マイケル・チミノの映画にはつねに「喪失」がつきまとう。チミノの映画では、大きな目的のために、必ず何かを「喪失」してしまう。だから、何か大事なものをなくしたときはいつもチミノのことを思い出していた。
『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』でミッキー・ロークの刑事が妻を失い、悲しみにうちひしがれるとき、『ディア・ハンター』の音楽がそこには流れていた。チャイナタウンを裏で牛耳るマフィアを白日の下にさらし、住みよい街にするという目的のために、妻が犠牲になる。愛が多少冷めていたとはいえおそらくはかけがえのないものを彼はそこで失うが、そこに『ディア・ハンター』の音楽が重なっていたことがたまらなく悲しかった。『ディア・ハンター』は長い上映時間をかけて、友人をひとり、またひとりと失っていくフィルムだが、その音楽が『天国の門』事件以降の沈黙を破るとともに流されていることが印象的だったのだ。大きな目的のために、何かを「喪失」してしまうというチミノが繰り返し語る物語は、チミノその人の物語でもあると思った。「喪失」に「喪失」が重なって見えた。
「かつては、欲望がみたされはじめると、彼は暖かい目で人びとを見、この世界を、無限の可能性を包含したもののように見たものだった。ところが今は、彼自身の心の奥底においては、可能なものは自分の場所を見いだすことができなかった。彼は60歳だった。そして彼の思い出は墳墓にみたされていた。中国の芸術、たとえば、ランプのおぼつかなげな光で、ほのかに照らし出されているこうした青みがかった絵画や、また彼を取囲んでいる暗示的な中国の文明―三十年前の彼はここから巧みに利益を引出したものだが―にたいする、あんなにも純粋だった感覚―それは幸福にたいする感覚ともいえよう―は、今ではもはや、その下で苦悩や死の強迫観念が、ちょうど眠りの終りが近づいて不安におびえている犬のように目をさましている、薄い蔽いにしかすぎなかった」(アンドレ・マルロー『人間の条件』)。
チミノのインタヴューを読んで、彼が実現することのなかったいくつもの企画を抱えていたことを知った。たとえばキング・ヴィダー『摩天楼』のリメイク。フランク・ロイド・ライトの伝記映画。黒人のゴスペル歌手の物語。ドストエフスキーの人生についての映画。
『天国の門』以後、彼は多くの企画を抱えていたが、そのどれもが実現しなかった。温めていた企画が実現しない。無限の可能性に向けての道程が頓挫したときに味わう感情は少し理解できる。自分の思う方向に物事が進展しない。それがいくつも蓄積されていく。ひとつ、またひとつと可能性が失われていった。
「喪失」という言葉がチミノを連想させるのは、チミノの映画で「喪失」が繰り返し語られるのに加えて、チミノその人が「喪失」されているという印象が少なからずあるからだ。彼はまだ生きているのに、まるでもうすでに死んでいるかのように扱zzわれている印象があるからだ。僕がチミノのことを思うときも、現役の映画作家のようにではなく、かつての偉大な映画作家のように思っているのかもしれない。実際、『心の指紋』以来8年間、彼は新作を発表することもなく、ますます人々の記憶から消えてゆきつつある。
チミノを特集して取り上げることには何の外在的な理由などなかった。このたび彼の処女小説が邦訳され、また10月には仏ガリマール社から新作も発売されるそうだが、もっともらしい理由など必要なかった。ある特集企画の実現が不可能になったとき、真っ先に思い浮かんだのがチミノだった。

須藤健太郎