パリ日記02/03/07-02/03/18 松井宏

3月7日(木)


「上村、飛行機乗り遅れを"泣き落とし"で逃れる」(サンスポ・ドット・コム12月17日付け記事より)
 アメリカでのW杯第2戦を終えた彼女は、空港での厳重なセキュリティー・チェックで、危うく飛行機に乗り遅れそうになったらしい。ところが「必殺技の"泣き落とし"」でなんとか難を逃れたという。以下上村愛子のコメントを引用する。
「セキュリティーに時間がかかるから、国内線に乗り遅れたんです。それでロスで成田行きにも間に合わなくなりそうになったのに、またセキュリティーの行列がすごくて、ボロボロ泣いちゃった。ビンラーディン許さん、って感じです」。
 記事の締めくくり-「日本女子モーグルの2枚看板がそろって飛行機に苦しめられる緊急事態だ」。
1979年12月9日(つまり僕と同い歳)兵庫県生まれの上村愛子は、フリースタイルスキー・モーグルの選手であり、98年長野五輪では7位入賞、02年2月のソルトレークでは6位入賞。華麗なエアと「アイコスマイル」に定評ある、156cm・49kgの北野建設社員だ。
つまり彼女は、アイコエアとアイコスマイルの他にもアイコ泣き落としを必殺技として有しているわけだ。状況からして、「ビンラーディン許さん」という発言は非常に正しいと言うべきだろう。9月11日以来、空港のセキュリティーチェックは以前にも増して厳しくなったのだし、彼女が泣いた場所はアメリカの空港なのだから。しかし、3月7日、PM6時30分発の香港経由パリ行きの飛行機に乗り遅れた者が「ビンラーディン許さん」とは言えないだろう、なにせ成田空港に到着したのが6時ちょい過ぎ、集合時間は4時30分と紙にはちゃんと記載してあったのだから。年間何人の人間が飛行機に乗り遅れるのかは知らないが、なにはともあれ、アイコは泣き落としに成功し、僕はただ涙も出なかったということだ。
そんなことを考えながらパソコンの前に座っていると、「宙吊り」という日本語が初めて自分の身体に一致しているのを感じる。これはこれで気分が良くて気分が悪い。
「なにー、はあー?!」-これが母の最初の言葉(3月7日は実家から東京へ家族が遊びに来る日だ)。僕が見たのはあの顔。スゴイ、出産の瞬間はこんな顔をしてたんだろう。
そんな母、君代から産まれたての僕は、自分の眼と耳が猛スピードで働き始めるのを感じている。旅はこうして始まる。

3月8日(金)


日本時間P.M5:30成田空港4階、窓から見える飛行機はやっぱりデカイ。その前で坂口厚生労働大臣のおデコが笑っている、こちらも負けじとデカイ。
キャンセル待ちで航空券を手にするのって凄く幸運なことなんだろうか、それともよくあることなんだろうか。予習と称して「カフェ・クロワッサン」で食べたクロワッサンは大して美味しくない。機内食は、もちろん期待できない、がやっぱり楽しみではある。滅多に座らない場所で、滅多にありえないシチュエーションで食べる料理は、やっぱり何か違う。
 香港からパリまでの約12時間はホントに長くて、何か本を読もうにも電気が消されてしまっている。「スーハ?スーハ?」、隣のおじさんの足は異常に臭くて、足が息をしてるんじゃないかと疑う程だ。辛い、辛い、眼の前の小さな画面ではキアヌ・リーヴスがスラム街の子供達に野球を教えている。良く考えてみると、アメリカ映画には郊外の荒れ果てた地区なんかが平気で登場してくる、そこもまた<マトリックス>なんだろうか、と酔いのまわった頭で考えてみる。郊外の街をトラヴェリングしていって、安っぽい高層住宅をカメラが見上げるシーンに、ついつい「んんっ」。
着陸3時間程前、手すりのボタンで頭上のライトが灯くことにようやく気付く。もう3月9日だ、おじさんはまだ眠っている、窓からは、何も見えない。

3月9日(土)


