坂本安美の映画=日誌

Vivre sa vie.png これまで何度も来日し、「エリック・ロメール特集」、「フランス女優特集」、「シャンソンと映画特集」など、素晴らしいプログラミングと講演を行い、その優れた批評によって、つねに映画の現在、映画史への新たな視点、考察を示してくれるジャン=マルク・ラランヌ。「カイエ・デュ・シネマ」編集長を経て、2003年から現在にいたるまでラランヌ氏が編集長を務める人気カルチャー雑誌「レザンロキュプティーブル」、通称「レザンロック」が5月17日より開催するカンヌ国際映画祭を記念して、映画特集号を組み、同映画祭に出品予定の作品の紹介や、それら作品の監督や俳優のインタビューを掲載している。そこには3月21日に惜しまれて亡くなった青山真治監督へのラランヌ氏の感動的な追悼文も掲載されている(この追悼文はまた追って訳出してお伝えしたい)。
この特集号の記事の中でもとくに紹介したいのが「なぜ映画館?」と題し、世界の11人の偉大な監督たちにインタビューしているページである。

「映画館での上映は、映画体験を構成する要素としていかに絶対的なものであるのか?」
ペドロ・アルモドバル、アルチュール・アラリ、ベルトラン・ボネロ、クレール・ドゥニ、グザヴィエ・ドラン、ミア・ハンセン=ラブ、ガス・ヴァン・サント、ヨアキム・トリアー、アピチャッポン・ウィーラセタクン、レベッカ・ズロトヴスキ、そして濱口竜介らがこの問いに答えている。ラランヌ氏から依頼を受けて、濱口監督に原稿をお願いしたところ、大変お忙しい中すぐに送ってくれる。うんうんと頷き、映画館でのいくつもの体験を想起し、高揚しながらフランス語に訳し、その原稿をラランヌ氏に送ったところ、「素晴らしい文章だ!」と喜びの言葉が戻ってきた。濱口監督より特別に許可を得て、その原文を以下に掲載させていただく。他の監督たちの言葉はまた別の機会にお伝えしたい。

Pierro le fou.png私にとって、映画とは映画館で見るものに他ならず、「なぜ」と考えるのは難しいことです。それはなぜ映画が映画であるのか、と問われているようなものです。勿論、配信やソフトで映画を見ることはあります。ただ、一度でも同じ作品を映画館と家のモニター(+スピーカー)で見比べた体験さえあれば、それらがどれだけ本質的に異なるものであるかについては語るまでもないことと思います。よく、映画には人生を変える力があると言われます。それは間違いではありませんが、実は人生を変える力をより強く持っているのは「映画館」という場の方です。私にとって、自分の人生の方向を根底から変えてしまったと思えるような映画体験はすべて、映画館で起きたものでした。映画館という、集団で映画を見る場のほうが、驚くほど個人の身体に深く決定的に働きかけます。映画館の暗闇が私達の輪郭を溶かしてしまうからでしょうか。繭の中のサナギのように溶かされて、まったく異なる自分に作り変えられてしまいます。映画館に入る前と後では、まったく違う人間であり得ます。映画は身体に入り込んで、自分の人生を支える芯棒のような役割を果たすようになります。そんなにも強烈な変化をもたらす2時間は「劇場」という場以外では生まれ得ないでしょう。
愚かかもしれませんが、私は映画館の未来に対して、徹底的に楽観的です。「映画館で映画を見る」。人類がこれほど強烈な快楽を手放す未来を、私は想像することができません。

濱口竜介

ジャン=フランソワ・ステヴナン追悼特集

坂本安美

2021年11月20日(土)から12月10日(金)まで横浜シネマジャック&ベティにて、そして12月18日(土)から12月24日(土)まで名古屋シネマテークにて開催される「第3回映画批評月間 フランス映画の現在」。本特集の目玉でもあるジャン=フランソワ・ステヴナン追悼特集をご紹介したい。今年7月27日、享年77歳で惜しまれて亡くなったステヴナンは、トリュフォー、ゴダール、リヴェット、ロジエのアシスタントを務め、「フランス映画で最も巧みに動くことができる俳優」(セルジュ・ダネー)として作家主義的映画から大作商業映画、テレビドラマまで、数々の作品に出演して人気を誇るほか、監督としては、生涯に撮った作品はたった3本ながら、フランス映画史の風景を一変させる、前例のない作風で、ゴダールをはじめ、多くの映画人、観客を魅力した。2018年に監督3作品のレストア版が公開されると、若い世代も含め、カルト的な人気をよび、同年、そのキャリア全体にジャン・ヴィゴ名誉賞が贈られた。今回は、ステヴナンの出演作の中でも代表作とされる一本『走り来る男(原題:Peaux de vaches)』(パトリシア・マズィ)も上映する。

以下、ステヴナンの紹介、そして『カイエ・デュ・シネマ』現編集長のマルコス・ウザルによる記事や、アルノー・デプレシャン、クレール・ドゥニ、ギヨーム・ブラックら映画監督たちによるステヴナンについての言葉、思い出を訳出した。
ぜひ、この機会にスクリーンにてジャン=フランソワ・ステヴナンの監督作&出演作を発見、再発見してほしい。


ジャン=フランソワ・ステヴナン追悼特集@シネマ・ジャック&ベティ
<出演作品>
「走り来る男」監督:パトリシア・マズィ(1988年/87分)
12/6(月)15:00


ジャン=フランソワ・ステヴナン追悼特集@名古屋シネマテーク
<監督作品>
「防寒帽」 (1978年/110分)
12/18(土)13:10
12/22(水)13:10
「男子ダブルス」 (1986年/90分)
12/18(土)15:35

DoubleMessieurs3_ツゥ Le Pacte.jpegジャン=フランソワ・ステヴナン プロフィール

1944年4月23日、フランス東部ジュラ県のロン=ル=ソーニエでエンジニアの父と教師の母の間で一人息子として生まれる。幼い頃から映画に熱中するも、父の強い勧めもあり名門校パリ高等商業学校(HEC)に入学。同校在学中に知り合った友人と共にキューバに赴き、そこで6ヶ月間、映画の撮影に参加。帰国後、1968年、アラン・カヴァリエ監督の『別離』の現場につく。本作に主演していたカトリーヌ・ドヌーヴの紹介でフランソワ・トリュフォーと出会い、『暗くなるまでこの恋』(69)から計8本、トリュフォーの作品にスタッフ、そして俳優として関わることに。同時にジャック・リヴェット、ジャン=リュック・ゴダール、ジャック・ロジエらヌーヴェルヴァーグの監督たちからも信頼を受ける。リヴェットの12時間超の大作『アウト・ワン』(70)でジュリエット・ベルトとカフェの乱闘シーンを演じたのが俳優デビュー。同監督の『北の橋』(82)でのパスカル・オジェとの空手の格闘シーン、そしてトリュフォーの『アメリカの夜』(73)で助監督である自身自身を演じ、『トリュフォーの思春期』(76)では重要な教師の役を与えられ、これが俳優としてのキャリアの本格的スタートとなる。1981年にはジョン・ヒューストン監督の『勝利への脱出』でシルヴェスター・スタローンらと共演。80年代には『都会のひと部屋』(ジャック・ドゥミ、82)『パッション』(ジャン=リュック・ゴダール、82)、『ホールにフランス人はいるか?』(ジャン=ピエール・モッキー、82)、『真夜中のミラージュ』(ベルトラン・ブリエ、84)、『ヴァージン・スピリト』(カトリーヌ・ブレイヤ、88)など、時代を牽引する作家たちの作品に次々に出演。その少年のようなシャイで夢見がちな表情と力強い眼差し、突如としてみせる荒々しい闘争心、画面に登場しただけで忘れられない魅力的なその存在感でフランス映画になくてはならない俳優となる。しかしその才能が火花のように発揮されるのは監督作品たちである。さまざまな脱線に満ちた『防寒帽』(78)、『男子ダブルス』(86)、そして人生賛歌である『ミシュカ』(2002)、長編3作品と寡作ながら、ステヴナンはフランス映画の常識を覆し、そこに新たな息吹を与える。山、田舎道、出会い、思いがけなく生まれる友情が描かれた、彼以外何にも似ることのない作品、そこにはユニークな撮影の冒険、人間的で創造的な経験が刻まれている。尚、『防寒帽』を観て、ステヴナンのファンとなったパトリシア・マズイは、1988年、その長編初監督作で彼を主演に迎え、傑作『走り来る男』を発表している。


ジャン=フランソワ・ステヴナン特集: 逃走の悦楽
マルコス・ウザル(『リベラシオン』、2018年4月18日)

DoubleMessieurs8_ツゥ Le Pacte.jpeg ジャン=フランソワ・ステヴナンの監督した3本の作品がデジタル修復され、リバイバルされるという知らせは今年最も嬉しいニュースである。俳優としてのステヴナンは誰もが知っており、その出演作のリストは、ジャック・リヴェット、ピエール・ズッカなど妥協することのない映画作家の作品から、『ムーラン署長』などお茶の間で大人気の連続テレビシリーズまでと幅広いが、彼が偉大な映画監督でもあることはあまり知られていない。しかし『防寒帽』(1978年)と『男子ダブルス』(1986年)は過去40年間でもっとも美しいフランス映画の2本であり、実際に観た者だけがそれを知っている。しかしこれほどまでに特異な魅力を持つステヴナンの映画は何と並べることができるだろうか?フランスでは彼がアシスタントについていたジャック・ロジエ、アメリカでは彼が師匠とみなすジョン・カサヴェテスだろう。この二人の師匠にならい、ステヴナンの映画作りはこの上なく冒険的である。社会や映画の規則を放棄し、一見カオス的に見えながら、所作、編集は非常に的確なのだ。生まれ故郷のジョラで山やアルコールを愛し、犬と一緒に歌う人々たちの驚くべき集まり、ステヴナンしか見せることができないフランス、世界が広がっていく。まさにアルコールと空手がステヴナン映画の原動力といえるだろう。
 ステヴナン監督3作品はほぼ同じ物語を語っている。道中で出会った男たちが共に逃避行へと出発し、心ゆくまで漂流する。彼らの間に生まれるもの、それは時に愛に似たものであり(『防寒帽』)、旅の途中で夢のような女性に見つけたり(『男子ダブルス』)、かりそめの家族を作ったりすることもある(『ミシュカ』)。彼らが何をしたいのか、どこに行こうとしているのか分からない。彼らはまるで子供のまま大きくなったようで、ぶっきらぼうで、多少マッチョで、とくに感じがいいわけではない(それが目指されているわけではない)、しかし執拗なまでに逃走していく彼らの姿には誰もが深く心揺さぶられるだろう。
 そして彼らがすれ違う人々、あるいはしばらくの間、道連れにする人々がいる。『防寒帽』では、ステヴナンが故郷のジュラで見出した人々が脇役やエキストラを演じており、驚くべき集団を構成している。山やアルコールの瓶に囲まれた、彼らの不安を誘いさえする喜び以外何も存在しないかのように、犬と共に歌うクレイジーな人々。ブランデーを飲み漁る者たち、ソース料理の詩人、崇高なる愚か者たち。こんなフランスを見せることができたのはステヴナンのみだろう。そして彼の仲間である俳優たち――ジャック・ヴィルレ(『防寒帽』で稀にみる存在感を見せている)、イヴ・アフォンソ、キャロル・ブーケ、ジャン=ポール・ルシオン、あるいは比類なきジャン=ポール・ボネール――、映画の中で登場人物たちが人生に身をゆだねるように、彼らはステヴナンに身をゆだね、酩酊の夜のような、心地よくも狂おしい熱狂の中へと乗り出していく。
 3本の作品は、3人の兄弟のように互いに似ているとともに異なってもいて、それぞれに特有のエネルギーと風景を持っている。ジュラ山脈の中で撮られた『防寒帽』は故郷の地と思春期の夢からひきちぎられたかのように、もっとも狂おしく、激しく、叙情的な作品だ。グルノーブルの街と周囲の山中で撮られた『男子ダブルス』はよりざらざらと乾いたように見えるが、そのリズムや編集は見事なまでに音楽的であり、すべてが悲劇的に一秒ほど早く幕を閉じてしまいながらも、雪の中でのラストは映画史上で最も素晴らしい抱擁を見せてくれる。『ミシュカ』は3本の中でも驚きに乏しい作品であるかもしれないが、見直してみて、公開当時に失望したことを悔やむほど素晴らしい作品だ。あまり目を向けられず、愛されることもなくきた人々が動物的本能で互いに分かり合う。『ミシュカ』は夏の映画、ヴァカンスの映画であり、よりのびのびとして、優しさに満ち、まるで7月の心地よい風に押し流されていくかのように、カメラはゆったりと動いていく。人間たちが演じられる、見捨てられた犬たちの物語だ。


