新潟の異常に高い湿度のためか、ゲームの展開が遅い。と言っても、これは日本代表のアタックに関することで、セネガルの戦術は実に単純。カウンター・アタックのみ。スピードを活かしてサイドから攻める。これだけだ。戦術が単純であれば、そこに必ずオートマティスムが働く。「僕らはこれをすればよい」。ジーコが監督になってからは、トゥルシエが主張したオートマティスムがまったく感じられない。それぞれのこの技術を活かすのはよいが、なるべくマイボールをキープしながら攻めるというのでは、攻撃が一気にスピードアップする瞬間がなくなるだけだ。
ラグビーのフランス対イングランド戦の戦評をフランスの日刊紙で読んでいたら、フランスの敗因をオートマティスムの欠如に求めている記事があった。ワイドに展開するという決して単純ではない戦術を選択すると、確かにオートマティスムを産み出すのには時間がかかるだろう。ジーコの求めるフットボールに、流れるようなパスワークが繋がる快楽が欠けている原因もそこにあるのではないだろうか。
なるべく長くボールをキープし、安全に攻めていくのが原則なのは、このゲームにも見えた。だがボールをキープする──たとえそれがワンタッチ、トゥータッチであっても──間に、セネガルは守備陣形を整え、アタックする空間が埋められてしまう。生まれたときからフットボールに親しんでいるブラジルの選手たちならば、それでもオートマティスムが生まれるかも知れないし、単独で仕掛けて相手を抜けるかも知れない。ロナウドやロナウジーニョを見れば納得できるだろう。だがこのゲームにおける中田を見れば、ゲームとしてのオートマティスムが必要なことは分かるはずだ。日本人でもっとも技術に長けている選手であっても、チームとしてオートマティスムがなければパスを出すために、一瞬のタメが必要になり、その瞬間、相手に囲まれてボールを奪われてしまうことがこのゲームには何度もあった。それは中田が不調だったからではなく、チームとしてのオートマティスムが皆無だったからだろう。バックラインでキープした後、誰にボールが渡るのか、その後、どのようにアタックが組立てられていくのか、最低限、その程度のオートマティスムは不可欠だと思う。(私はジーコの前任者を懐かしんでいるわけではない。彼のオートマティスムはバックラインの上げ下げだけで、それを愚鈍に実行していた宮本は何度も痛い目にあったし、アタックにおけるオートマティスムはトゥルシエ・ジャパンでは結局、そのラストゲームまで見ることはできなかった。)
後半28分で小野伸二が入ると、膠着したゲームが動き始めた。ほとんどがワンタッチのクリエイティヴィティ溢れる彼のパスは流石だった。もしジーコに小野と同様のクリエイティヴィティがあったなら、稲本、遠藤、小野の3人を中盤の底に据え、中田をセカンド・ストライカーとして1,5列目に動かす工夫があったかもしれない。今回は招集を見送られた高原のパートナーは中田以外に考えられない。それに柳沢とアレックスを使う理由がこのゲームでもまったく分からない。ノーマークで足下に来たボールを空振りするストライカーはプロには必要ないし、相手の左サイドに置いて行かれる左サイドバックは適性を欠いている。レギュラー・クラスを寸評すれば、唯一の失点は坪井のフィジカルの弱さだし、彼はフィードができない。宮本は誰の目で見ても、このゲームではノーミス。山田、遠藤は及第点。稲本は、後半30分以降の動きを前半からやればチームはもっと活気づいたはず。大久保はガッツだけで勝負できないことを覚え、常にシュートを打つこと。そして俊輔は? 確かにフリー・キックは魅力だが、このゲームでもフィジカルの弱さが目立った。本山と黒部は、まだこのクラスに達していない。
(梅本洋一)
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