「時差ボケ」を楽しみにしていた。「いやあ、イタリア代表は時差ボケで疲れてるようですねえ」-そんなことありえるのか、根性で乗り切れるだろそれくらいっ、と常々考えてた。だから「時差ボケ」はホントに楽しみだったのに・・・、よく分からん。
部屋を貸してくれるS氏の指示通りRER(パリと郊外を結ぶ鉄道)とバスを乗り継いで、5区フォッセ通りへ。少し冷たい早朝のパリの空気と、イモ虫みたいなバスになぜか血が踊る。本日はモンマルトルにあるアベス劇場で『森の直前の夜』(ベルナール=マリ・コルテス作、クリスチャン・フレデリック演出)、予定通りである。一週間程前にU氏とネットでこの舞台の宣伝を見たとき、妙に興奮したのを覚えている。「すげーよこれ、主演ドニ・ラヴァンだぜえ」。
11:00当日券発売、もちろんこれは勘違いで実際は17:00。安堵と怒りとともにやっと一息ついたカフェがだんだんと騒がしくなって来る。隣の女の子にタバコを一本あげて、さて少し散歩。モンマルトルは本当に「下町」って感じで、寺院もあるし観光客も多いし、なんだか浅草のようなとこ。
もちろん犬のウンコを踏みながら歩いていて、時間もあるからまずは映画を。『le stade de Wimbledon』、マチュー・アマルリックの新作、ジャンヌ・バリバール主演。ポンピドゥーセンター脇のMK2、一年前澤田陽子氏はここで『in the mood for love』を見たわけだが、僕はマチュー君である。これ、日本で上映したい。何十年も前に存在したはずの「作家」(実は作品は一つも残していない)の痕跡を見つけるべく、ひたすらイタリアの街を彷徨うジャンヌ・バリバール、もちろんずっとイタリア語で、彼女自身によるナレーション(たぶん回想)だけがフランス語。ジャンヌ・バリバールは『恋ごころ』よりもさらに狂っちゃってて、「何にも見つからないよんっ、エへっ」と笑いながら無意識と戯れる。ラストに訪れるロンドンの「ウィンブルドン・スタジアム」は、コートの白い直線が描かれている最中である。一本の線を見つけること、ではなく、一本の線を刻んでしまうこと、そして後からそれに気が付いてしまうこと、窓から注ぐ陽の光に照らされる彼女のお尻はそう語りかけていた。
モンマルトルへ戻り、サクレ・クール寺院へと続く坂を登る。突如出現したピンク色のカフェの何に驚いたかというと、そのピンクが何だかとてもおかしなピンクだったからだ。ピンク色だとは認識できるものの、何か違う色がそこに見えてしまう。50メートル程先の曲り角に建つそのカフェにはお客がいる様子も無く、両サイドの建物が太陽を阻む50メートルの間にはひとっこひとりいない。微かな焦りを感じるが、かといって走りだすこともできない、50メートルがとても長く感じられる足で歩いている。と、カフェから地元の3人組が出てきたのと、空が開けたのとが同時だったろうか、おかしなピンクは夕暮れの光のせいだと気付く。もう6時だ、劇場へと坂を引き返さねば。
アベスの劇場は約1000席、この大きさの劇場なら日本にも幾つかあるんだけど、ここは入った瞬間に妙に「大きさ」を感じてしまう。それはきっと両サイドにある3階建てのバルコニーのせいだ。もしそこが単なる壁で、客席も無かったのならこんな「大きさ」は感じなかったはず。この「大きさ」って一体何なんだろう。
それにしても、ベルナール=マリ・コルテスの戯曲をドニ・ラヴァン主演で、しかも幕が上がれば雨に打たれる彼がそこに立ってる、もうそれだけで十分だろう、ひどく興奮。コルテスの戯曲がそれだけでも凄いのは確かだけど、やはり上演されてこそである。照明、美術、装置、音・・・、戯曲の解釈云々以前、まず舞台の快楽に身を委ねさせてもらう。詳しくはnobody第3号のレヴューを御覧あれ。
11時か、もうレストランはほとんど開いてない。しょうがないので、雑貨屋でビールとクッキーを買ってディナー。ひとり乾杯。

3月10日(日)