映画監督たちによるジャン=フランソワ・ステヴナンへの言葉
838_mischka3_-r_le_pacte.jpegたった2本の作品によって、ジャン=フランソワ・ステヴナンはフランス映画の情勢を一変させた。
 ヌーヴェルヴァーグがフランスで起こり、後にそれがアメリカで不思議な展開を見せた。ハリウッドに対して、現実をフィクションに置き換えることを余儀なくされる低予算のフィルムが生まれ始めたのだ。大西洋の向こう側で、思考の映画が、俳優の映画へと変貌した。アメリカのジャンル映画によって形を変えたこのヌーヴェルヴァーグの遺産を、たったひとり、ステヴナンがフランスに回帰させた。そしてまたステヴナンは、不器用にもこう名付けるしか私にはできないのだが、「しぐさの映画」というべきものを創り出したのだ。
 ゴダールは「盲目の映画を作ることができるだろう」と述べていたが、そこにはつねに彼自身の手が介在していた。ステヴナンの1本の作品のワンシーンを見るだけで、この逆説を理解することができだろう。
ステヴナンが俳優であることは偶然ではない、それも途方もない俳優であることは。ステヴナンはただ単に、私たちのクリント・イーストウッドなのだ。彼らふたりの映画には同じ古典主義、同じモデルニテが存在し、同じ謙虚さ、そして映画がこうあるべきであるという広大で、果てしない理念を共有している。
ステヴナンは、彼の身体のすべてによって映画を作っているのだから。
アルノー・デプレシャン(2002年『ミシュカ』公開時のプレスより引用)

PasseMontagne2_-Le-Pacte.jpeg いまだにジャン=フランソワの死が信じられずにいる。2019年に亡くなった映画監督のパトリック・グランペレとも大の仲良しで、今でも毎日のようにふたりの偉大なバイク乗りは私の人生を駆け抜けている。『防寒帽』のことをいつも考えている。この映画では光が決して消えることがなく、戦後のフランス映画史において前例のない作品であり続けている。出会いと横断の映画であり、ストーリーテラーの映画でもあり、ステヴナンは話上手で彼の話は何時間でも聞いていられる。ジャン=フランソワとはジャック・リヴェットのアシスタント時代に知り合いになり、1979年にロッテルダム国際映画祭で本作が上映されるので彼に同行した。ゴダールが講演をしに来ていて、『防寒帽』について、国、地方、ジュラの風景が描かれた映画として、心を打たれたことを長い間語り続け、ジャン=フランソワは感動して涙を流していた。ヴェンダースの『さすらい』(1976年)との親和性、完璧なドイツ語を話すステヴナンがライン川の向こう側で映画を作ることを夢見ていたことも重要だが、アメリカン・ニューシネマの非常に特殊な存在であるモンテ・ヘルマンとの親和性もあるだろう。ふたりはカンヌで出会い、意気投合していた。ステヴナンにはオーソドックスなものは何もない。例えば、私が『リヴェット、夜警』を撮影したとき、出演依頼すると彼はバイクで現れ、リヴェットのことを(通常言われるような)インテリのアーティストとしてではなく、美食家であり、ダンサーのような身体を持つセクシーな男として語ってくれた。1984年にナタリー・バイに依頼されて、(彼女の当時の夫で、フランスのスーパースターの)ジョニー・アリディのコンサートのステージ・マネージャーを務めた時、ジャン=フランソワはほとんど毎晩のように来ていて、夢中になっていた。彼は本物のジョニーのグルーピーだった。彼はフランス映画界では非常に異端な俳優であり、そのころを自覚していた。彼は、マーロン・ブランドやロバート・デュヴァルを思い出させる、つまり、揺るぎない独立性を醸し出しながら、同時に抗い難い魅惑を放つ、完全なる男だった。
クレール・ドゥニによる追悼(『リベラシオン』、2021年7月28日)

passemontagne03.jpeg ジャン=フランソワ・ステヴナンという人物に対して、僕は愛情と、多大なる尊敬を抱いています。彼の監督作品を25歳の時に発見し、大きな影響を受けました。たとえば彼の映画の持つ驚くほどの自由、寛容さ、場所、空間の中に映画を刻み込む様に。幸運にもムードンにある彼の家を訪れ、会う機会を二度ほど持つことができました。彼に演じてほしいと思って書いた役があったのですが、残念ながらその映画は資金が集まらず撮ることができませんでした。ジャン=フランソワは驚くべき人で、みんなでテーブルを囲んでいる時、自分の妻にある話を語り始めたかと思ったら、僕たちの前で次々にその話の登場人物たちを演じ始め、カメラの動きも身体で示し、ひとりの俳優を超えて、彼一人で映画そのものとなってしまう、つまり大道具係、助監督、俳優、脚本家、演出家、現場にいるすべての人になってしまうのです。彼の家、彼の宇宙、彼の大家族の中に迎えられて過ごしたその数時間を僕は生涯忘れることがないでしょう。ジャン=フランソワ・ステヴナンは、目の前にいる人々にとてつもないエネルギーと、希望を与えてくれる人で、彼にとって人生と映画は分かち難く混ざり合っています。ジャン=フランソワは僕の映画、『女っ気なし』と『やさしい人』をとても気に入ってくれていて、そのことをとても誇らしく思っています。
ギヨーム・ブラック

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    坂本安美

    6/16(水)

    「一本の映画を作ることは人間同志による冒険である」

     オリヴィエ・ペールがブリュノ・デュモン監督、そして彼の映画製作を長年支えてきたプロデューサーのジャン・ブレアとランチ・ミーティングを行うというので、監督にも久々にお会いしたく、参加させてもらう。デュモン監督はこれまでに2回ほど特集を開催し、日本にお迎えしていて、最後は2015年、その当時の最新作『プティ・カンカン』(*1)を含めたほぼ全長編作、そして彼がもっとも敬愛する映画作家のひとりジャン・エプシュテインの特集を「カイエ・デュ・シネマ週間」の枠で開催させてもらった。大阪、京都、東京と、各会場でティーチインを行い、撮影、俳優とのやり取りについての具体的なエピソードのほか、各作品のテーマついて深遠かつ明晰な言葉で丁寧に語ってくれた。アーティストというのは、えてして他のアーティストの作品について語る時の方が、自分の創作の核心に触れるもので、デュモン監督も、エプシュテインについて語っていた時の方がまっすぐにその映画への情熱を吐露されていたように感じた。一見、物静かで、厳格そうに見えながら、その場、そこにいる人たちの中に自分のペースで入っていき、自然と馴染んでいくその姿を見ながら、監督の作品に登場する物静かな人々や風景が、突如ざわざわとノイズを発し始め、殺風景に見えていた場所がとてつもない表情、出来事性を纏い始める世界への眼差しの在処をひそかに探していた。観光にはほとんど興味がなかったが、京都で唯一訪れたいと言われたのが満願寺の溝口健二の碑だった。ひっそりと建っているその石碑の前にしばらくの間佇み、言葉を発することなく、その場を立ち去っていく監督の一瞬の目配せを受け、はっとして、そそくさと後を追った。
     バスティーユ広場に面したカフェのテラスはランチ時で多くの人たちで賑わっており、日常が徐々に戻りつつあるのを感じる。デュモン監督は6年前の巡業を覚えていてくれて、いい旅だったよ、とひと言、笑顔を浮かべて述べてくれた。レア・セドゥ主演の最新作『フランス』がカンヌ映画祭コンペでお披露目ということで、ポスターのデザインなど広報について確認しながら、主演であるレアとの仕事がいかに充実したものだったか、作品への満足感、幸福に満ちた言葉を耳にし、同作品への期待が高まる。

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    ブリュノ・デュモン

     その『フランス』も共同製作しているオリヴィエ・ペール率いるアルテ・フランス・シネマは、年に20数本の長編フィクション作品、ドキュメンタリー作品1本、アニメーション作品1本、合計22本の製作を支援している。まずはディレクターであるオリヴィエと彼のスタッフによって応募された脚本が読まれ、そこで最初のセレクションが行われ、その後、アルテのスタッフと、外部から選ばれた人々と半々で構成される10名ほどの選考委員会によって話し合われ、支援する作品が決定する。ちなみに現在の外部からの選考委員は、元カンヌ国際映画祭前会長のジル・ジャコブから、若手映画監督のジュスティーヌ・トリエ(『ソルフェリーノの戦い』、『ヴィクトリア』)やニコラ・パリゼール(『アリスと市長』)、その他、配給会社、セールス会社の人々で構成されている。各々の脚本、キャスティングから見えてくるその企画の意図、その(技術的、商業的な)実現性、あるいは現代映画における革新性、新人でなければこれまでのその監督のフィルモグラフィー内での位置づけ、その他いろいろな観点から自由に意見を交し合い、時間をかけ、丁寧に検討していく。この日のランチでもデュモン監督の次回作についても触れられていた(どうやらSF映画であり、『プティカンカン』以来、作風、ジャンルを果敢に挑戦してきたこの監督の新境地がまた見られそうだ)。監督、プロデューサー、映画史家、映画祭プログラマー、批評家、配給関係者、それぞれ立場の異なる映画関係者たちが、批評的視座を持ち、今作られるべき、生まれるべき映画作品はどんな作品なのか議論し合う(万が一、自分の所属している団体、グループに寄りすぎた発言、意見が目立つ場合は退いてもらうとのこと)。そこからフランスだけではなく、世界中の映画作家たちに創造の可能性が開かれ、支援が決定された後も、製作中の監督やプロデュサーたちとのやり取り、劇場公開時、その後のテレビでの放送、ソフト発売まで、作品を支えていく。こうしてひとりの作家の創造の可能性を開き、時にアドバイスをしながら、作品が観客に届くまで寄り添い、参加していく仕事に喜びと誇りを感じているというオリヴィエ・ペールは、かつてロカルノ国際映画祭のディレクターを務めていた際に、同映画祭で特集を組み、大好きな監督のひとりであるというヴィンセント・ミネリの『バンド・ワゴン』(1953)を挙げながら、映画作りについてあるインタビューで次のように述べていた。

    この映画で好きなのは、インディペンデントで、それぞれ異なる資質、キャラクターを持った人々が集まって、資金を集めて、ショーを行おうとしている姿が描かれているところで、映画を作ることも同じで、成功するかどうか分からないながらも、人々が一緒になって働き、資金を集めていく。 今日、良い映画を作るためには、そのことを忘れてはいけない。つまりもっとも重要なのは、自分が好きで、一緒に仕事をしたいと思う人たちと共に集まること、それは家族のようなものであり、多くのお金を得られなくても、芸術的な自由を持ち続けることだ。 映画作りは人間同志による冒険であり、それは非常に人間的な体験だ。とても長く、厳しいプロセスを要するからこそ、好きな人たちと一緒に作ることが大切だ。 勇気を持って映画を作っている若い人たちを心から尊敬している。20年前、40年前よりもずっと難しくなった映画作りを、今日でも行おうとしている人々を私は本当に尊敬していて、サポートし、成功する機会を与えたいと思っている。(オリヴィエ・ペール)

    (*1)『プティ・カンカン』は現在、映画配信サービスJAIHOにて配信中


    「途方もない何かを信じること」

     バスティーユからパリ18区のクリシー広場、その近くの路地にあるアートセンター 、ル・バル(LE BAL)で開催中の「ワン・ビン展」へ向かう。賑やかな広場を抜け、坂になっているアンパス(袋小路、行き止まりになっている通り)を上がるとすぐに緑に囲まれ、ゆったりと落ち着いた佇まいのル・バルのカフェのテラスが見えてきて、一気に、異次元へと誘われていく。ル・バルは写真、ビデオ、映画、ニューメディアに焦点を当てたアートセンターで、展覧会、講演会や討論会が開催されるほか、本の出版・販売も行っていて、パリに来ると一度は訪れたい場所のひとつだ。場所の歴史も興味深く、もともとは第一次大戦後、世界大恐慌が勃発するまでの1920年代、いわゆる「Les Années Folles 狂乱の時代」に賑わったキャバレー、ダンスホールであり、第二次世界大戦後、1992年まではフランス最大の場外馬券発売公社だったとか。その後しばらく放置されていたところ、2006年にレイモン・ドゥパルドンほかマグナム愛好家協会により、ル・バルを立ち上げる企画が生まれる。ダンスホール時代の天井や柱をいかして改築されたのち、2010年9月にオープン。ディレクターにはマグラムフォトのヨーロッパディレクターを務めていたディアンヌ・デュフールが就任し、「ワン・ビン展」はドミニク・パイーニと彼女がキューレーションを担当している。展示スペースは約350㎡あり、1階、地下と2つのフロアに分かれている。ブックショップを通り、1階の展示スペースへと入っていくと、待ち合わせをしていたパイーニ氏の姿が見え、すでに展覧会についてゲストたちに解説を始めていた。これまでもシネマテーク・フランセーズでドミニクが手がけた展覧会、アンリ・ラングロワ展、ミケランジェロ・アントニオーニ展など、彼の解説、ガイド付きで鑑賞する幸運に何度か恵まれてきたのだが、一つひとつの展示を説明するというよりも、まずは全体の構成、セノグラフィー(空間演出)をダイナミックに説明してくれ、その中を進んでいくための道標を示してくれる。ワン・ビンを『鉄西区』(2003)のフランス公開以来、擁護し、対話を続けてきたドミニクは、このアーティストの展覧会を現在開催する意義について次のように語ってくれた。

