『Rocks Off』安井豊作
天使は至る所に 田中竜輔

「彼は誰に話しかけているのでもなかった。私はなにも彼が私自身に話しかけなかったと言おうとしているのではない、そうではなくて、私ではない他の者、たぶんいっそう豊かで、いっそう広くて、そのうえいっそう特異な、ほとんどあまりに全般的な存在が彼に耳を傾けていたのだ、まるで彼の前では、かつて私だったものが異様にも《私たち》のうちに――共通の精神の現前であり一つに結ばれた力たる《私たち》のうちに目覚めたかのように。私は私より少し以上であり、少し以下であった。いずれにせよ、あらゆる人間より以上であった。この《私たち》のなかには、大地が、諸元素の力が、この空ではない一つの空があり、重みと静寂(おちつき)との感じがあり、そしてまたはっきりしない束縛の苦味もある。そうしたことすべてで彼の前の私はある、そして彼のほうはほとんどなにものであるとも見えないのだ」(モーリス・ブランショ、『最後の人』、豊崎光一訳)

わずかな照明の隙間を漂うように、黒づくめの服を身に纏ったその人は、長い髪を振り乱し、椅子を軋ませている。周囲に広がる闇は、あたかもその人の姿を溶け込ませているように見える。しかし私たちはその人自身の「顔」をはっきりと目にすることはない。その人によって弾かれるというよりは、叩かれ、あるいは撫でられることで、剥き出しにされた自らの機械仕掛けの身体を忙しそうに躍動させるピアノの音響が聴こえる。しかし私たちはその人自身の「声(言葉)」をはっきりと耳にすることはない。この「顔」と「声」を欠いた「背中の人」ははたして、「音楽を演奏している」のか、それとも「音楽に演奏されている」のか?

その人は、ファーストカットからただただそこに存在していて、何の前兆もなく音楽はすでにそこに生み出されている。その音楽を何かしらの出来事や事柄に接合する余裕は与えられない。その最初の一音から(しかしながらいったい「どの音」が「最初の一音」だと呼びうるのか?)、それに耳を傾ける私たちはどこまでも能動的な聴者であるほかない。ここに奏でられる音楽は、先行する一切の前提条件を、あるいは先在する一切の知を、記憶を、あたかも切り捨てるような、限りない肯定の響きを体現している。そこでは「沈黙もまた音楽である」などといった注釈など、当然不要だろう。

私たちは『Rocks Off』と名付けられたフィルムに映るその人に対峙する、あるいはそのイメージに対峙するどんな言葉を持っているだろうか。純然たる音楽家であり、演奏者であり、あるいはその空間の周囲を取り巻く破壊の象徴であり、まったき語り手であり、そしてひとりの歴史の証人である……云々。だが私自身がその姿に思い浮かべていたのは、マノエル・ド・オリヴェイラの『コロンブス 永遠の海』(07)のなかで、緑色の衣服を身に纏い、口元に薄い笑みを浮かべる、あの「天使」のことだった。その姿をキャメラの前に一切隠すことなく、しかし同じフレームの内部に併存する他の誰もそれに気づくこともなく、時空を超えて、つねに、至る所に偏在するあの「天使」の姿を、闇に溶け込むあの「顔」と「声」を欠いた演奏者の身振りに、垣間見ていたような気がするのだ。。

『Rocks Off』というフィルムが映し出すのは、「法政大学学生会館」と呼ばれた幾つかの歴史をそこに積み重ねた建物、その解体の過程である。そのほとんどの場面において、キャメラは建造物の内部にその観測点を選択し、内皮へと刻み込まれた幾多の痕跡を内側から捉え、あるいはその外皮へと喰らわせられる破壊を内側から見つめている。人気のない通路や広間、何重にも落書きの重ねられた壁、打ち捨てられた机や椅子をひたすらにフィックスで捉える「内」への視線。対して、今まさに進行している建物の解体へと向けられ、解体に携わる人々と様々な重機の運動を時折パンショットを交えながら映し出す「外」への視線。このフィルムにおける建物の「内」と「外」は、あたかもひとつの生態系を構築するかのような対比を織りなしている。その「内」に属するものは植物のごとき「不動」を、反対に「外」に属するものは動物のごとき「運動」を体現する。建物の解体に携わる重機があたかも動物だとか恐竜の類のように映し出された解体現場を俯瞰で捉えたワンショットには、「動物」に捕食される「植物」という食物連鎖の典型的なイメージすら浮かび上がってくる。