 朝8時30分起床。今日は日曜日、近所のカフェでコーヒーを飲みながら地図とパリスコープをゆっくりとめくる。それにしても昨日は慌ただしかった、本日はコートもいらない程の暖かさ。日曜日はもちろん蚤の市、とワクワクしながらクリニャンクールへと赴いたのだが、これがまた楽しくない。とてつもない数の露店、迷路のように入り組んでる道、異常に溢れかえる人人。若いやつらがそこら中にたまってて、きっと縄張り争いでもしてるんだろう、なんだかインドのバラーナシーみたい。暑いよ、まったく。
サンドイッチで昼飯を済ませやっと地下鉄で一安心と思ったら、線路から煙がモクモクモク。アララ、と思う間もなくアラブ系の男性に腕を引っ張られる。「大丈夫か!」、って、お前は大丈夫かよ。彼全身アディダスのジャージ、オールドスクール、かっこいい。すぐに係員がやってきて、15分程の停止。結局誰かの悪戯だったらしい、何事もなかったかのように電車再開。
アディダスが若い男の子達(特にヒップホップ系)の定番だってことは聞いてたけど、どうやら現在のパリではリーボックの方が彼らの定番らしい。あるいは彼らのステイタスがリーボックなんだろうか。それからラコステ。以前渋谷で見たフランス映画(タイトルなんだっけ)のなかで若いアラブ人の主人公がラコステにえらく執念燃やしてたのに疑問を感じていたが、どうやらラコステは実際に彼らのステイタスらしい。ラコステといっても色々あって、例えばメイドインジャパンとメイドインフレンチのポロシャツではワニの形も違うし、裾口や袖口の処理も微妙に違う。通称「フレンチラコステ」は日本の古着屋でも結構扱ってて、発色、柄、襟元や袖口の処理なんかがイカす。ちなみに来シーズンあたりからクリストフ・ルメールが主任デザイナーに就任するらしい。
それにしてもあの竜巻きは凄かった-というのはサミュエル・フラーの『四十挺の拳銃』(1959)、アクション・クリスティヌ・オデオンにて。冒頭シーン、バーバラ・スタンウィック演じる女リーダーが40人(もっといたような気もする)の馬乗り荒くれ男達を率いて、砂漠を駆け抜ける。僕は西部劇には全く疎くて、だいたい日本ではほとんどがビデオでしか観られないし、まったく、シネマスコープのスクリーン上を砂煙巻き上げ駆け抜ける40頭の馬の脚にを感じながらも、やっぱりどこかがチクチクと痛む。それにしてもこれ、ねじくれたフィルムだなあ、「forty guns」とか言っておきながら、「銃は終わったんだよ」って呟いてるみたいだし、中盤での奇跡的な竜巻きシーン(本物の竜巻き)は何かの終わりを告げてるみたい。そういえば『パルプ・フィクション』の竜巻きってCGだよね?
 日曜日の午後、しかも半袖もチラホラ見かけるオデオンを散歩するのはとても気持ちが良い。目的もなくぶらぶら歩いていると、「ポン・ヌフ」発見。もちろん渡るが大した興奮はない、雪は降ってないし。でも気分はまだ良い。が、そんな気持ちの良い午後の時間も、8番線終点15区のバラールで終点。地下から地上に出ると、何かが違う、オデオンともクリニャンクールとも。夕方の薄暗さ以上の暗さを感じる。カフェは一件、そして周囲には哀しい高層住宅が建ち並ぶ。タイトル買いした『私はどうやって父を殺したか』(アンヌ・フォンテーヌ)は良い映画ゆえ、さらに辺りを暗くする。ああそうだ、数年前にキネカ大森でシャブロルの新作を見たときに似てる。あの時も暗かったな。
そうね、日曜の夜、パリは少し憂鬱だったってこと。

3月11日(月)


このマドレーヌを食べるべきか?パリに着いてからの僕の懸案である。つまり、机の上に置かれた8個入りマドレーヌの袋に手をかけるべきか否か。口は既に開いている。「ミネラルウォーターは御自由に」とS氏の書き置きにはあるものの、マドレーヌに関しては何も触れられていない。これは試練なのか。
昨日のオデオンでの午後がとても気持ち良くて、今日もまたオデオン。この旅に出資してくれた祖母にブローチでも買って帰ろうと思い、ゆっくりとした速度で街を歩く。それにしてもアフリカ系雑貨店が多い。きっと仕入れ値が安くて儲かるんだろうな。日本におけるアジア系雑貨と一緒で、現地で露店の品物丸ごと買い占めればそれだけで商売できてしまう。
歩くのに飽きれば映画館。まずは昨日と同じクリスティヌ・オデオン。ここでは現在、「36の偉大な西部劇をスクリーンで」という企画が開催されていて、今日は『The violent men』(ルドルフ・メイト)。この映画館は名前どおり「クリスティヌ通り」にある。小さな通りだ。陽の当たらない通りは、陽射しの強いその日の世界とは少しばかり独立したような印象を与える。バーバラ・スタンウィックは恐ろしい女だった。
私の幼年時代のポルト』はオリヴェイラの新作。資料映像とフィクションとを混ぜ合わせ、「私がポルトであり、私が表象芸術である」と宣言するフィルム。いかにしてポルトの歴史(=映像)を盗むとるか、この人はゴダールと同じく犯罪人である、やっぱり。犯罪人の生家は資料映像なのか、彼による現在の映像なのか分からないようにピントがずらされていた、もしかしたらあれは絵画だったかもしれない。我が家とは、やっぱり存在しないし、やっぱり存在する。
どこへ帰ろうか、そろそろパリへ帰ろうか。

