トッド・ヘインズの『エデンより彼方に』は、たとえばダグラス・サーク、たとえばレオ・マッケリーといった旺年のメロドラマのリサイクルである。エド・ラックマンのカメラも、エルマー・バーンスタインの音楽も、メロドラマの色彩と音響を正確にコピーしている。テクニカラーと見紛うような色彩、正確きわまりないフレーミング、常に耳に響き、特権的な瞬間になると自己主張を始めるクラシカルな「映画音楽」。フォルムの面では、トッド・ヘインズの「勉強家」ぶりが突出している。50年代のクルマが街を走り回り、電化され始めたブルジョワ家庭のインテリア、女たちが身に纏うドレス、そしてこの地で開催される前衛美術展に織り込まれたジョアン・ミロの作品。コネチカット州ハートフォードという生活水準の極めて高い北東部のアメリカの50年代。このフィルムが再現するのは、そうしたアメリカである。「スモールタウンもの」というジャンルに包含しうるフォルムとメロドラマの物語を結婚させる試み──それが『エデンより彼方に』である。
シナリオの上でも、「泣かせ所」を外さない十分に練られた台詞──黒人庭師のレイモンドが女主人公のファーストネイムを初めて口にする部分など──が書き込まれ、主人公のキャシーを演じるジュリアン・ムーアにデボラ・カーほどの演技を望むのは無理にしても、かなりがんばって作っていることは認めよう。もちろん、同性愛や黒人差別──サークの『悲しみは空の彼方に』にはあるものの──といった主題が、背景にあるマッカーシズムとともに物語を稼働させるモーターになっている。こうした背景をフィルムの舞台と同時代に描いたとすれば、ジョセフ・ロージー的運命が待ちかまえていたことになるだろう。つまりフィルムの舞台とは同時代に不可能だったかもしれないモーターがこのフィルムには、それなりに仕付けられている。深読みすれば、ブッシュ一色になったアメリカの現在についての批評は、こうしたメロドラマの異化効果の上に可能になるかもしれない。
だがすでにヘイズコードのない「自由な国」アメリカに対して、異化効果を込めた批評を行うことに効果があったろうか。少なくとも私の目には、このフィルムは現在からは遠い。Far
From HeavenではなくFar From Present。かつて映画がこのような目眩くフォルムを現出させたことは本当だが、とりあえず今、『エデンより彼方に』を撮影する意味は、「スタイルの練習」以外の何なのだろうか。
(梅本洋一)
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