第10回 釜山国際映画祭レポート

  text: 衣笠真二郎

 10月8日
 一昨日前に開幕を迎えた釜山国際映画祭は今年で第10回目を数え、東アジアにおけるフィルムマーケットの拠点としてますます重要な映画祭になりつつあるという。プログラムに目を通してみると、カンヌあたりで一大注目を集めその評判を広めていた作品などが多く混じっているので、観客にとっても大きな期待を抱かせる映画祭のひとつと言えるだろう。オープニングフィルムの『Three Times』(侯孝賢)の評判は相当なもので、現地で会う人みなが熱狂的な支持を表していた。
 市街で最も繁華をきわめるまるで原宿のような一角に、PIFF Squareと呼ばれるイヴェントステージそしていくつもの映画館が建ち並んでいる。そのうちの最も大きなスクリーンを持つ会場で今日『Loft』(黒沢清)のワールドプレミアが行われた。映画祭のオープニングには立ち会えなかったけれども、この作品の公式初上映には間に合うことができて単純にうれしく思う。物語の舞台は茨城。人里離れた森の近くにある一軒家に小説家(中谷美紀)が引っ越してくる。その家の裏にある廃墟の建物に、なにやら怪しい考古学者(豊川悦司)が一体のミイラを持ちこんでくる。それは山中の沼から発見されたおよそ1000年前の女性のミイラで、沼の泥に含まれている有機物のおかげで腐敗が進行しなかったらしい。それを解剖したり解析したりするなりして史料的な価値を見定めるのが普通の学者の仕事だろうが、ここでの考古学者はそれとは別の動機によってミイラに魅了されていることが次第に明らかになってくる。ミイラの研究ではなく、ミイラの製造へと惹きつけられ始めている自分に彼は気付くのだ。そんな欲望を抱えてしまう考古学者はまったく破滅的としか言いようがないが、ミイラをフィルムに置き換えてみると彼の欲望もそれほど出鱈目ではないことがわかる。すなわち、フィルムを見ることから、フィルムを作ることへ。映画監督(=考古学者)がフィルム(=ミイラ)を創造(=捏造)すること。当然それはいつでもきわめて危険な行為なのだが、『Loft』は驚くほどに堂々と防腐処理の最新技術を見せつけてしまった。会場を埋め尽くした観客たちもその捏造騒ぎにおおいに狂わされていた。
『Don't Come Knocking』(ヴィム・ヴェンダース)もまた新しい防腐処理法を開発しようとしたフィルムと言えるだろう。こちらが保存しようとしているのは西部劇。脚本・主演はサム・シェパードで開巻劈頭に彼がカウボーイ姿で馬に乗って登場してくるので、スタートしていきなりこちらの期待も高まってしまう。だが、やはり、この防腐処理手術は失敗してしまっているように見える。馬に跨ったサム・シェパードは30年ぶりに母の元に訪れそこで初めて彼に息子や娘がいることを知らされるのだが、そうした家族の再会に向けての、西部に向けての旅が、歓びもなく苦しみもなくただぶらぶらと続いていくばかりなのだ。風景はどこまでも乾ききっていて厚みを失っている。どれだけ処置をしても腐敗していってしまうものの中に、過去の形骸を確認しようとする冷めた作業だけがこの映画にはあったのかもしれない。
 10月9日
『Tickets』(エルマンノ・オルミ、アッバス・キアロスタミ、ケン・ローチ)。今年日本でも公開された『Eros』と同じ企画趣旨の3部もの。タイトルにある「チケット」は電車の乗車券のことで、国境をまたいで走る1本の列車の中で巻き起こる3つのドラマがそれぞれの監督によって語られている。ヴァレリ・ブルーニ=テデスキ演じる秘書に恋に落ちてしまった老教授の話(オルミ)。介護士に付き添われるのを嫌がって暴れ回る老女の話(キアロスタミ)。そしてサッカー観戦へ赴く若者たちがチケットを紛失する話(ローチ)。キアロスタミがイタリアでイタリア人を使って撮った一編は、いつにないきちんとした手法で説話をしていたのでたいへん驚かされた。