3月12日(火)


 このマドレーヌはやはり罠なんだろうか?
「朝一杯の水」で体内地図を整えると、3個減ったマドレーヌに一抹の不安を覚えながら、それでも4個目に手を伸ばす。
朝9時になっても太陽が姿を見せないのは今日が初めて。つまり曇り。アパートから歩いてすぐのカフェでペンを走らせるが、気候のせいだろうか、どうもインクの出が悪い。外では傘を持った小学生の集団が歩いていて、ふと眼があった少女に微笑みかけるが当然無視にあう。彼女の去ったガラスに眠気を覚え始めた僕の眼には、宙空に浮いたアルファベット-「くょしいてのつじんほ」。
パリはローラーブレード人口が多い。ここバスチーユ広場には特に多い気がする。強そうな犬を連れた若者とローラーブレードを履いた若者、やけにこの街は若い。ケンカならいつでも相手になってやるう。
こうも血が騒ぐ理由はそもそも1789年7月14日に遡る。その日のパリもどんより黒い雲に覆われていたという。裏切りの市長フレッセルとバスチーユ司令官ド・ローネの首が槍の先端に掲げられ、フランス市民達は街を練り歩いた。歩いたのはやはりサン・タントワーヌ通りだろうか。怪物のようにデカいオペラ座、予算の65%が国庫からの支出であるこの国立オペラ劇場の地下深くには未だ牢獄が存在し、そこら中で行われている土木工事は地下牢の建設中である。フナックでストを張る人々は気付いているのかもしれない。ヒップホップ系のお兄ちゃんは僕に言った-「シーメルッ!」。
気味が悪くなったので急いでバスチーユ劇場へ駆け付ける。エマニュエル・ビュルドー作、ドゥニ・ポダリデス演出の『Je crois?』(『私は信じる?』)、前者は『エスター・カーン』の共同脚色者、後者は『神のみぞ知る』監督のブリュノ・ポダリデスの弟、おバカな主人公を演じたあの男だ。演出補にはロラン・ポダリデスとある、一体何人兄弟なんだ。オペラ座2700席に対してこちらは200席ほど、千石の三百人劇場みたいな感じ。姉と弟があるゲームを演じる、「ワタシ」と「アナタ」との交換だ。「私は彼女を愛している」なら「アナタは彼女を愛している」といった具合。「ワタシ」と「アナタ」の発生地点である「ワタシタチ」へとだんだん遡ってゆく。たぶんそういうことだが、映像を使った演出には少々うんざり。舞台では余程のことがない限り映像を使うべきでない、ロバート・ウィルソンなら別だけど。
その日7月14日は夜中に雨が降り出したという。3月12日夜、雨が降る前の重たい空気が辺りを覆っている。どうやら流血はまだらしい。
もちろんマドレーヌは罠でも試練でもなかった。帰ってきたS氏は笑いながら言った、「おまえが食べるために置いといたんだよ」。

3月13日(水)