    既成概念や先入観がまったくないという感覚を与えてくれるドキュメンタリー作家は、私にとってワン・ビン以外にはいない。ワン・ビンは『リュミエール主義者』であり、『ロッセリーニ主義者』である。つまり彼は現実に何かを押しつけることなく、そこから感情が生まれるかもしれない、あるいはそこから何かを知り得るかもしれないという可能性だけを信じている。彼の映画は、私たちの代わりに考えようとなどしない。しかも、ドキュメンタリー作家でありながら、美しさを恐れず、それに対して罪悪感も持っていない。ブレヒトが言ったように、美学的に正しいからこそ、政治的にも正しいことができるのだ。その意味で、彼の映画は、中国はもちろんのこと、それを越えて、世界について私たちに語りかけてくる。シャンタル・アケルマンや、ガス・ヴァン・サントを彷彿とさせるような芸術的なジェスチャーでね。

     ドミニクによると、同展はこの映画作家にとっていずれも本質的な3つのモチーフ、3つの時で構成されている。「破壊」(『鉄西区』)、「収容、幽閉」(『収容病棟』、『苦い銭』、『父と息子たち』)、そして「尾行、追跡」(『名前のない男』)、これらのモチーフをもとに、ワン・ビン自身と共に選ばれた作品の抜粋がループ上映されたインスタレーションへ、それでは進んでいこう。

     まずは1階の会場、「破壊」の時へ。日本占領軍が建設した鉄西区にある中国最大の鉄鋼コンビナートの解体を、2年間にわたりDVカメラで撮影した9時間の作品、世界が衝撃と共にこの映画作家を発見することになった叙事詩的なドキュメンタリー『鉄西区』。ひとつのスクリーンにはコンビナートが雪に埋まっていくその風景を押し分けるように進んでいく列車がトラベリングで捉えられ、もうひとつのスクリーンには工場の大浴場に蠢く労働者たちの肉体が煙の中から浮かび上がってくる。仮借なく覆われ、凍結されていく歴史と、すべてを剥ぎ取られ、肉体のみで寄り添い、抵抗し続ける労働者たち、白と赤、2つのスクリーンが並置されている。

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    「破壊」(『鉄西区』)

     そこから少し離れた下の方にもうひとつ、小さめのスクリーンが設置されており、雪の中をひとりの少年が歩いて行く姿が映し出されている。その少年がカメラの方を振り向き、しばらくこちらを見つめ、そして踵を返して、雪の中へと去っていく。「一瞬、私たちの方を振り向きながらも、何もない場所、未来へと進んでいくしかない少年、彼の孤独を見せたかった。それは、この展覧会で出会うことになる幾人もの人々の絶対的な孤独を予告している」。ドミニクは強い口調でそう語った。

     地下に降り、まず『収容病棟』(2013年)の抜粋が映し出される幾つもの小さなスクリーンが壁に散りばめられた空間に入っていくと、病院に収容された人々がまさに正気を失うほど歩き回っていて、その廊下の閉塞感に私たちも包み込まれていく。しかし、インスタレーションのスクリーンに映し出されるそれぞれの生の時間を体験していくことで、ワン・ビンが本作でこの精神病院の抽象的かつ抑圧的な構造を示すと同時に、そこに幽閉されている人々が示す逃走線をあらゆる方向に辿っていくのを感じることができる。

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    「収容、幽閉」(『収容病棟』)

     こうしてカメラを向ける人たちそれぞれが示す逃走線を辿りながら、ワン・ビンは形式を固定することなく、出会う人々に導かれながら,彼らの生のリズムと一体になって撮り続けていく。たとえば繊維工場で働く出稼ぎ若い労働者たちを描いた『苦い銭』(2016年)は、登場する人々が次々移動していき、映画はつねに枝分かれしながら、絶対的に自由な構成を持つに至る。

    "流れゆくこと"は、今日の普通の中国人の重要なテーマだ。私は、彼らの物語を語るために、カメラのショットや捉える人物をずらしながら、ある被写体から別の被写体へ、焦点を揺らすようにひとつに絞らずに撮影した。(ワン・ビン)

     地下の会場の中央には、同展覧会でもっとも大きなスクリーンに、ギャラリーからの依頼で製作され、滅多に上映されることがない1時間37分の『父と息子たち』(2014年)が、同展唯一、全編通してループ上映されている。ワン・ビンは2010年に雲南省の山間部で『三姉妹〜雲南の子』(2012年)の撮影をしていた際に10代の兄弟に出会う。彼らは、仕事を求めて都会に出て行った石材加工の職人である父親の帰りを待ちながらふたりで生活をしていた。それから数年後、ワン・ビンは、四川省で父親と暮らしていた彼らと再会し、約1カ月間、彼らの日常生活を撮影する。父親の出勤、息子たちの起床、昼食、テレビを点けたり消したりする様子、不衛生な一室で過ごしている彼らの日常のささやかな出来事が固定カメラで記録される。非常に親密で、個人的な小さな空間はしかし、普遍性さえ越えて、私たちのもとへと広がってくる。「生の体験 experience of life」だとワン・ビンは述べる。                                     

    彼らの生活状況こそカメラに映したかった。現代中国の問題、つまり経済成長に隠れて何百万人もの人々に影響を与えている物質的、精神的貧困を抱えるこのシステムの偽善を明らかにしなければならないと思った。(...)この映画が示しているのは、生の経験だ。彼らの人生は大切だ。彼らの苦しみを黙認すべきではない。彼らの脆弱さを見てほしい。そしてもちろん、彼らの人間としての誇りや強さも。

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    『父と息子たち』、背後には『名前のない男』のインスタレーション

     この旅は、ワン・ビンの歩んできたその軌跡の中でももっとも先鋭的な作品、『名前のない男』(2008年)で締めくくられる。日々、ショットにショットを重ねて、取り憑かれたような執念でワン・ビンが追い続けた言葉を発することもなく、人間の形をしている以外は謎につつまれた、「最後の人」が、洞窟と風に吹かれた平原の間のどこでもない場所をせわしなく動き回っている。

    『名前のない男』は、たった一人で、完全に自給自足で暮らしている。現代の物質主義的な中国において、彼の言葉なき静かな存在は、雄弁なる抵抗の行為であり、純粋な状態における存在であるだろう。(ワン・ビン)

     物質的にも歴史的にも急速に変容しつつある巨大な国のあらゆる場所に、まるで測量士のように足を運び、そこで出会った人々、そこに辿り着いた彼らの存在を、彼らの身体が生きるその時間を確認する。この展覧会のタイトルとなっている「歩く眼」は、ワン・ビンのそうした映画作家としての特異なアプローチ、その存在=不在を示しているだろう。そしてその映画作家への深い敬愛と理解を持つふたりのキュレーターによって巧みに構成された同展への旅とは、ワン・ビンの映画作りと同様に、意味やメッセージを見出していくよりも、その中に身を置くこと、その時間、それを身体で感じることがまず求められる。そしてそのことによって、私たちから絶えず奪われている歴史に対する突然の、そして瞬間的な認識を得ることができるだろう。

    ワン・ビンの作品たちはかつてない、前代未聞の何かを宿していて、それらが記録する(ドキュメント)ものを絶えず越えていく。その途方もない何かを信じるために、まずはワン・ビンの作品たちを見なければならない。一歩下がったり、高いところから見たりするのではなく、その場に留まり、それぞれの状況や、それぞれの身体の持つ政治的な深遠さからゆっくりと表面へ現れてくるものに寄り添いながら。(リュック・シャセル「リベラシオン」)

    「ワン・ビン----歩く眼」展
    ※同展には1000枚のフォトグラムとドミニク・パイーニ、アラン・ベルガラらの論考が収められたカタログが制作されている

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    ル・バルのカフェで『ワン・ビン 歩く眼』展カタログに献辞を書いてくれているドミニク・パイーニ

     ル・バルを出て、ドミニクと共に地下鉄に向かう。6月ながら、パリは真夏の暑さだ。シネマテーク・フランセーズで同展に併せてワン・ビン特集が開催されており、ドミニクは上映前に毎回作品紹介をして、その後、別のホールで開催されている清水宏の作品を毎日、喜びとともに発見しているとのこと。私は、一度宿に戻り、夕方、ナダヴ・ラピドの最新作『HA'BERECH/Ahed's Knee(アヘドの膝)』の試写へと向かう予定だ。

    「何の説明もなく、直接、ある雲が私たちを引きつけ、別の雲が私たちを引きつける」
    ガストン・バシュラール

     2021年6月、パリへ。パリ?今?そう今。さまざまな不安、躊躇もありながら、仕事の都合もあり7月のカンヌ国際映画祭開催時には渡仏できそうになく、この時期に会いたい友人、家族たちのいるパリへ向かうことに。そう、会いたい、見たい、そこにいたい、切実な思いに導かれて...。パリの様子、そしていち早く観ることができたカンヌ出品作品、シネマテーク・フランセーズでの清水宏特集、友人たちとの再会、あるいはパリの街が想起させてくれた人々の言葉、映画、本、あるいは7月6日(火)に開幕したカンヌ国際映画祭についてのフランスのメディアの批評、インタビューを、いくつかに分けてお伝えする。

    6/11(金)
     夕方16時頃パリに到着、お世話になる友人宅に向かうためタクシーに乗る。パリは夏に向けてどんどん暗くなる時間が遅くなっていき、6月でも9時近くまで明るく、この時間もまだ昼間のような明るさだ。空を見上げると、ぽかんぽかんと雲が浮いている。フランスの空の青さは、日本よりも濃く、雲が低く、近くに見え、もちろん季節によって異なりながらも、綿飴のようなちぎれ雲が、不規則に、ワイルドに浮かんで見える。到着して空を見上げ、ああ、フランスに着いたんだな、と確認するようになったのは、私が師と仰ぎ、今回会いたい友人のひとりでもあるドミニク・パイーニの影響もあるだろう。彼は自分のアパルトマンのテラスから毎日空を、雲を眺め、写真に撮るのがほとんど日課となっているとのこと。『雲の誘惑』と題した、映画の中の雲について著した本まで出している。そうそう、2019年来日時にはまさにその「映画の中の雲」について、ドライヤーの『奇跡』、ストローブ・ユイレの『雲から抵抗へ』、その他、『砂漠のシモン』(ブニュエル)、『獣人』(ルノワール)、『ブリスフリー・ユアーズ』(ウィーラセタクン)、『アパッチ砦』(フォード)などを引用しながら素晴らしい講演をしてもらったっけ。そしてこの本に影響を受けたことがひとつのきっかけとなって生まれたのがオリヴィエ・アサイヤスの『アクトレス〜女たちの舞台〜』であるのだが、それについてはまた別の機会に。

    「私が雲に惹かれるのは、その形成過程や物理的な現実、変化する姿、消えていく謎やその気まぐれな形状に魅惑される理由と同様に説明することができないのだが、子供の頃から雲が私の好奇心を刺激してきたのは事実である。雲たちは私の(まれな)怠惰や気晴らしを視覚的に占領し、「おおいなる晴れの日」に対する私の特別なる嗜好を乱し、ルネッサンス絵画の中心的な主題や、古典映画の中心的な、つまり主要登場人物の勇敢なる行為に対する私の注意をしばしば奪ってきた。」(ドミニク・パイーニ、『雲の誘惑』より)