『A Tale of Cinema』(ホン・サンス)は他の韓国映画にはなかなかない緩やかな空気を醸し出していた。同じ女を愛する男たちが入れかわり立ち替わり登場するという展開はいつものホン・サンスの映画とあまり変わりはないのだが、同じ女が似たような境遇の男たちを引き寄せてしまことが偶然でも必然でもなんでもないかのような不思議な物語は、その透明度を増しているように見える。登場人物によるナレーションや長廻しのカメラワークもなんの衒いもなく開かれており、そのミニマリズムは日に日に洗練されているようだ。
『Hidden』(ミヒャエル・ハネケ)。人気キャスター(ダニエル・オートゥイユ)の元に無名で送りつけられてきたビデオカセットには彼とその家族を監視する映像が記録されていた。彼とその家族が秘めている隠された事実がビデオによって明るみに出され、彼は自分が隠していた過去を直視せざるを得なくなる。彼は子どものときにアルジェリア人を虐げ裏切っていたという過去を隠し通してきたのである。このように映像と共同体がはらんでいる暴力性をどこまでも探究していくことこそがハネケの倫理的な鉄則だ。演技やダイアローグにあるユーモアにまでも結局鉄の鎧を着せてしまうのがハネケだ。彼の冷徹さは映画のフォルムそのものとなって大きなひとつの結実を与えたものがこの作品であるように思う。その肌触りはどこまでもどこまでも冷たい。
 こうしてたんたんと映画を見ながら映画祭の日は過ぎていく……。
 10月10日
 東京から釜山へ行くとその物価の安さに驚いてしまう。特に食べ物の安さ。高級なところを選ばなければどんなに腹一杯食べても数百円なのだ。街の食堂は家庭風の味で、不味いなんてことはまずない。まあどこで食事してもキムチが出てきてその辛さにあきあきするところもあるけれども。
 釜山の街中で見る小汚い食堂や市場の脇にある屋台。昔の東京でも見たかもしれない街の片隅にあるそんな風景を1本のグルジア映画の中にも見ることができた。その名も『Tbilisi-Tbilisi』(レヴァン・ザカレイシヴィリ)。そこに映り込んでいる市場の中に建ち並んでいる露店とか、建物に少し暗い影がさしているところとかがよく似ているのだ。物語の主人公はシナリオライターで、自宅で難渋しながら執筆をしている。彼が筆を執ったりタイプライターを叩き始めたりすると、カラーの画面は一転モノクロへと変わり彼が執筆しているシナリオが映像化されて画面に現れる。それは彼自身の子供時代を思わせる悪ガキどもの物語で、ものを盗んだりケンカをしたりしながら彼らはツビリシの街を駆け回っている。その時に子どもたちをとっちめていた同じ大人たちがカラーの現在のパートにも登場するのだが、その容貌はすっかり変わり果ててしまっている。そのふたつの時間の間によこたわる落差にこそこの映画は賭けられていたのだと思う。でも、私がもっと見つめていたかったのは子どもたちが暴れ回っているモノクロの過去のパートだった。まったく無邪気な子どもたちの行動によって、大人たちが変貌を被ってしまうこともあるように見えたからだ。あのモノクロの映像が街や大人の姿を異化してしまう力はあったように思うのだが。
 映画を見た後、フィルムマーケットのメイン会場となる海雲台にはじめて足を運ぶ。釜山駅近くの繁華街とはうって変わって、こちらは白いビーチの広がるリゾート地。ビジネスとかゲストとして映画祭にやってくる人々はほとんどこちらに滞在しているようだ。豪華なホテルもここに多く集中している。ビーチにはイヴェントテントが立ち並んでいて、映画祭的な雰囲気がたっぷりある。