ケロッグオールブラン、スーパーモデル愛用という触れ込みのこのシリアルは見た目が家畜の餌のようで、味も樹木の皮のようだ、たぶん。しかし、はまったら最後、今では東京における僕の朝食の定番である。
そんな男が平日の午前中からお米を味わっていることに、少しの可笑しさを覚える。しかもお新香つき。S氏の炊いた飯は、なんだか美味い。
暑いでもなく暖かいでもなく、その中間、新たに見つけたホテルにナイロンコートを脱ぎ捨て、いざ二人で5区を散歩。そういえばこの辺り、ちっとも探索してなかったな。近所にはパリでも指折りのモスク、古代アリーナの遺跡、それから大きな植物園がある。執拗にシンメトリックな植物園をはみ出すように左右に広がる桜は、樹木全体が桃色がかってきて、染色にはもってこいの状態。正午過ぎの陽射しは、「トリュフォーもゴダールもパリの光で映画を撮ったんだ」という言葉とともに、袖をまくり上げた僕の肌をやんわりとつねる。
「一時期僕が死ぬ程食ってたクレープ屋へ行こう」-由緒正しきモンジュ通りに面したクレープ屋、クレープってこんなに美味しかったっけ。「どう?」/「Sさん、死ななくて良かったですね」。通りを歩く女の子のスカートがふわりとふくらむ、モスクで飲んだミントティーとクレープの甘さがやんわりと身体に染みるとき。
バスチーユへ向かうバスは満員で風景を楽しむ余裕もない。いつセーヌを渡ったのか、リヨン駅で一気に人が減ったが、今度は酔っ払いのフランス語が視線を遮る-「ウギャー、ギャー」。「フィガロ・ジャポン2001年9月号」に掲載されているマップを頼りにショップ巡り。木底のトンガリペタンコサンダルは甲のデザインがウエスタン調で、すごくかわいい。が悲しいかな、僕の足にはもちろん小さい。幾つかまわった中でも、ケレール通りの古着屋(名前忘れた)はとりわけレベルが高い。デッドストックのスニーカーからアンティークのデザイナー物まで、パリは奥深い。
夜はバスチーユ劇場で『un jour en ete』(『夏の或る一日』)、ジョン・フォス作、ジャック・ラサール演出。こんなに美しくていいんだろうか。「美しくて哀しい」なんて安易な言葉を漏らしてしまいそうな舞台。ある女性の二つの時間が共に存在する。若い彼女は、友人とのお喋りと、夫とのギクシャクした関係を繰り返す。それでも彼女は夫を愛し、窓辺でぼんやりとフィヨルドを眺めやる、やがて来たる彼の死を眺めるように。年とった彼女は、友人とのお喋りと、モノローグを繰り返す。彼女は夫を愛し、窓辺でぼんやりとフィヨルドを眺めやる、やがて(既に)来たる彼の死を眺めるように。三つの面を閉鎖された空間は第四の壁を出現させるが、そこはもはやアントワーヌの提唱した自然主義的な空間ではない。ただ一つ存在する窓から差し込む光は、そう、ホッパーの海岸連作のように「明らかに現実主義的であると同時に無気味なものであり、空虚であると同時に幽霊でも出るかのような感じ」(『歪形するフレーム』パスカル・ボニゼール、梅本洋一訳)を作り出す。フランク・テヴノンによる照明は、ここでは「光」と呼ばれるべきだろう。「光」は時間を生み出す。ちなみに、チェーホフとアントワーヌとホッパーはほぼ同時代に活躍した。
夜風を受けながらジャック・ラサールのぶさいくな顔を思い出す。あいつ危険な男だな。

3月14日(木)