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    『獣人』ジャン・ルノワール©DR

     フランスは、今年3月12日より日本からビザなしで入国可能となり、PCR検査陰性証明書の提出は義務づけられているが、出発数日前の6月9日から、これまで入国時に必要だった7日間の自主隔離義務が解除となる(ほっ...)。今年の1月にやはりパリを訪れた際は、まだ感染者数もかなり多く、夜間も8時以降は外出禁止、カフェもレストランも映画館、美術館も閉まっており、日が射すことがあまりない真冬だったこともあるが、人通りが少なく、街はまるで冬眠しているかのようだった。友人宅を訪れても、マスクをつけたままか、ディスタンスを取っての歓談、宿に20時前に到着するようにお別れしなければならず、いつものようにワイワイお喋りを楽しみながら、長い時間をかけてディナーを共にすることなどは難しく、再会を喜びながらもどこか切なく感じていたことを思い出す。しかし現在は、成人の50%以上が1回目のワクチンを打ち、感染者数もピーク時と比べて10分の1、それ以下へと日々減ってきており、5月19日には、ようやく6ヶ月半ぶりに映画館再開(当初は35%から)、レストラン、カフェなども店外のテラス席から再開となり、現在は店内も収容人数が3分の1、50%と徐々に制限が穏和されてきている。
     リュクサンブール公園近くにある、客間を提供してくれる女優である友人宅に到着。近くのカフェのテラスにはアペリティフを片手に歓談を楽しんでいる人たちが集っている。私も荷物を置いて、すぐに交わる。先日、ラジオで、映画監督のギヨーム・ブラックがカフェのテラスが久々に再開して思ったのは、見知らぬ人々の中に混じり、周囲の人々に何気なく視線を向け、彼らの人生を想像したり、会話の断片を何気なく耳にすることがいかに自分の映画作りに大切な時間であるか語っていたことを思い出す。ちょうど一ヶ月前、彼の長編最新作『A l'abordage(乗り込め)』が、ベルリン映画祭でのお披露目を経てアルテにて放映、『カイエ・デュ・シネマ』のシネクラブでも特別上映され、話題になっていた。昨年、第一回目緊急事態宣言発令で蟄居中、ちょうど初夏だったか、監督の厚意でこの作品を息子とともに見ることができ、閉じられていた空間、心が一気に開かれ、オープンエアの中へと漂い、不意にもたらされる出会い、偶然が生み出す悦び、思いっきり吸い込める大気、自然の中での抱擁、そして空っぽになったヴァカンスの酩酊感、そうした忘れていた感覚を思い出させてもらい、どんなにふたりで感謝したことか。ギヨームとは2019年の夏にまさに「ヴァカンス特集」を一緒に企画させてもらったのだが、その特集に寄せてもらった彼の言葉を以下に引用したい。

    「夏は、異なる方法で映画を撮るように導いてくれる。(...)思いがけない出来事に対してもより柔軟でいられる。例えば変化していく光や、突然響き渡る嵐にも。天気や光、人の群れ、夏は、現実がもたらすものにより臨機応変に対応することを可能にしてくれる。ささやかながら、深く心に残る、その後の人生に余波を残すような出来事を語る映画が好きだ。夏はそうした微妙な感情を描写するに打ってつけであり、今この時の歓喜、生き生きとした様子、あるいは、すでにそこにないもの、すでに失われたものへのメランコリー、憂愁の中へと観客を深く導いてくれる。」

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    『A l'abordage(乗り込め)』ギヨーム・ブラック©DR

     最新作となる『A l'abordage(乗り込め)』は、これまでの作品以上に、ジャン・ルノワールの映画に近づいているように感じた。作品の中に登場する複数の人々それぞれが予知できない人生に果てしなく開かれていることの悦び、そして時にその残酷さの間でおおらかに生きているのだ。そのギヨームは現在、短編作品を製作中とのことで、今回は残念ながらおそらく会うことができないだろう。『A l'abordage(乗り込め)』の日本配給はすでに決まっていると耳にする。この偉大なブラック作品の公開、そして監督の再来日を待ち望みながら、また何か面白い企画を共に行えることを願って準備したい。
     冷たい白ワインを喉に流し込み、ゆっくりとゆっくりと色、形を変えていく空や雲を眺めながら、半年前には見ることができなかった人々の表情を眺め、これから出会うこと、人たちへ思いを馳せながら、長旅に疲れた身体の緊張がだんだんほぐれてくるのを感じていた。

    6/12(土)
     午後、アルテ・フランス・シネマのディレクター、オリヴィエ・ペールと会う。オリヴィエ・ペールは彼がロカルノ映画祭のディレクターを務めていた頃からの友人だが、昨年開催した「第2回映画批評月間」でセレクションをお願いし、アルテが支援する作品たちを一挙に紹介し、いかに映画の現在において重要な役割を果たしている人であることをあらためて確認した。今年のカンヌ映画祭でも、全部門を含めた31本、コンペ部門だけでも12本の作品を支援しているとのこと。そのオリヴィエに付き添い、ベルトラン・タヴェルニエの葬儀ミサに参列する。今年3月25日に亡くなられるも、コロナ禍のため、2ヶ月半にしてようやくミサが行われることに。教会にはご家族、関係者、友人とかなりの人数が集まっていた。師弟関係でもあり、タヴェルニエが理事長を務めてきたリュミエール協会のディレクターでもあるカンヌ映画祭総代表ティエリー・フレモーも当然ながら参列していた。タヴェルニエ監督作品については、正直、その半分ぐらいしか見ておらず、「カイエ・デュ・シネマ」派に近いことから、彼らのタヴェルニエ映画へのあまり肯定的ではない意見に影響を受け、発見することを怠ってきてしまったことを告白しよう。しかしタヴェルニエの映画の知識、とくにアメリカ映画についての知識は、本国の専門家を上回ると言っていいほど豊かなものであり、アメリカの著名な批評家であるケント・ジョーンズも「ベルトランのおかげで、デルマー・デイヴィスやヘンリー・ハサウェイ、その他多くの映画作家たちの作品と本格的に出会うことができたと感謝している」と、訃報を受けて述べていた。私自身は、1996年だったか、東京日仏学院にお迎えした際の、映画について語るその迸るような情熱、優しい人柄が記憶に強く、そして2018年に劇場公開されたドキュメンタリー『フランス映画による旅』からは多くのことを学ばせてもらい、本作はこれからも大切に見続けたい作品となるだろう。ギトリ、グレミヨン、ベッケル、ドコワン、ブレッソン、メルヴィル、そしてクロード・ソーテについて独自の観点、言葉で彼らの作品の魅力、その人間性を丁寧に紹介している。新しい才能、監督を発掘し続けるオリヴィエ・ペールは、映画批評家として、映画史の埋もれた作品、あるいは過去の作品を何度も見直し、再評価することをつねに実践している人でもあり、だからこそタヴェルニエへの尊敬は深く、今日のミサに来ることも彼にとって大切なことであり、声をかけてもらって、お別れができたことを感謝する。
     シネマテーク・フランセーズでは劇場再開後すぐに、今年3月に「世界のあらゆる記憶」映画祭の枠内で開催予定であった「タヴェルニエによるアメリカ映画」を5月19日から6月7日まで開催していた。同特集はタヴェルニエに白紙委任状を託し厳選された12本のアメリカ映画を特集し、本当であれば、本人が会場で一作ずつ紹介する予定だったそうだ。「網羅することはできませんし、したくもありませんが、自分がよく知っている作品や、とくに好きな作品を選んでいます。数本のフィルムで作品を照らすこと、一人称で語ることを試みたいと思います」。これはタヴェルニエが『フランス映画による旅』の冒頭で述べていた言葉だが、その「一人称で語ること」の重要性、まずは自分の好みを拠り所にすることから大きな歴史が見えてくるということを示してくれた人だと思う。『Afraid to talk』(エドワード・L・カーン、1932年)、『Wait till the Sun Shines, Nellie』(ヘンリー・キング、1952年)、『フレンチスタイルで』(ロバート・パリッシュ、1962年)、『ジョンソン大統領/ヴェトナム戦争の真実』(ジョン・フランケンハイマー、2002年)、『今宵、フィッツジェラルド劇場で』(ロバート・アルトマン、2007年)など、かなりレアな作品、セレクションで、タヴェルニエだからこそ見せてくれるアメリカ映画史、いつか日本でもこの12 本の中の数本でも特集し、追悼できることを願いながら、まずは予告編を、「味わって、楽しんで下さい!」(特集紹介文の最後のタヴェルニエ本人の言葉より)。

     夕方は、そのシネマテーク・フランセーズに移動し、開催中の清水宏特集、『霧の音』(1956年)を観る。シネマテークの2つの上映ホールの内、アンリ・ラングロワ・ホール、まだ座席数制限が多少あるようだが、かなり埋まっており、知られざる日本の巨匠の作品の発見を待ち望んでいる雰囲気を感じる。「知られざる」? 1988年に同シネマテークで、2001年にはパリの日本文化会館で特集が開催され、2018年に開催された「フランスにおける日本年、ジャポニスム」でも『有りがたうさん』(1937年)と『蜂の巣の子供たち』(1948年)が上映されているのだが、清水宏はまだ映画大国フランスにおいてもいまだ日本映画の重要な作家として十分には認識されておらず、その意味でも、今回の特集の意味は大きいだろう。さて『霧の音』は、上原謙、木暮実千代が相思相愛ながら運命に翻弄され、擦れ違っていく男女を演じるメロドラマであり、上原謙演じる植物博士が娘とその婚約者と日本アルプスを望む信州高原を訪れるところから映画は始まる。「秘めた思い出は、昭和22年の仲秋の名月まで遡る」とテロップが出る。信州高原、そこにぽつんと建っている山小屋、白樺林、そしてその場所に仲秋の名月になると、月を見に戻ってくる男と女。そのふたりの他に、宿を切り盛りする夫婦役の坂本武と浦辺粂子や芸者役の浪花千栄子(それぞれが素晴らしい!)、その他数人のみの限られた登場人物、限られた空間(北条秀司による戯曲を、依田義賢が脚色)ながら、いやそれだからこそ、清水宏の演出が光っている。清水にとって家の中というのは区分けされ、決められた役割を演じる場でありながら、その規則、大人たち、社会の決めことをどう壊して、遊びに、愛に変えていけるか、人物たちは突然、斜めに、横に移動し始める。あるいは、外へ、開けた地平へと駆け出し、自分たちの意思、物語とは関係なく存在している自然の中に身を投げ出し、孤独になりながらもより大きな世界へと近づいていく。

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    『霧の音』清水宏©DR

    6/13(日)
     ふたたびシネマテーク・フランセーズの清水宏特集にて『次郎物語』(1955年)。内へ、外へと往来し、ひたすら歩き続けながら、何人もの母なる存在との出会い、別れ、そしてまた出会う。感情は形を変えずに漂い、切なさ、後悔が残るとも、やがて風に流されていく。ふと、ギヨーム・ブラックの作品との共通点、先述した彼と共に企画した「ヴァカンス特集」で私から『簪』(1941年)を選ばせてもらい上映したことを思い出す。ギヨームにもぜひ、清水宏の作品をいつか発見してほしい。

    6/14(月)
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    『Annette』レオス・カラックス©CG Cinéma International