 ビーチからほど近いところにあるシネマコンプレックスでいくつかのアジアのショートフィルムを見ることができた。その中の1本に田壮壮制作、賈樟柯監督のコマーシャルフィルムが混じっていた。それはどうやら自動車のコマーシャルのようで、セダン車が力強く停車するファーストショットで幕を開ける。車から降りたった男は仕事の出張で北京にやってきたらしい。「過去に一度北京には来たことがある」「その時は雪が降っていた」と語る男に、同僚の女性が昔の歌謡曲を聴かせてあげるというストーリーの短い3分ほどのフィルムである。きちんと細かくカットを割っていて普通のコマーシャルと区別がつかないようなフィルムだったが、最後に歌謡曲が聞こえ始めたときには、正直まさかと思った。やはりこれなしには賈樟柯フィルムはあり得ないのだ。
 10月11日
 ゆっくり映画を見ることができるのも今日が最後だ。中途半端な滞在期間のためにあまり多くの映画を見ることができなかったのがたいへん悔やまれるが、しかたがない。昨日までヨーロッパの作品ばかりを見てきたので、今日はアジア映画を選択することにする。釜山国際映画祭は当然アジア映画部門に力を注いでいて、「Korean Panorama」では韓国映画を中心に、「A Wind of Asia」ではアジア映画の新作群を精力的に紹介している。そのほか、アジア映画のレトロスペクティヴもいくつか開催されている。
「PIFF's Asian Pantheon」というレトロスペクティヴで『青春神話』(蔡明亮)が午後に上映されるのを見つける。この作品をフィルムで見られることもなかなかないので足を運ぶことにする。オープニングは真夜中。土砂降りの雨の中を公衆電話に駆け込んできたふたりの若者が、道具で電話機をこじ開けて現金を奪う。夜の暗さとそれを切り取る粗い粒子の映像が、台北の街灯やネオンと次第に反響しはじめて、アジアの都市にあまねいている原色の歪んだ光をスクリーンにまたたかせる。その夢のような美しい街の灯を浴びているのがチンピラのふたりの若者であり、その街の灯がつくりだす影の部分を生きているのがリー・シャオカン演じるさえない予備校生だ。交差することのない光と影の線を並行させながら、映画はじっくりと街の光景を描いていく。これほどまでにまっすぐなかたちで街に視線を注いだ蔡明亮の映画は『青春神話』以後なかったのではないかとさえ思えてしまう。
 レトロスペクティヴ部門でも目玉となる「Korean Cinema Retrospective」ではリー・マンエという監督の没後30周年を記念しその代表作が毎日のように上映されている。60年代を中心に、メロドラマやサスペンスなどいろいろなジャンル映画を残した、韓国映画の巨匠と呼ばれる人のようである。レトロスペクティヴのタイトルの副題に「the poet of night」と付されているので、おそらくノワール映画に代表作が多いのだろうか。今日上映されているのは『The Marines Who didn't Come Home』という戦争映画だった。朝鮮戦争中、タフな戦闘に明け暮れている海軍の物語だ。オープニングからなんの物語の前置きもなしに戦闘シーンが始まり、上陸した海軍部隊が弾丸に打たれて次々に倒れていく。物陰から飛んでくる弾丸に怯えながら兵士たちが敵のアジトにじり寄っていくシークエンスなどは、『フルメタル・ジャケット』の一場面を見ているかのようだった。物語は戦闘シーンの他に部隊内の友情や結束の強さを骨太に描いていた。きちんとアクションシーンを撮れる、そしてきちんと物語を語ることのできるリー・マンエは、スタジオでたたき上げられた正統な職人監督にちがいないだろう。この作品しか見ることができなかったのがたいへん残念だが、このように質の高いジャンル映画を見ることができたのは幸運だった。韓国映画史のなかにこのようなフィルムがまだまだ埋まっているのならば、とても刺激的なプログラミングの余地が出てくるだろう。「韓流」の本領はメロドラマばかりではないんだ、というオルタナティヴが提示されるのもこれから期待できるはずだ。
nobodymag top