「あなたは違法行為を犯したのよ」-RERナンテール・プレフェクチュール駅でおばさん職員に睨まれる。パリと郊外とを結ぶRERは地下鉄の切符では乗れない、でも改札は通れてしまうのだ、地下鉄の切符で。そして、なんたることか、外へは出られないのだ。全くこれは罠だとしか言い様がない、おかげで犯罪人である。
駅からシャトルバスに乗り、新宿のような高層ビル群を背にしながら夜の郊外を突き進む。飛行機の代わりに乗るはめになった夜の成田エクスプレス、同じ風景の先にはナンテール・アマンディエ劇場が。劇場の前に聳え立つホテルに悪い予感を覚えながら、それでも、かつてパトリス・シェローが ディレクターを務め、多くの舞台が生み出されたこの劇場を前にして・・・。雨が、降り出しそう。
 チェーホフの『プラトーノフ』を現ディレクターのジャン=ルイ・マルチネリの演出で。『プラトーノフ』はチェーホフ初期の作品とされているが、実際のところ年代不詳らしい。
さて、チェーホフの戯曲が「言葉の戯曲」とか「対話の戯曲」だとか称されるのはもちろん正しい。けれどもそれは一歩間違えば単なるセリフの垂れ流しになる。東京で観るチェーホフ劇はいっつもユルユルで、垂れ流しとノスタルジーの廃虚なのだ。そこを引き締めるのは主題でも思想でもなく、まず何より劇場というモノであり、装置というモノであり、照明、音といったモノである。もちろん俳優もそうだ。「metteur en scene」-「演出家」と呼ばれる人間は、文字どおり「舞台の上に(en scene)置く(mettre)」ことをその基本的な行為とする。板の上に俳優を配置することは、どんな戯曲を上演する際でもだいじなこと。
ナンテール・アマンディエ劇場は全体がひとつの機械のよう、比喩でもなんでもなく。正方形に並べられた板の上で俳優達は三つのグループに配置される。過ぎ去った時間とタバコの煙りの染み付いた巨大な帆が三つの面を囲む。その帆がガタガタと上げられたり、奥へと移動させられたり、やがて空間は徐々に広がってゆき板は長方形となる。セノグラフはジル・タシェ。お喋りを続ける俳優達の位置はほとんど変わらず、ただ空間だけが彼らの意志と関係なく広がってゆく。アーチ状の額縁には、スピーカーでも埋められてるのか、ドルビーのごとく左から右へと列車の音が通りすぎる。それが第一幕。
第二幕は、長方形の板に二筋の水が流される。舞台最奥の暗闇から人物達が代わる代わる現れ、舞台最前列に腰をおろすプラトーノフを訪れる。暗闇の中にぼんやりと人影が見えたときから、その人物が前方まで歩いて来るその間の姿と時間がたまらない。ドン・ジュアンのごときプラトーノフはラストで女に撃たれるのだけど、一瞬の銃声の後に発生する煙はいつまでも消えることなく、そこには何かが溜まる。煙と水は、チェーホフ=マルチネリにおける過剰さである。貧しくて豊かな舞台。
どうやら第一幕の間に雨は降り出したらしい、幕間のロビーでは土砂降りの雨と稲光りに観客達が「オーッ」。嬉しいのか残念なのか、どっちだよ。果たしてあれが劇場内部のスピーカーから出る音だったのか、劇場外部の自然現象だったのか、第二幕の初めに、くぐもった雷の音が-「ドロドロドロ」。外は嵐、既に帆を降ろされた船は水に浸されながら、それでも沈没しない、ずっと沈没しない。
劇場を出るともちろん雨はあがっているが、なんと、もうAM0:30。そういうことか、悪い予感は当たるもんだ、と劇場正面を見やる。「THEATRE NANTERRE-AMANDIEES」、文字の電気は一部消えてて「THEATRE NANTERRE-AM」。そりゃそうだ、ここは「AMナンテール劇場」なのだ。
やたらとテンションが高かったのでRERもメトロもただ乗りしてやった。ダー!

3月15日(金)