そんな「内」と「外」とのイメージの交錯を、あの「顔」と「声」を欠いたあの演奏者の音楽を介しながら見つめていると、ここに映し出されている場所とはそもそもいったい何だったのかを少しずつ忘れ去ってしまうような思いに駆られる。この歴史ある建物にまつわる諸々の事実を知っているか否かといったことは、おそらく『Rocks Off』というフィルムにおいて本質的な問題ではない。だからといって先述したような諸々の「イメージ」の「誤読」めいた「見方」や「深読み」のようなことも重要なことではない。

おそらく本当に重要なことは、そういった「誤読」としての「見方」さえも許容するような、「見る」ことに伴う徹底的な「自由」をこのフィルムが有しているということ、それ自体にあるのではないか。すなわちこのフィルムを見る私たちに委ねられているのは、そのまま建物の外側を徘徊する「重機」たちを「動物のようなもの」だとか「恐竜のようなもの」として「読み取る」ことではなく、それら「重機」をまさしく「動物そのもの」あるいは「恐竜そのもの」として「見る」こと、あるいはその建物の内部に残された「壁」や「机」や「椅子」を、その建物の内側に群生する「植物そのもの」として、率直に「見る」ことである。

そう、『Rocks Off』とはキャメラの目の前に存在する対象を文字通り「あるものはある」として映し出すことによって、 たとえばグリフィスやフォードの映し出す風のように、あるいはムルナウや溝口の映し出す水面のように、 逆説的に際限のない「見る」ことの可能性を、そこに映り込むありのままの事物から引き出すことに賭けられた試みなのだ。だが、そのようなものとして「あるもの」を「ある」として映し出すことは、如何にして可能なのか? そもそもそんなことは本当に可能なのだろうか? 事物それ自体をそれ自体として映し出すこと、そして「見る」ことの困難に挑むためには、「問い」を生み出さねばならない。

その「問い」とは、すでに「そこ」に繋ぎ止められた事物たちに対し、まったく別のヴェクトルを導入することによって、それらを「よそ」へと接続する、一種の「儀式」を立ち上げることである。その儀式こそ、ステレオに振られたふたつのハイハットのリズムに召喚される、あの長い横移動のトラヴェリング・ショットであるだろう。

この「儀式」とはいったいどのようなものか? それはまさしく「不動」そのものとして空間に屹立していた「壁」をそのままに映し出しながら、3次元的な空間の把握からその「壁」を解き放ち、まったく新たな「イメージの壁」とでも呼ぶべきものを、「キャメラ」の運動によって、あるいは画面の外側からもたらされた「音楽(フィクション)」の力によって、つまりは「映画」なるものの力によって、スクリーンに打ち立てることだ。この「イメージの壁」は、その建物に介在するあらゆる事物に根ざしたものであると同時に、そこにすでに介在してしまう幾多の関係性を積極的に「切断」する主体である。もはや打ち崩される側と打ち崩す側との差異さえもそこには存在しないとでも言うように、『Rocks Off』はふたつの「壁」をそこに映し出す。