     オリヴィエ・ペールの厚意で、パリ滞在中、アルテの共同製作作品を映画祭前の試写で何本か見せてもらえることに。その一本目はまさに本映画祭のオープニングを飾ることになるレオス・カラックス9年ぶりの新作『Annette』であると知らされ、早朝の試写に喜び勇んで向かう。「グラン・アクション」という古典作品から新作まで上映していてパリに来ると必ずといっていいほど足を運ぶ名画座での試写。深々とした座席にゆったりと腰を下ろす。前作『ホーリー・モーターズ』(2012年)は、映画館という夢の機械の中にパジャマ姿のカラックスが入っていくところから始まった。まさにモーターが動き出すために、あの小柄な身体で、裸足で。そこで作動し始める夢、『ホーリー・モーターズ』は、映画の驚くほどの創造性、遊び心に満ち、過去の作品、作家たちを参照しながらも、映画の現在、未来、そのあらゆる可能性を試みるべく、さまざまなジャンルを横断していく。カラックス、あるいはその分身、ドゥニ・ラヴァン演じるオスカー氏は、仕草の美しさを求めて、アクションの原動力を求めて、そして彼の人生に登場した女性や亡霊たちを求めて、エディット・スコブが運転するリムジンに乗り込み、一つの人生からもう一つの人生へと旅を続ける。「もう一度生きる!」、映画はジェラール・マンセットによる崇高な曲で締めくくられていた。
     その叫び、「もう一度生きる!」に答えるように、『Annette』は、娘と手を携え、ミキシングデスクの前に腰を下ろしたカラックス自身による次の台詞でスタートする。「So shall we start? じゃあ、始めましょうか?」。そして本作のベースとなるアイディアと音楽を提供している音楽界の不死鳥、世界的にカルト的人気を集めるアート・ポップ・デュオ、スパークスがその合図を受け、音楽スタジオの中で歌い出す。そこからピアノが響き、合唱団が歌い始め、そして夜のロサンゼルスの街へと誰もかもが繰り出し、主演のふたりも普段着姿でそこに加わり、手を取り合い、喜びと祝祭感溢れるパレードが繰り広げられる。「じゃあ、始めましょうか?」、こうしてそれぞれの登場人物たちは普段着から衣裳へと、ヒーロー、ヒロイン、それぞれの運命へと身を置く儀式を行う。彼女、マリオン・コティヤールは、リムジンの後部座席で舞台恐怖症を反芻するスターオペラ歌手アン・デフラヌーに、彼、アダム・ドライバーは、愛を見つけた自滅的なスタンドアップ・コメディアンのヘンリー・マクヘンリーに、それぞれ変身するのだ。コティアールの歌声はなんと裸形であり、美しく、悲しく響き、その仕草はまるでリリアン・ギッシュを思い起こさせ、初期の映画の女優たちの美しさを湛えている。そしてメルド氏と同じ緑色のローブを羽織ったドライバーの野生的で官能的な身体と動きの危うさ、そのエネルギーは、観客たちと共犯関係を結びながら炸裂していく。そして悲劇は遅からず訪れ始める。『Annette』は、祝祭的と思われたプロローグから徐々に、夢の裏側にある廃墟、人間たちの暗い衝動、表象の毒性、夜の闇へと下降していく。まるでムルナウの映画の中の男たちのように、ドライバー演じるヘンリーは愛する女の姿を見失い始めたのか、ふたりの間にアネットが産まれてから、何かが彼の中で壊れてしまい、恐ろしい怪物へと変貌していく。
     しかし『Annette』はこうして要約されることを拒み、その形、方向、物語を作品の中で自ら生み出し続け、ジャンルさえも変化させていく。そしてドライバー自身も最後の最後まで、その渦の中を彷徨い、姿を変え続ける。しかしもっとも重要なのは、タイトルが示しているように、本作が「アネット」へと辿り着くための映画であること、「アネット」(へ)の道程であろう。先述したように、今回はひとりではなく、娘と共に、彼女と手を携え、全編ミュージカル・コメディである本作をスタートさせたカラックス。この60歳の「恐るべき子供」は、『ホーリー・モーターズ』の独創性をさらに越え、(彼自身が述べるように)まだ若い、そして不純な芸術である映画の可能性とその限界、フィクション、スペクタクルを生み出すための冒険とその代償、人間の、世界の美しさと醜さ、愛と死、それらすべてを包含するこの140分の夜の果てまでの旅で、私たちに喜び、当惑、恐れ、感動、そしてやはり大いなる喜びを与えてくれる。「So shall we start?」

    クロード、ミシェル、そしてロミー

    坂本安美
    5593442-michel-piccoli-romy-schneider-et-claude-950x0-2.jpg「ミシェル・ピコリ追悼特集」を開催するにあたり、上映したいと思いながら、様々な理由で叶わず涙を呑んだ作品が数多くあった。それでも今回、どうしてもこれは上映すべきと、困難を乗り越えて準備したのがクロード・ソーテ監督、ミシェル・ピコリ主演作品『マックスとリリー』である(本作は日本未公開作品であり、『はめる 狙われた獲物』というタイトルでビデオ発売のみされている)。
    再びピコリ特集を、と心に誓いながらも、ひとまず今回の追悼特集を閉幕するにあたり、ピコリが映画俳優として絶対的な評価、認知を得ることになり、その後の彼の生き方、演技にも多大な影響を与えたクロード・ソーテとの大切なコラボレーションについて、そして彼らにとって欠かすことができない存在であったロミー・シュナイダーについて語っておきたい。

    「クロード・ソーテという映画監督は、人生を深く、本当に深く知っていた」ミシェル・ピコリ



    逆説とともにある映画監督、クロード・ソーテ

     クロード・ソーテ(1924-2000)は、35年の監督生涯において13本の作品を遺している。日本、そしておそらく世界的にも、70年代にロミー・シュナイダーを迎えて撮った『すぎ去りし日の...』(1971年)『夕なぎ』(1972年)などによって人気を博し、フランスの中産階級の家族やカップルの日常のドラマを描いた監督として、非常にフランス的な作家として認識されてきたのではないか。しかしソーテ自身の映画的源流はかならずしもフランス映画にはなく、エルンスト・ルビッチ、ハワード・ホークス、ビリー・ワイルダーといったアメリカの巨匠たちの映画をこよなく愛し、初期にはまさにそうした監督たちの影響を感じられるジャンル映画を撮っていた。こうしたクロード・ソーテの来歴は、フランス本国でさえあまり知られておらず、2000年にソーテが他界し、ようやく最近になってその全貌が紹介されるようになってきたようだ(シネマテーク・フランセーズでは2014年に大規模回顧上映特集、ラウンドテーブル、講演会が開催された)。ミシェル・ピコリとのコラボレーションについて触れる前に、もっともフランス的とされ、もっとも知られた監督であるようで、いまだ未知なる、発見すべき映画監督でもあるクロード・ソーテという映画監督の軌跡をしばし辿ってみたい。

     幼い頃から映画好きな祖母の影響で、映画の世界に憧れを抱いていたソーテは、音楽への情熱も持ち、まずは新聞に音楽批評を寄稿することで生計を立て始めるが、映画への思いが捨てきれず、フランス国立高等映画学校(IDEC)で映画を学び、ジョルジュ・フランジュの『顔のない眼』の現場などで助監督に就く。そして1960年、ジョゼ・ジョヴァンニ原作小説の映画化『墓場なき野郎ども』で本格的に長編監督デビューする。この企画をソーテに提案したのがリノ・ヴァンチュラだった。そしてこの当時フランスでもっともアメリカ的俳優であったヴァンチュラのパートナー役として、アラン・ドロンからジェラール・ブランまで様々な名前が挙げられていたが、ソーテ自身が最終的に選んだのが新人俳優のジャン=ポール・ベルモンドだった。ちょうど本作に出演する直前、ベルモンドはジャン=リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』に出演し、注目され始めていたが、ソーテは体型もその演技スタイルもまったく異なるこのふたりの俳優の差異を巧みに利用し、それぞれの良さを存分に引き出した演出をしている。こうして同じ俳優を用い、ちょうど同時期に映画を撮り始めながらも、ソーテは、ゴダールら「ヌーヴェルヴァーグの映画作家たちの中に位置付けられることはなかった。たしかにソーテの作品は、彼ら「ヌーヴェルヴァーグ」が批判していた戦後のフランス映画の伝統に連なるしっかりと構成された脚本に立脚した製作方法を取っていたが、その一方で撮影する場所や人々をほとんどドキュメンタリー的な手法でとらえ、そうした古典的とよべる脚本主義的な方法とヌーヴェルヴァーグ的、つまり現代的な映画作りがソーテの作品には共存していた。ヌーヴェルヴァーグの映画作家の中でも、唯一交流のあったフランソワ・トリュフォーは、『友情』(1974年)について、まさにフランス映画の伝統とヌーヴェルヴァーグを繋ぐ稀有な映画作家のひとりであるジャック・ベッケルと比較しながら敬意を表している。「この映画は短く要約するならば『人生』、そう、その言葉で要約できるだろう。人生全般、私たちがそうであることについての映画であると。」
    『墓場なき野郎ども』はそのジャック・ベッケルの『現金に手を出すな』(1954年)が代表する戦後のフランスのフィルムノワールの神話に根を下ろした作品であり、フランスにおいてこのジャンルを極めたとされるジャン=ピエール・メルヴィルも絶賛、メルヴィルがヴァンチュラを迎えて撮った『ギャング』(1966年)を予感させる作品であるとさえ評された。

    『すぎ去りし日の...』、ピコリとソーテの絶対的な出会い

     しかし『墓場なき野郎ども』は興行的にはヒットせず、ようやく4年後に、再びリノ・ヴァンチュラとタッグを組みアメリカのB級映画的犯罪映画『L'Arme à gauche』(1965年)を撮る。しかし再び興行的に失敗し、批評的にも高い評価を得ることはできず、絶望したソーテは、しばらく監督業から退き、脚本家としていろいろな作品に関わるにとどまっていた。ようやく70年代に入り、若く、才能溢れる脚本家ジャン=ルー・ダバディの後押しもあり、そして音楽にフィリップ・サルド、撮影監督にジャン・ボフェティという力強い協力者も得たソーテは、それまでのジャンル映画とは作風を一新し、当時の若手俳優たちを起用し、日常の人々のドラマを題材にし、多くの観客の共感を得て、興行的に成功し始める。批評的には、左翼的な運動が盛んであり、政治的なイデオロギーを掲げた作品も多かった中で、社会に対する明白な批判がないソーテの作品を反動的、保守的と批判する声もあった(「カイエ・デュ・シネマ」誌は長い間、ソーテの作品を評価せずにいたが、後にティエリー・ジュスらによる再評価が始まる)。しかしソーテはそこに描かれている世界を社会学的に切り取ってみせたり、ひとつのテーマに押し込めたりせず、一人ひとりの俳優たちについての深い理解、愛情によって、彼らの顔、姿、所作をドキュメンタリーのように記録し、彼らが演じる登場人物たちそれぞれを非常に独特な存在として浮かび上がらせており、まさにそこにこそソーテの映画の豊かさを見出すことができる。『すぎ去りし日の...』(1971年)、『マックスとリリー』(1971年)、『夕なぎ』(1972年)と70年代のソーテの代表的な作品に欠かすことができない、彼の映画のミューズともいえるロミー・シュナイダー。その美しさ、優雅さとともに、ソーテにおけるシュナイダーは脆弱さと強さを複雑に併せ持ち、けっしてひとつの意味、解釈に還元することができない、ある神秘とし、ひとりの絶対的他者として存在している。その絶対的な謎、他者の前で、愛にもだえ、苦悩し、とまどい、時に激昂さえするソーテにとってこの時期重要であったもうひとりの俳優がミシェル・ピコリである。
     そう、ソーテは、ロミー・シュナイダーというミューズとともに、映画における自分自身の分身をミシェル・ピコリに見出すのだ。そしてすでにゴダールの『軽蔑』(1963年)でゴダールの分身を演じ、映画界で注目され始めたピコリにとっても、ソーテとタッグを組んだ作品、とりわけロミー・シュナイダーが共演し、ソーテの代表作としていまだに挙げられる『すぎ去りし日の...』によって、70年代、絶対的な知名度、俳優としての高い評価を獲得することになる。『すぎ去りし日の...』は、当時の世相を舞台としたロマンチックなメロドラマと評されるきらいもあったが、ソーテの持っている人生への冷徹といえる視線、暗いペシミズムがメロドラマに陥ることを許さずにいる。ソーテは処女作『墓場なき野郎ども』同様、ここでもひとりの男が自己破壊的欲動とともにそれまで属していた場所から逃走していく様を描いている。ピコリ演じる40 代の建築家は若く美しい恋人との現実と、前妻や息子との過去の間で、あるいは物質的には豊かながら空虚にも感じる生活の中で引き裂かれていく。ピコリは、ソーテ映画のテーマとなっていく人生の闇に駆り立てられていく男を完璧に演じている、いやソーテ自身ともいえるそれらの男たちをピコリはこの時期、彼の映画の中で生きていたといえるだろう。

    3_Max.jpeg『マックスとリリー』、底知れぬ人生の深淵へ

    『すぎ去りし日の...』の大成功によって、そしてこの作品での融合し合うような濃密な映画作りの後、クロード・ソーテ、ロミー・シュナイダー、ミシェル・ピコリは、さらなる三人の企画に軽々と乗り出すことができず、前作を越えるものを作れるのか恐れていたという。まるで絶対的な愛の瞬間を生きた恋人たちが、再びその逢瀬を繰り返すことなどできないと幸福の中で絶望するように。しかし三人はその不安を乗り越えて、新たな傑作、より豊かで複雑さを孕む作品を作り上げる。それが『マックスとリリー』である。

     予審判事だったマックス(ミシェル・ピコリ)は、証拠不十分で容疑者を釈放せざるを得なかったという悔恨から辞職、刑事に転職し、現行犯での逮捕に執着を抱いている。兵役時代の旧友で、ナンテールでチンピラ仲間たちと車や廃品などをくすねて、生計を立てているアベル(ベルナール・フレッソン)にばったり出くわしたマックスは、アベルの恋人である美しい娼婦リリー(ロミー・シュナイダー)に近づき、アベルたちが銀行強盗を謀るよう巧妙な罠をしかけていく。