 「写真撮ってもらえます?」-少々曇りがちのシャンゼリゼで一体どこをバックに撮ってもらいたいんだ?「いやあ、自然な感じがいいんすよ」、すると彼、キオスクに行っておもむろに雑誌をめくり始める。その手際よさに恐怖を覚える僕に向かって「ハヤクハヤク」、ウィンクかよ。笑える。
観光名所を訪れていない自分に呆れながら、メトロ6番線に乗り込む。ゴブランから7番線でプラス・ディタリー、そこから6番線に乗り換え。プラス・ディタリーからシャン・ド・マルスまでの線路は半分程が屋外を走っている。二度程地下と地上を出入りし、パストゥールあたりからはずっと屋外だ。今まで乗ったメトロで街の風景を眺められたのは、10番線、ギャール・ドステルリッツ-ケ・ド・ラ・ラぺ間でセーヌを横断するときぐらい。そこでセーヌの夜の顔と昼の顔を見ることに僕は密かな特権を感じていたのだけど、どうやら6番線は特権だらけらしい。
メトロに乗っていると、アコーディオンのおじさんをしょっちゅう見かける。もちろん、ただ持ってるだけじゃなくて演奏するために乗り込んで来る。なかには御丁寧にラジカセでベース音を流す人も入れば、ギターとアンプを持ち込む二人組までいたりする。でもあくまで音は控えめでなかなか心地よい。しかも観光客に媚びを売ることを決してない、とても感心。
高校生ぐらいのドイツ人5人組がおどけた調子でアコーディオンのメロディーを口まねしているのだが、もちろん小馬鹿にしてるわけ。おじさんニコニコして彼らに近寄り帽子を脱ぎながら「メールシッ!」と小さくゆっくりお辞儀する。その流れるような動作はそうそう真似できるものではない。こんな大人になりたいものだ。
 シャン・ド・マルスを出た地上から見えるメトロの列車はホントにオモチャのようで、ついついケラケラ笑い出す。「機関車トーマス」の仲間に入れても良いぐらい、名前は、そうだなあ、「グリーン・セヴン」。陸橋を走るグリーン・セヴンをぼんやり眺める僕は、背中にエッフェル塔を感じている。
気付いたときには電話ボックスにいた。気味が悪いので急いでドアを開けるとあいにく雨、しかも突然の土砂降り。眼の前の百貨店「プランタン」に逃げ込む。何故だかやけに身体が重い。
次に気付いたときにはコリーヌ国立劇場にいた。安っぽいキャバレーみたいな外観ながら中はもちろん御立派。『肝っ玉おっ母』をクリスチャン・シアレッティ演出で。ブレヒト劇はやっぱりどれも、似てしまう。それから肝っ玉おっ母も。もっと違うタイプのおっ母が見たい、例えば夏木マリみたいに、艶っぽくてしかも平気で立ち食いそば屋の広告やっちゃうような。
東京の劇場とパリの劇場とで何が違うか、微々たる経験で考えてみると、どうやら舞台の大きさのような気がする。劇場そのものの大きさ、客席と舞台のある空間の大きさは、東京だろうがパリだろうが、そりゃあ様々だが、俳優や装置の置かれる舞台の面積はパリの劇場の方が広いのでは。俳優を配置する空間感覚は、だからこそこちらでは不可欠なのかもしれない。
それからこちらには喫煙所がない。禁煙ブームかってそんなことあり得るはずもなくて、その逆。皆さんロビーで平気でタバコ吸って、平気でポイ捨て。そーゆーの大好き。劇場には必ず食事もとれるカフェが入ってて、アルコール飲みながらワイワイワイワイ。みんなワイワイ、煙モクモク。吸わない人間には悪いが、劇場にはタバコが似合うのだ。
何故だかやけに身体が重い。

3月16日(土)


「おいおい、ここを真直ぐ行けばすぐだぜ!」-北駅で拾ったタクシーのおじさんは陽気にそう言った。ついつい握手。
北駅からブッフ・デュ・ノールまでの通りは、アラブ街でもユダヤ街でもなく、インド街である。インドでぼったくりに遭ったことのある僕はとっさに身構える(ゴメンなさい、インドの皆さん)。「お前は家族を愛しているのか?」-最後の殺し文句はこれだった。英語の喋れない僕は「LOVE」なんて単語に弱い典型的な日本人なのだ。実家の食卓に敷かれた布は、絶対にシルクじゃない。
 半円形劇場のブッフ・デュ・ノールはかつてブールヴァールの劇場であった。カフェに入るのと同じ感覚で入り口をくぐると、そこには朽ち果てたイタリア式劇場が。舞台と客席最前列は段差なく繋がっていて、バルコニーがぐるりと囲んでいる。天井はやたらに高い。確かに何もなくて、何かある。 
ここは観光地化してるのか、着飾ったおばさま方や観光客風の人間がやけに多い、土曜日だからでしょうか。
そうそう。どうやったら観光客に見えないか、ずっと悩んでたが、ひとまずの結論を申し上げる。
1、 バッグを持たない。
2、 財布を持たずにお金はポケットへ。
3、 サングラス(但し曇りの日と夕方は外す)。
4、 髪の毛は石鹸で洗う。
以上4つだが、それなりに困難も伴う。石鹸は髪に悪い。

全く嫌になるもので、こんな劇場を見せられた日には誰だって絶望する。『Far away』(キャリル・チャーチル作)をブルックが上演するこの劇場空間は脳みそだってこと。世田ヶ谷パブリックシアターで見た『The Man Who…』も『ハムレットの悲劇』もおんなじ。ブッフ・デュ・ノールあってこその脳みそだ。「狂った世界地図」の描かれた絨毯から女が外へ踏み出そうとする、そのとき照明は落とされ舞台は終了する。何もないが、何かが生まれるのがこの劇場である。
夜はS氏とY 氏とN氏で晩さんかい。Sさんの手作り料理。チーズ卸しでおろした大根は新たな発見、ちょっと歯ごたえが残って美味い。日仏学院で開講されてる映画の授業で知り合った3人、彼らの酔いのまわった顔に少々嫉妬、Yさんは一年、Nさんは半年のパリ滞在だから。Yさん(男性)の髪の毛はエスカルゴのように後ろで束ねられていた。