私たちはその「切断」によってこそ、無数の落書きが重ねられた「壁」たち、自らの役割を終えてしまった「椅子」たちや「机」たち、掘り返される「土」たちや吹き荒ぶ「風」たち、そしてその空間に何をするでもなく漂う「光」たちと「闇」たち、さらには「重機」さえも含んだあらゆる事物たちが、ただ単純にそこに「ある」という事態を真に「見る」ことを可能にするだろう。何かを構築するための「部分」としてでも、あるいは何かとして構築された「集合」としてでもなく、それ自体ですでにひとつの「全体」を織りなすかのような存在たちへと、この「切断」によって与えられたヴェクトルに沿って事物たちは、言うなればまったき「個」へと変貌する。

そんな無数の「個」と向き合うことこそ、あのひとりの演奏者が真に直面していた事態なのではないか。目の前にあるピアノという楽器だけでなく、その周囲の空気、あるいはその空間に漂う無数のノイズ、あるいは自身の身体が無為に奏でてしまう音響の数々--そういったあらゆる「個」が揺らめく空間の中で音楽を生み出すこととは、そのすべてを様々な関係性から解き放ち、そのうえですべてを「平等」に受け入れるという行為を介在せずには成立し得ないだろう。すなわち「切断」である。「音楽」とは、それら無数の「個」としてのあらゆる「響き」を肯定したうえで、それら「響き」との絶え間なき「接触」を際限なく試みる行為の別名にほかならない。

まさしくオリヴェイラの『コロンブス』における天使が、その映画に映し出された「建築物の窓」と「スクリーン=窓」という「視覚」の「接触」、それ自体を表象する存在であったように、この演奏者もまたひとりの「天使」として、無数の「響き」の「接触」を繋ぎ留めることを担っている。私たちがこのフィルムで耳にする「音楽」とは、そのためのプロセスが可聴化されたものである。だからこそ、この演奏者は「音楽を演奏している」のであり、同時に「音楽に演奏されている」のだ。

『Rocks Off』はたしかにひとつの建物の、あるいはそこに積み重なった歴史の「終わり」をめぐるフィルムである。だがその「終わり」とは、「切断」という行為を介して、無数の「個物」たちとの新たな、そして平等な「接触」を果たすことで新たな「壁」を生み出すこと、それ自体のことでさえあるのではないか? つまり、すでに「そこ」から失われたものであったとしても、私たちは幾度でもスクリーンという「よそ」において、その「終わり」に生まれる息吹を見つめることができる。それはすでに「出会い」と呼ぶべき何かでさえある。それも一度目の無垢なる「出会い」ではなく、それはすでに様々な関係性に塗れた事物たちとの「二度目の出会い」であり、「セカンド・チャンス」である。私たちがすでに至る所で出会っていながらもまったく気づきさえしなかった無数の「個物」たちとの驚くべき「セカンド・チャンス」、それこそが『Rocks Off』というフィルムに賭けられたものであるのではないだろうか。

私たちはそれゆえにこのフィルムの映し出す「切断」の運動に対しひたすらに全身を委ね、そして同時にその主体としてあろうとせねばならないだろう。至る所にすでに存在する「壁」を「切断」し、そしてそれと再び「接触」することで、誰も見たことのない新たな「壁」を打ち立て、「すべて」と出会うために。そのために私たちはひとりの「顔」と「声」を欠いた演奏者であり、あるいは、ひとりの「天使」であらねばならないだろう。

「待たねばならなかった、彼をしてこの待つことによって力を得、私との接触によって自己を確立し、この静寂によって私を疲れはてさせるにまかせねばならなかった。彼としては、私の諸限界とあまり異質のものでないような、そしてまたあまり厳密なものでもないような限界を見出さなければならなかった——彼は自分に閉じこもらねば、しかし私のなかで閉じこもらねばならなかった。彼の不確定性、それにこそ私は突然怖気をふるっていたのだったが、それでいて私は彼をあまりに私に近づけただろうような明瞭さにもそれに劣らず怖気をふるっていたのだ、親しいものとなれば、彼はあかの他人であるよりももっと私を怖がらせたであろう」(『最後の人』)

Rocks Off(未完成版)

2011年/130分/カラー
監督:安井豊作
出演:灰野敬二