    「『マックスとリリー』はソーテの最高傑作ではないだろうか、とにかく私はそう思っている。主人公のマックスはある意味ふたつの職を持っていて、それに相応しい『身なり』をしなければならない。刑事でありながら、彼は自分のことを判事だと思い続けているのだから。三つ揃いの背広をまるで聖職者の衣服のように纏っている。ラストシーンでその身なりを脱ぎ捨てた時、彼はぎりぎりのところに身を置く。愛する女を抱きしめるか、それとも自ら命を絶つか。どうしてあんな演技ができたのか分からない。ソーテとロミー・シュナイダーのおかけだろう。あれほどまでに短い時間でどうしたら完全なる抑制から放埒なる行動へと移行できるのか?それこそ私が求め、好んでいることだ」。(ミシェル・ピコリ)

     ピコリが述べているようにマックスは「三つ揃いの背広」をつねに纏っており、異常なまでの執念に取り憑かれ、旧友とその仲間たちをはめていく。その様は「聖職者」というよりも、その冷たく青白い顔、その黒い衣裳からも、吸血鬼、あるいはブニュエルやメルヴィルの映画の中の登場人物を想起させるだろう。しかしピコリがいつものようにエレガントかつ端的に本作の核を言い当てているように、マックスは「完全なる抑制から放埒なる行動へと移行」していく。何もかも知り、言葉にも、叫びにもならないものを発しながら倒れ込むロミー・シュナイダーを前に、彼女のその姿を愕然として見つめることしかできないピコリ。自分でも制御できないもの、他者への止めることのできない欲動によって、それまで抑制、保っていたものが一気に音を立てて壊れていく様が、ピコリの微妙に変化していく表情、身体から伝ってくる。カフェの片隅でシュナイダーの絶望の吐息のみが響き、何もできずに彼女の前で立ちすくむピコリを映し出すこのシーンの凄まじさ......、それまで流れてきた生、時間が一気にひっくり返りる暴力的な、真実の瞬間がそこに描かれている。

    『友情』、人々の集いと彷徨う様を

     ピコリはその後、ロミー・シュナイダーとイヴ・モンタン共演の『夕なぎ』でナレーションを担当、まさに作家であるソーテの声となる。そして1974年、ピコリはソーテの6本目の長編『友情』に主演のひとりとして再び登場する。原題は『Vincent, François, Paul et les autre (ヴァンサンとフランソワとポール、その他の人たち) 』 であり、まさに三人の男たちの友情とその周囲の人々との交流が描かれ、ピコリはその中で、40代の妻子持ち、裕福な開業医フランソワを演じている。イヴ・モンタンがヴァンサンを、セルジュ・レジアニがポールを、そして彼らより下の世代、若さを象徴する存在として登場するジェラール・ドパルデュー演じるボクサー役のジャン、それぞれがその個性、魅力を十全に出して演じている中で、ピコリはともすると彼らよりも影がうすく見えもする。他の男たちがどうにも隠しきれず、自分たちの抱える苦悩で右往左往し、救いを求めたり、暴れてみたりするのに対して、ピコリ演じる40代の開業医のフランソワはとくに嘆き立てたり、騒ぐことなく、自らの感情を内に秘め続ける。そしてソーテは画面の奥、端でそうした控えめな演技にとどまっているピコリの表情をとらえ、そこにひっそりと浮かんでくる彼の苦悩、闇が垣間見える。そのことによってフランソワ=ピコリという登場人物は誰よりもこの作品に深い陰影を与えることになる。『友情』のある食事のシーンで、それまで感情を露わにしなかったフランソワが、突如として感情を爆発されるシーンが一度だけある。ソーテの映画の中では家族や友人同士で集まり、食事をしたり、語り合ったりするシーンが多く見られ、共同体を描く映画監督として語られることも多いのだが、同時にその場所との距離を感じざるを得ず、その場所からさまよい出ていく人たち、居心地の悪さ、生きづらさ、あるいは生きることの不可能性に苛まれた人たちの姿が見えてくることがある。ピコリ演じるフランソワは、まさに人々の集い、彷徨い、その間を往来しながら、いつかは絶対的な彷徨へと旅立つ人間の深いペシミズム、ソーテの映画の持つ秘密をこの作品で誰よりも担っているように見える。

    ソーテ、シュナイダー、ピコリによる最後の映画『マド』

     ソーテとピコリが最後にタッグを組んだ作品が『マド』(1976年)である。前作の『友情』同様、社会的にある程度の成功を収めている男が、突如として危機に直面する姿を描いている。しかし『友情』がそこに人間的救いを見出していたのに反して、ここでは金銭による腐敗、汚職、自殺、裏切り、そして殺人......、世界はさらに荒廃し、救いが見えなくなってきている。初期のソーテの犯罪映画を想起させるプロット、シーンもあるが、タイトルが示すように、本作はピコリ演じるシモンが恋に落ちる娼婦マド(オッタヴィア・ピッコロ)をめぐる映画でもある。若く美しい娼婦マドは金で買われていながら、シモンの欲望、軽蔑、そして嫉妬さえかわし続ける。そして娼婦として多くの男たちの間を往来するマドによって、シモンは窮状から抜け出す手立てさえ得ることになる。近づこうとしても近づけない絶対的他者である女性、ソーテの抱き続けた女性の神秘への憧れ、とまどい、欲望についての映画でもある。そしてまた本作は、ソーテ、ピコリ、そしてシュナイダーの最後の映画でもある。ピコリ演じるシモンの恋人エレン(そう、『すぎ去りし日の...』で彼女が演じた女性と同じ名前だ)を演じるシュナイダー。ふたりの関係について多くは語られないながら、愛し合っているはずなのに結ばれることのないふたりであること、それは哀しみが宿るシュナイダーのその表情、視線、所作、そのすべてが痛いほど示している。そのシュナイダーがピコリを自分の寝室に迎え、共に過ごす数分間には、決定的な言葉は何も変わされないながら、『マックスとリリー』のあのラストのカフェのシーンに匹敵するほど濃密なもの、人生の多くの時間、感情が流れ、見えてくる。

    *クロード・ソーテのその後のフィルモグラフィー、遺作となる『とまどい』(1995年)については、同作のブルーレイのリーフレットで紹介させて頂いているので、よろしければご覧になって頂きたい。
    http://cinemakadokawa.jp/dvd/youga/40/457.html

    Belle Noiseuse004.jpg5月12日、フランスの友人からミシェル・ピコリの訃報のメールを受け取った時、とっさに、自分でもすぐに理由が分からずも、涙がこみ上げ、とてつもない喪失感に包まれた。ピコリが、他界、信じられない......。それほどまでにピコリという存在が大切だったこと、その存在をごく当たり前のように感じていたことを、彼がこの世にもういないと知ったその日からひしひしと感じ始めた。ミシェル・ピコリという存在がいかに現代映画にとって重要であり、彼がいたからこそ映画作家たちが作れた映画、生まれた作品があることを確認、再確認するために、追悼特集を組まなければならないとすぐさま企画を提案した。
    追悼特集開催を目前にして、ジャン=マルク・ラランヌ、元「カイエ・デュ・シネマ」編集長であり、現在、フランスの人気カルチャー雑誌「レザンロキュプティーブル Les Inrockuptibles」代表、そして優れた映画批評家である彼による感動的な追悼文をここに訳出したい。これまで多くの監督、俳優たちの卓越した論考を発表してきたラランヌによるミシェル・ピコリ論、そしてラブレターをぜひお読み頂きたい。そして彼の作品をともに発見、再発見して頂ければ嬉しい。


    追悼 ミシェル・ピコリ
    ピコリという才能
    ジャン=マルク・ラランヌ
     彼は、一作、一作の撮影に俳優としてのすべての才能を注ぎ込んで、もっとも偉大な映画作家たちのフィルモグラフィーを横断してきた。今年5月12日に享年94歳でこの世を去ったミシェル・ピコリは70年以上もの間、他に類を見ない軌跡を歩んできた。

     (ジル・ジャコブとの書簡集の形で編纂された)ミシェル・ピコリの自伝(*)は以下の言葉で閉じている。「できれば私は死にたくない」。この自伝を締めくくる最後の頁で、90代となったピコリは、自分の能力が徐々に失われ、崩壊していくことを、「インクのない万年筆」になったようだと、胸が張り裂けるような言葉で語っている。そしてこみ上げた怒りによって「いったい私のインクはどこにあるのだ?」と言葉にならない叫びを上げ、そして敗北感とともに認める、「インクはもう尽きかけてきたのが見える」と。

     たとえば、保険会社の不信感によってマノエル・ド・オリヴェイラ監督の『家族の灯り』(2012年、マイケル・ロンスデール主演)への出演は阻まれてしまったにせよ、ミシェル・ピコリは決して立ち止まろうとはせず、映画を撮るため、舞台に立つために懸命に闘い続けた。飽くなき探求心が彼を生き生きとさせ、そのキャリアの最晩年まで、偉大な映画(『ホーリー・モーターズ』2012年、レオス・カラックス)、偉大な役(『ローマ法王の休日』2011年、ナンニ・モレッティ)でミシェル・ピコリは実際に輝きにあふれ続けていた。

    幼年期の記憶の不在、あるいはおおいなる退屈さ

     もしかしたら立ち止まることをしないというピコリのその熱狂的なる生き方は、遅れてきた者という感情から生まれたのかもしれない。彼のキャリアは80年という並外れた長さに亘っているが、それが実際に軌道に乗っていくにはかなりゆっくり時間を要することになる。しかもそれはキャリアにおいてだけではなかった。
     前述した自伝の中で、ピコリはこちらを戸惑わせるほどの無関心さで、自分の幼少期を語っている。おおいに退屈したという以外に幼少期の記憶がまったくないというのだ。ピコリの父親はヴァイオリニスト、母親はピアニストだった。二人は、夏のヴァカンスの間、カジノホールで演奏をして生計を立てていた。ピコリは、カジノの客たちが両親の演奏にほとんど興味を示していなかったのを記憶していた。いずれにせよ彼らも自分たちの職業に真にやる気を抱いていたわけではなく、夫婦仲についてもそれは同じだった。そして自分たちの息子に対しても......。ミシェルは、母親が大切にしていた第一子の死から数年後に生まれた息子だった。
     真に愛された(しかし他界した)子供には到底及ばない身代わりとしてこの世界に生まれ出た若きピコリは、自分をさほど価値のない存在と認識していた。両親が真に愛した存在は自分の誕生前にいた。自分が認識され、愛されるためには別の場所を探さなければならない、と。
     実際の行動には及ばずもレジスタンスのヒロイズムを夢見ながらくぐり抜けた戦争が終わろうとする頃、青年ピコリは自らの未来は演劇にあると見なし始めた。ピコリは演劇学校に登録し、映画のエキストラに志願する。やはりここでもピコリは俳優として認識され、名を上げるまでに、ある程度の時間、段階を経ることになる。まずエキストラから脇役を演じるようになり、ゴダールによって『軽蔑』で初の主演を任せられるには、40代になるのを待たなくてはなかった。そしてこの作品はピコリのキャリアのまさにターニングポイント、転機となったのだ。第二子であり、二番目の役(脇役)。ミシェル・ピコリは中心に身を置かずも、自分がいる場所からどのように輝きを放っていくかを心得ていった。

    つねに重要なる脇役を演じて

     年齢を重ねてからスターダムにのし上がってきた他の俳優とは違い、ピコリは脇役を演じるのをやめない、という選択をしてきた、その作品の出演者の中で彼が一番有名な存在だとしても。ルイス・ブニュエル(『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』『自由の幻想』)、マルコ・フェレーリ(『ひきしお』、『白人女に手を出すな』)などでは、ほとんどワンシーンのみで出演している。彼が出演した200本の映画のうち、その半分はそうした短い出演に留まっている。ピコリはどんな役、立場であれ、重要なのは、そこにいることであると信じていたのではないだろうか。そして一度、その監督との間に信頼関係が築かれれば、その創作が進むのに寄り添うために、いつでもその監督のもとに戻る準備があるのだと示しているかのようだ。たとえそれがささいな脇役であろうと(たとえば、『汚れた血』から25年後、レオス・カラックスの『ホーリー・モーターズ』で、短いながらも素晴らしい出演を果たしたように)。こうしてピコリがアーティストたちにみせたこの上ない柔軟さ、寛容さは、存在を誇示しようとする野心とはまったく異なり、創造、クリエーションへの彼の情熱を表しているだろう。俳優の中には、自分の演じた役に自己同一化する人がいる(時には、ほとんど偏狭的に)。また自分が出演した作品に自己同一する俳優たちもいるだろう(作品全体の中での自分の成功や、キャストの組み合わせの中でのバランスへの配慮からだろうか)。あるいは、その役や作品を超えて、様々な状況に応じて、映画監督やその作品、作家としてのアプローチに共感する人もいるだろう。しかしピコリの演技を見ていると、彼にとって大切なのは、ブニュエルやオリヴェイラ、ドゥミの作品全体のために仕事をし、様々な異なる段階においても、彼らの作品世界の中に住み続け、彼らの旅の道連れでいることなのだと感じられる。