3月17日(日)


ここ2、3日、疲れが溜まって体調が悪い。咽は痛いがタバコは吸うし、腰は痛いが歩きまくるし、おまけに鼻水は今にも垂れそう。それでも早起きしてカフェでショコラをすすりたがるのは、哀しいかな、田舎者の性である。溢れる過剰さを抑えきれない。どうやらパリもおんなじらしくて、昨日、一昨日と降った雨が地中から溢れ出ている。街中水浸しである。やけに早いその流れを見ていると、何時の間にか赤いではないか。ついに血が流れたか。抑えきれずにバスチーユへ向かうと、既に街は静まり返っている。数日前に訪れた数々の店もシャッターを降ろし、お気に入りの古着屋にはこんなチラシが、「女性バイト、ひとり募集」。彼女きっと地下牢に閉じ込められたんだろう。彼女とともに何百万という人間のうなり声が地下から響く?「ドロドロドロ」。昨日のタクシーの運転手が手を振っている。
そろそろ鼻血が出そうなので急いでアベスへ避難するが、どうやらここも水浸しである。とりあえず遅い朝食をとる。カフェにはだいたい朝食や昼食のセットがあって、何故かだいたいオレンジジュースが付いている。初めてカフェ飯を食べたときに分かったのは「タルト」はタルトじゃないってこと。デザートで食べる甘いタルトかと思ったら、バゲットを細長く切ったものが2、3本とジャム、バター、これが「タルト」なのだ。甘いもの好きな僕にとってはすごく悔しいこと。ただ今日の「タルト」には「白チーズ」が付いている、がこれ、どう見ても単なるヨーグルトである。
本日はマチネ、『Quai ouest』(ベルナール=マリ・コルテス作)、ジャン=クリストフ・サイイ演出。アルミ製の巨大な屏風が二枚、舞台上を内部と外部に区切っていて、俳優達はそこを出たり入ったりぐるぐる駆け回る。それは照明の加減によって壁にも透過幕にもなる。セノグラフはモンセラ・カサノヴァ。空虚と過剰を扱うサイイ-コルテスは、マルチネリ-チェーホフと同じ方向を立ってると思う。ただ、サイイさんの演出はなんだかまとまり過ぎてる。もっと頭ワルくていいんじゃない。
彼の演出のせいで、地下からのうなり声は消え平和な夜がやってくる。暗闇のない平和な夜。明日は朝5時に起きないと。アムステルダム空港13時発の飛行機に乗らなきゃいけない。中華をテイクアウト(お持ち帰り中華店はパリのそこら中にある)してホテルへ戻りながら、歪んだ身体と視線を直そうと努める。ふと横断歩道で立ち止まると、知った顔の男がこちらをジッと見つめている、「おいおい、ここを真直ぐ行けばすぐだぜ」。あいつ、まだまだ消えそうにない。

3月18日(月)


 いつだったか、オデオンを訪れたとき。おばあちゃんにブローチを買って帰ろうと一件のアンティーク雑貨屋へ足を踏み入れる。狭い店内には、僕でも手の届く小物がいっぱい並べてあった。女主人はおばあちゃんと同じくらいの歳のおばあちゃんで、気さくなひと。
「あんたお土産?」/「うん、おばあちゃんにね。」
ゆっくりときれいな彼女のフランス語は、なんとか僕との会話を成り立たせてくれた。
「このエッフェル塔、手に取っていいかな。」/「ええどうぞ。」
それは10センチ程の白いエッフェル塔で、彼女の話によるとメトロ開通記念の品とのこと。確かに、広がった台座はパリの地図になってて、10程の駅名が書き込まれてあった。今や300を超す駅があるが1900年開通時はこんなに少なかったんだ。台座は蓋になってて、開くと、写真の一枚でも入れられそう。なんとも無駄な機能をもつ白いエッフェル塔を、まじまじと見つめる。
「これすごくかわいいね。」/「まあね。でもこれ高いわよ。あんたには手出せないわ。」

 

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