自体には触れないし実物は見ないんですけど、それを透視する仕事じゃないですか。そのときから骨に関心があったのかもしれません。

——やっぱり言葉上でしか存在しないソーラーパネルよりは、おしぼりのほうに親近感を抱いているのかなとは思いました。

冨永:おしぼりは偶然出会ったわけですけど、考えれば考えるほど面白いんですよ。工場を見せてもらったときにその能力にびっくりしました。回収してきたおしぼりはすごい汚くて、それを洗って新品同然にするんですね。その能力たるやとんでもないもので、汚れてるくらいだったらまだましですけど、割れたガラスをそのまま拭いてそのまま返してる場合とかもあるわけです。それを機械に入れて高速で回転させると、おしぼりに付着しているセロファンから何から全部飛んで、単なる汚れた繊維の状態になる。そしたら、あとは洗うだけなんです。いま洗うだけと言いましたけどね、汚れというのもいろんなレベルがあるわけでしょ。ボールペンのインクだったり油だったり血だったり。場合によっては精液だったり。今回協力していただいた会社は風俗店には卸してなかったけど。回収したおしぼりに混入してる有害な物質を、わずか数時間で取り除いて、洗って新品同然にして、巻いてビニールに包むと、嘘みたいにきれいになりますよ。つまりおしぼり工場というのは、おしぼりが拭いてきた前夜の物語を、翌日にはすべてリセットしてしまうんです。これが面白かったんです。

——『ローリング』はそういうテーマの映画でもありますよね。先生でなくなって転落していった川瀬さんがもう一度立ち直ろうとする。つまり、自分をリサイクルしようとするわけですよね。

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冨永:おしぼりやソーラーパネルは水戸で見つけたものですけど、ちょうど同じころに教職員や警官、公職者の不祥事のニュースが気になってたんです。国民の血税で給料をもらってる人たちが事件を起こすと、当然マスコミは放っておかない。普通の会社員が同じ事件を起こすのとはちょっと扱い方が違う。それで余計にその後の彼は苦労することになる。もちろん自業自得なんですけど、指導的立場にあるはずの人が、事件(この映画の場合は性犯罪ですけど)の当事者になった場合、絶対に周りは許さないでしょ。普通は立ち直れないですよ。特に先生の場合はそうだと思うんです。生徒たちは死ぬまで彼を先生と呼び続けると思うんです。だって「先生」と呼んでいたのを急に「○○さん」って呼び方を変えることはできないじゃないですか。これはもう絶対塗り替えられないんです。だから先生の事件があると、これからこの人どうするのかなと、変な言い方だけど同情してしまうんですよ。

——権藤はいろんなことに巻き込まれて生まれ変わろうとするんですけど、なかなかうまくいかないわけですよね。そう簡単にはリセットされないし、そこからどう立ち直るのかというのは難しい。

冨永:自分には違う居場所があるんじゃないかと考えたら、早くそれを探したいと思うんですよ。この映画の場合、権藤が自分から工場で働かせてくれと貫一に頼んだのに、いざ働いてみたら、自分にはこの仕事は向いてないとか言い出すでしょ。しまいには「男ってのは歳をくっても成長するものなんだよ。あるとき何かをきっかけにして」と、先生丸出しでものを言う。あれはなんとも不思議な境地ですよね。つまり権藤は、立ち直って新しくなった自分にナルシズムを抱いている。俺そういう人が昔から気になってるんですよ。変身したがる人が好きなんです。思えば『パビリオン山椒魚』も『パンドラの匣』も『乱暴と待機』もそうでした。

——最後に、「ローリング」というタイトルについてお伺いしてもいいですか。

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冨永:おしぼり工場を見せてもらった後に、おしぼりを英語で言うと何になるのかとスタッフ間で話したんです。wet towelかなと思ったけど、それだと四つ折りのふきんみたいなものと同じになってしまう。区別するためには形状まで説明する必要があるから、それでrolled wet towelかなと。だから、おしぼりをつくるってことはローリングすることなのだと。あと、別の意味のローリングというか、roaring twentiesのroaringです。いわゆる「狂騒の20年代」ですけど、この映画ではどっちのローリングも合っているような気がしたんです。つまり、バカがいい気になって騒いでるとも言えるから。自分の映画はいつも喜劇だと思われてて、それに違和感があるんです。出てくる人間が間抜けなだけで、基本は悲劇、サスペンスでありたいと思ってるんですよ。やっぱり黒沢清監督の映画がホラーだと言っても、結局は笑わされるじゃないですか。あんなに恐い『回路』だって笑っちゃうところがあったでしょう。加藤晴彦が追いつめられて幽霊に思わず触ってしまうみたいな。『トウキョウソナタ』で役所広司が柱に頭をガンガンぶつけながら「ダメの上にダメを重ねた」っていう名台詞もあるじゃないですか。あのバランスはすごいなと思うんですよ。自分の映画もそうありたいです。

取材・構成 渡辺進也
写真 白浜哲

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