    語り手、声、分身

     こうして彼らの創作活動、作品群と一体となり、長い間、共に歩んでいきたいとピコリが望んだからこそ、(ピコリをキャストしたほとんどすべての偉大な監督が彼を複数回、出演させている)、多くの映画監督が彼を自分の分身としたのではないだろうか。ピコリ自身も俳優として監督を模倣しようと力を注いできた。たとえばゴダールの作品では、その身ぶりはゴダール的となり、ソーテの作品ではソーテのようにタバコを吸い、叫び、オリヴェイラの作品ではオリヴェイラのように狡猾で、いたずら好きになるという風に......。
    ピコリが自ら選んだ役割には、俳優としてのおおいなる謙虚さ(つねに自分という一個人よりも大きいとみなされるものに役立とうとする)と、(一本のフィルムより壮大なもの、つまり映画(シネマ)のために努めたいという)おおいなる野心が感じられる。
     自分の地位をまったく気にすることなく、一本のフィルムのすべての役割(それが主役であろうと、脇役であろうと)に就くことを可能にする彼の俳優としての柔軟さがもっともはっきりと示されているのは、幾度となく、声のみの出演を引き受けていることだろう。たとえばアニエス・ヴァルダ(『キューバのみなさん、こんにちは』、1963年)、クロード・ソーテ(『夕なぎ』、1972年)、ルネ・アリオ(『Le Matelot 512』、1984年)、エリア・スレイマン(『D.I.』、2002年)、ベルトラン・マンディコ(『ホルモンの聖母様』、2015年)、その他多くの作品で、ピコリはナレーターを引き受け、声のみの出演をしている。このことは、彼の声のその温かく、深く、特別な響き、そして興味をかき立てられたプロジェクトであれば、どんな条件、形態であろうと、それに加わろうとする情熱を示している。そしてまた彼に与えられた多少なりとも特別な立場、つまり映画作家の分身であることによって、映画作家たちから、その声によって映画の語り手の役を託されることになったのではないか。

    空洞を持つ男、あるいは道化師

     俳優としてのピコリは、ふたつの異なる演技スタイルを持っていた(どちらか一方だけ、ということではなく、ふたつの間の幅広い、多様なニュアンスで演じていた)。一つ目は、彼の初期の偉大な役、そのキャリアを象徴することになる役に見られるかなり内に抑えた演技である。どこかいつも他のなにかを考えているような様子、抑制された表現が見られる。たとえば『軽蔑』、『すぎ去りし日の......』(1970年、クロード・ソーテ)『ロシュフォールの恋人たち』(1967年、ジャック・ドゥミ)、『別離』(1968年、アラン・カヴァリエ)でのピコリの演技などがそれに当てはまるだろう。彼の中のなにかが、捉えることができないままそこからかわされ、言葉に表されることを拒否しているかのようだ。抑制することがまず優先されている。そこでのピコリは、役者である以前に、まるで自分の人生、あるいは他者の人生の観客であるかのようなのだ。しかしながら、『小間使の日記』(1963年)の中でブニュエルはすでにピコリのより開放的な感性を見事に引き出していて、本作でピコリは過剰なほどのリビドーに突き動かされるように滑稽で、粗野で、あけっぴろげな男を演じている。こうしたピコリの持つ活力、精気は映画の中に少しずつ流れ出ていく。空洞を持つ男は、しだいに道化役者(ジャック・ルーフィオ、フランシス・ジロー、イヴ・ボワッセ、ラウル・ルイス)、あるいは無声映画のドイツ人俳優のような表現主義者(『都会のひと部屋』1982年、ジャック・ドゥミ)へとなっていく。歳を重ねるとともに、ピコリは、より大きな権力を持つ役を任されるようになっていく。たとえばルイ16世(『ヴァレンヌの夜』1982年、エットーレ・スコラ)や法王(『ローマ法王の休日』2011年、ナンニ・モレッティ)、さらには映画の化身(シモン・シネマ『百一夜』1995年、アニエス・ヴァルダ)を演じるようになる。

    数十本の素晴らしい名作たち

     しかし、ミシェル・ピコリは、権力を体現する際、その都度多くの嘲りをそこに吹き込み、パロディ的な次元を倍増させ、笑劇(ファルス)の力を開花させてみせる。それもしばしば外向的で、ほとんど攻撃的なまでのやり方で。そう、『ローマ法王の休日』にて、時につま先立ちで、ほとんど無言でこっそり逃げ出してみせたように。
     私たちはミシェル・ピコリへ非常に強い愛着を感じていた。なぜなら、まさにミシェル・ピコリその人とともに、この60年の間、観客としての私たちの中にフランス映画が生み出すことができたもっとも素晴らしい作品、数十本の崇高なる映画が堆積し、記録されてきたからだ。
     しかし、それはまたピコリが体現してきたもの、彼が醸し出し、放ってきたもの、世界における彼の存在のあり方そのもの、彼の口調、その太い眉毛、帽子を被る時の類い希なる優雅さ、数え切れないほど目にしてきたタバコの煙を吐くその仕草、そのすべてからだろう。私たちの中に生き続けるそうしたピコリの映像すべてを思い返し、胸が締め付けられ、そして『軽蔑』のオープニングシーンで彼がブリジット・バルドーに囁いた言葉がふと聞こえてくる。そして私たちは、突如、彼に向けてその言葉を呟きたくなるのだ、「あなたのことを愛している、そのすべてを、心から、悲しいまでに」と。

    参考文献:(*)『私は夢の中で生きた J'ai vécu dans mes rêves』ミシェル・ピコリ、ジル・ジャコブ共著(グラッセ出版社)


    「偉大なる俳優、ミシェル・ピコリ追悼特集」
    ・2020年8月6日(木)〜9月18日(金)@アンスティチュ・フランセ東京エスパス・イマージュ
    ・9月@シネマ・ジャック&ベティ(日程調整中)
    詳細は以下のページでご確認ください
    https://www.institutfrancais.jp/tokyo/agenda/cinema202009906/

    『スパイの妻』、あるいは不意に露呈する外側

    坂本安美
    6月25日(木)

     最後にこの場に日誌を記してからなんと2ヶ月以上がすでに過ぎてしまった。毎日のようにこの場に戻り、ぎこちなくても、間違っても、とにかく言葉を紡ぎ、聞こえてくる、見えてくるもの、この時間に体験し、考えていることを記録しなければと思いながらも、時間は矢のように過ぎていった。テレワークとやらで朝から晩までコンピューターを前に仕事をするほか、IVCから出るオリヴィエ・アサイヤスのブルーレイボックスの制作を手伝い(特典映像にどうしても付けてほしいと嘆願したアサイヤスとマチュー・アマルリックの対談にもがんばって字幕を付けました、ぜひ本編たちと共に見て頂きたい)、そして今月、劇場の再開とともに公開が始まったアンナ・カリーナのドキュメンタリーのパンフへの執筆、劇場休館によって苦難を強いられていた映画業界の人々へのほんの微力ながらの応援、国内、海外にいる親しい友人や家族たちとのやり取り、一日、一日はあっという間に過ぎていった。もちろんときに不安に苛まれ、発狂しそうになることもありながらも、そうして家の中に身を籠もり、日常を送ってこれたのは、外に出て働き続けていた人たちがいたからこそだ。ブレィディみかこの「欧州季評」(「朝日新聞朝刊」2020年6月11 日)で「ケア階級」という言葉を知った。人類学者デヴィッド・グレーバーが、医療、教育、介護、保育など、直接的に「他者をケアする」仕事をしている人々のことをそう語っているとのこと。「製造業が主だった昔とは異なり、今日の労働者階級の多くは、こうしたケア階級の人々であり、彼らがいなければ地域社会は回らない」と。そしてコロナ禍において「わたしたちは、わたしたちをほんとうにケアしてくれているのがどんな人々なのかに気がついた。ヒトとしてのわたしたちは壊れやすい生物学的な存在にすぎず、互いにケアしなければ死んでしまうということにも気がついた」。そうしたケアする仕事がなぜか経済とは別のもののように考えられ、本当に社会にとって必要な仕事ほど低賃金という倒錯した状況が生まれている、とブレィディみかこは述べる。ちなみにそのケア階級の仕事と対峙する概念として、グレーバーが唱えるのが「ブルシット・ジョブ(どうでもいい仕事)」、たとえばなくてもいい書類作成のため資料を集め、整理するために忙殺されているホワイトカラーの管理・事務部門の仕事......。

     「ヒトとしてのわたしたちは壊れやすい生物学的な存在にすぎない」。そしてその存在、生命としての身体は「"自然"、自分自身の所有物に見えて、けっして自らの制御下に置くことができないものだ」と生物学者の福岡伸一は語る(「福岡伸一の動的平衡」朝日新聞朝刊2020 年6月17日)。いつ生まれ、どこで病を得、どのように死ぬのか、選り好みなどできない。しかしふだん、都市の中で生きる私たちはそのことを忘れて、すべて制御でき、効率よく、予定通り生きていけると思い込んでいる。福岡は本来の自然ピュシスとそれを制御しようとして創り出された自然ロゴスつまり、言葉や論理の対立を語る。制御できないもの、たとえば「生と死、性、生殖、病、老い、狂気......」そうしたものを見て見ぬふり、あるいは隠蔽して、タブーとして押し込めてきた。そしてそうして押し込めてきた「ピュシスの顕れを、まさに今回不意打ちに近いかたちで我々の前の前に見せてくれたが、今回のウイルス禍ではなかったか」。

     生物学者である福岡の文章は、生物学という学問に疎い私にも、おおいに響くものがあると同時に、4月初めにスマートフォンの画面に現れて、私たちにユーモアを交え、穏やかながら、いつもながら力強く語ってくれたゴダールの言葉とも共鳴して聞こえてきた。「それが何なのか私だって分からない、ただ我々と同じ生きものではあることは確かであり、もしかして我々のことを好きなのかもしれないよ」 

     その文章を読んでから数日後、黒沢清監督の最新作『スパイの妻』を見る。
    私たちが生きている世界は様々な瞬間、行為、思考、感情によって構成され、動き、あるいは繰り返し、しかし確実に少しずつ変化し、姿を変えている。現在起こっていること、たとえば今、世界中を震撼させているウイルスの感染拡大もすべて、そうした流れ、大きなうねりの中のひとつであり、その変化や動きのしるしは遙かかなたの彼の地で見つけることもできるかもしれないし、実は目の前でふと見えてくることもある。それは人間が制御してもしきれなかったなにかとして貌を表す。黒沢清はそうした貌、見えないけれど見えるもののもとへと接近し、かつて確かに存在し、しかし今や過去になってしまった取り返しのつかないいくつかの事実の積み重ねであるところの「世界」を誰よりも果敢に描いてきた。そして『スパイの妻』で、黒沢清はそれをこれまで以上に大きなスケール感、迷うことのない姿勢で見せる。驚愕し、興奮しながら、帰宅して黒沢さんの著書を一冊手にとってみる。

    「どうも僕たちは今とりあえず安心して『ここ』にいるようだ。しかし、その外側は『暴力』に満ちていて、しかも向こうにある暴力の原因のかなり部分が、実はこちら側から送り込まれているのではないか。となると、この安心した内側の世界と、もうひとつの暴力的な外側の世界とは、いつか必ず、というかすでに『戦争状態』に入っていて、そのことに関する責任は、実は『ここ』にいるこの僕たちにも大いにあるではないでしょうか」(『黒沢清、21世紀の映画を語る』発行:boid)

     ちなみに私たちの目の前の「暴力」とはウイルスではない。「人もウイルスも制御できない自然」であり、それを制御するために生活という個人の領域に不用意に介入してくる公権力こそが「暴力」であるだろう。

     21世紀の映画の宿命を真っ向から引き受けた黒沢清のあらたな傑作については、次回、あらためて語らせてほしい。

    4月14日(火)
     京都、出町座にて開催中の「第2回映画批評月間」において、今回の目玉であり、特集のひとつであるのがセルジュ・ボゾンである。ボゾンの2013年の長編作品『ティップ・トップ ふたりは最高』は、とにかく主演女優のふたりイザベル・ユペールとサンドリン・キーベルランのかけ合いがタイトル同様に最高なのだが、それはたんに彼女たちの演技がうまい、台詞がよく書けているといったことだけではなく、まさに言葉や所作をかけ合っていくことによって、ふたりが混ざり合い、影響を与え合い、ときにその役割を交換し、コンビを作っているその様をライブで追っていくことができるからだ。そしてこのふたりの登場で、町の人々、本作に登場する誰もが、混ざり合っていく。「プロトコル」、「公平性」と暗号のように呟かれる言葉たち、それはまさにみんなが混ざり合い、全体が調和していけるような「公平」な場所でものを考え、言い合えるための暗号のようにさえ聞こえてくる。
     本特集の企画協力者であるオリヴィエ・ペールはセルジュ・ボゾンの作品をつねに擁護してきたひとりだが、彼が以下に訳出した紹介文の中でボゾン、そしてゴダールの作品を「大衆に見放され、だがそれでも大衆について語り続けようとしている映画」と述べるとき、ドゥルーズがかつて「現代的な政治映画があるとすれば、次のことを前提にするしかない。民衆はもはや存在しない。あるいはまだ存在しない...民衆が欠けている。」と書いた一文を想起しないわけにはいかない(『シネマ2*時間イメージ』)。
     未曾有の危機に直面している世界中の「人々」、私たちは分断ではなく、いかに調和、混ざり合っていくことができるのだろうか。そんな壮大な問いはしばし脇に置いて、まずはこの赤毛のふたりの風変わりな女性警官たちのやり取りに笑い、感動してほしい。
    『ティップ・トップ ふたりは最高』の上映はこれからも続けます。
    『ティップ・トップ ふたりは最高』セルジュ・ボゾン
    オリヴィエ・ペール
     ある地方都市で、ふたりの女性捜査官がアルジェリア出身の情報提供者、密告者の死について捜査を行っている。ボゾンは、かつてゴダールが用いた方法を応用してみせる。つまり犯罪小説を題材に用いながら、そこからまったく別のことを語るという方法である。それでは彼らは何を語っているのか?ゴダールとボゾン、いかにそれぞれの作風は異なっていようとも、彼らが語っていることを探そうとすれば、その答えは、ボゾンの前作、傑出したその長編のタイトルに見つけるべきだろう。そう『フランス』(2007)である。
     そして本作は、不釣り合いなふたりの女性警察官の物語でもある。彼女たちはそれぞれ、私生活での素行が理由で職務執行を干渉されることになる。片方は叩き(夫とのサド・マゾヒズムの関係を窮めている)、もう一方は覗くことが趣味なのだ。イザベル・ユペールとサンドリン・キーベルランによるコミカルなコンビは、これまで彼女たちも、いや誰も見せたことがない見事なかけ合いで、主演女優たちもそれを思いっきり楽しんでいるように見える。そしていかがわしい警官を演じるフランソワ・ダミアンは、その持ち前のクレイジーな魅力がうまく引き出され、才能溢れる俳優であることがあらためて証明されている。ひそかに展開していく不条理な笑い、陰謀と謎の香りを、乾いたタッチ、素早い表現、そしてフランス、いや世界の作家主義的映画が引き付けようとするものたち(あまりにもそのリストは長い)をあえて拒否しようとする態度。セルジュ・ボゾンの映画のレシピ(映画作法)を数行で述べてみるならこのような特徴を挙げられるだろうが、ボゾンの映画とは、とりわけ多くのことにノンと言い、それ以上のことを記憶しながら、別の、まったくもって独創的なものを創り出そうとしている。引用したり、参照したりすることはないものの、『ティップ・トップ ふたりは最高』は映画の歴史に対する反旗の記憶を担っており、ポンピドゥー・センターからの白紙委任状を与えられた際にセレクトしたお気に入りのフランスの監督たち、新機軸を求め続けた監督たちを継承するボゾンに相応しい作品となっている。したがって「フランス」というテーマ、ボゾンの愛する反自然主義的な映画作家たち(とりわけシャブロルやモッキー)、そしてこれみよがしに政治的であろうとすることがないながら、作品の隠れた主題である移民や統合の問題、これらすべての要素が本作を豊かなものにしている。そしてこの作品のもうひとつの核を語るならば、ある種の古典アメリカ映画からの影響を挙げることができるだろう。ハリウッド映画のいくつかのジャンルの特徴や、演出の優位といったものが、目立たないながらもあちらこちらに感じ取ることができる。『ティップ・トップ ふたり』は、『Deux Rouquines dans la bagarre(抗争の中のふたりの赤毛の女たち)』(1955年 アラン・ドワン監督の作品で、原題は『Slightly Scarlet』)というタイトルも当てはまるのではないだろうか。イザベル・ユペールとサンドリン・キーベルランの髪の色が赤毛に近いからだけではない。ボゾン作品の威風堂々としたところ、あるいはそのダンディズムは、擬似文化的オーラを脱ぎ捨て、映画の炎を燃やし続け、50年代のアメリカB級映画、あるいは70年代土曜の夜に放映されていたような映画の精神を持ち得ていると思うからだ。大衆的な作品の体裁を取りながらも、大衆に見放され、だがそれでも大衆について語り続けようとしている映画たち。大作、あるいは低予算の作品でも、人々について自問し、人々を映画の中に描こうとする作品たちがある。ボゾン、ゴダール、そして何人かの他の映画作家たちのようにいまもなお、絶えず。

    067042-000-a-tip-top-2008455-1491320374.jpg ティップ・トップ ふたりは最高 Tip Top
    フランス=ルクセンブルク/2013年/106分
    監督:セルジュ・ボゾン
    出演:イザベル・ユペール、サンドリン・キーベルラン、フランソワ・ダミアン、キャロル・ロシェ

    フランス北部でアルジェリア系の情報屋が殺された。その情報屋は、地域のドラッグの密売に関わっていたが、警察署内部を探るため、ふたりの女性監察官、エスターとサリが派遣された。ひとりは殴りこみをかけ、もうひとりは覗き見る...そう、ふたりは最高のコンビ!

    ◆「第2回 映画批評月間 ~フランス映画の現在をめぐって~ in 関西」@出町座にて上映
    4月13日(月)
     本日、京都の出町座にて日本初上映されたジャン=ピエール・モッキーの代表作の一本、『赤いトキ』。モッキーの作品は発見する度に、こんな映画、これまでに見たことがない!という驚きと共に、その作品に宿るアナーキーなまでの自由な精神、けっして感傷的なものに陥らずも人間へのおおらかな眼差しに心踊らされる。
     この作品をスクリーンで多くの方に見ていただける日が近いことを願い、ここに、オリヴィエ・ペールによる『赤いトキ』の作品紹介を訳出する。
    『赤いトキ』ジャン=ピエール・モッキー
    オリヴィエ・ペール
     70年半ば、フランスの制度、社会を激しく批判する、アナーキーで扇動的な作品を連続して撮っていたモッキーが、息を抜くようにして撮ったのが『赤いトキ』であり、不条理さと詩的な要素、ブラック・ユーモアをたっぷり散りばめ、犯罪映画の画一的なコードを覆してみせる。モッキーはアメリカの犯罪小説を題材として用いることが多く、ここでは「セリ・ノワール」(暗黒・犯罪小説叢書)の一冊として出版されたフレデリック・ブラウンの『3、1、2とノックせよ』を元に、風変わりで、怪物じみていながら、心惹かれる登場人物たちによる世界を描いている。
     モッキーはつねに俳優たちを愛してきたが、本作ではミシェル・セローとミシェル・ガラブリュが、これまでの道化的な役柄とは離れて、表現の幅を広げ、哀感をそそる人物を作り上げている。セローが演じるのは孤独で、引っ込み思案なサラリーマンであり、子供の頃の性的トラウマによって女性たちを襲う連続絞殺者。対するガラブリュが演じるのは元タンゴの踊り手で、美しい妻(エヴリーヌ・ビュイル)を今でも愛していながらも離婚を求められ、さらにポーカーの賭けで多額の借金を抱え、ギャングたちに追われている男である。そして本作がスクリーンでの最後の出演となったミシェル・シモンが演じる年老いた新聞売りジジは、口やかましく、虚言癖で、厭世的で、これまで彼が演じてきた役柄、『パニック』(1946、ジュリアン・デュヴィヴィエ)のイール氏、『素晴らしき放浪者』(1932、ジャン・ルノワール)のブデュ、『アタラント号』(1934、ジャン・ヴィゴ)のジュールおじさんといった記憶を呼び起こし、その存在はただただ私たちの心を揺さぶる。ジジの唯一の友だちはお洒落なスーツに身を包んだバナナ好きな黒人の少年である。この三人のミシェルのほかにも『赤いトキ』は、脇役からエキストラに至るまで、精彩に富んだ人物たちがたくさん登場し、モッキー秘訣のキャスティングの妙を見て取ることができる。風変わりな顔たち、遊び心あふれた小道具、おかしな服装、口癖、身体的ハンディキャップ......。この風変わりな人々たちのいかがわしい集団、界隈は、モッキーが演出によって、あらゆる社会階級が渾然一体となったフランスの鏡として見えてくる。
     本作は、ほとんどのシーンがサン・マルタン運河沿いや、その界隈で撮られており、戦前のフランス映画の古典作品の中で描かれている大衆的なパリを想起させる。おそらくそこには『おかしなドラマ』(1937、マルセル・カルネ)『北ホテル』(1938、マルセル・カルネ)、『アタラント号』(1934、ジャン・ヴィゴ)などが記憶として蘇ってくるだろう。
     詩的レアリスムの伝統を風変わり(ビザール)なセンスで味付けしたモッキーは、中央アジア出身の映画作家たちの作品、ロマン・ポランスキーの『テナント/恐怖を借りた男』(1976)やスタンリー・キューブリックの『時計じかけのオレンジ』(1971)などに見られるグロテスクでファンタスティックなユーモアのタッチもそこに付け加えている。『赤いトキ』の夢幻的な雰囲気、熱狂的なリズム、モッキー独特の演出方法、いつまでも頭に残るテーマ曲、常軌を逸した俳優たちの演技、こうしたモッキー映画の魅力が詰まった本作は、傑作『あほうどり(L'Albatros)』(1971)の映画作家が、フランス映画でもっとも我々を熱狂させてくれる一人であることを確認させてくれる。権力批判をし続け、茶目っ気あふれるモッキー、彼の創意に富んだ演出方法、映画への果てることなき情熱、彼の作品を活気づけてきた俳優たちへの愛情を我々はこれからも忘れることはないだろう。
    ibis-rouge-1975-01.jpg 赤いトキ L'Ibis rouge
    フランス/1975年/80分
    監督:ジャン=ピエール・モッキー
    出演:ミシェル・セロー、ミシェル・シモン、エヴリーヌ・ヴュイル

    孤独な会社員ジェレミーは赤いマフラーで次から次に女性たちを絞め殺してきた。同じ界隈に住み、賭博好きレーモンは、借金を返済するために愛する妻のエヴリーヌに宝石を売るよう頼む。そんなふたりが出会い、ある計画が立てられることに......。

    ◆「第2回 映画批評月間 ~フランス映画の現在をめぐって~ in 関西」@出町座にて上映

    「モッキーはささやかな人間喜劇の作家であり、その喜劇は年月が経つにつれ、奇跡へと姿を変えてきた。彼は自らを道徳家と見なすことはなく、寓話作家だと考えていた。暴力や憎悪、偽善と闘う自由な精神の持ち主だったモッキーは、笑いとともにそれらと闘い続けた。なぜなら敵を嘲笑することこそが最良の武器となり、観客たちに真の満足を与えると考えていたからだ。モッキーは風刺、寓話、幻想的あるいはシュールレアリスト的要素を用いて世界を語った。下品だと批判されることもあったが、彼の作品はその逆に、ある種の純粋さ、無垢さを説いてきた。 永遠の反逆者モッキーは、彼の映画の登場人物たちのように、実在する問題に対して常軌を逸しているばかげた、あるいは詩的な解決策を見出し、人生を変えようとしてきた。 モッキーは、自分の作品のもっとも忠実なる観客は子供たち、そして移民労働者たちだと述べていた。モッキーは最良の意味で大衆的な映画作家だったのだ。」

    オリヴィエ・ペール(アルテ・フランス・シネマ ディレクター)

    4月12日(日)

     オリヴィエ・ペールは2020年3月13日にアンスティチュ・フランセ東京にて行ったジャン=ピエール・モッキーについての講演の最後を、上記の言葉で締めくくった。「第2回映画批評月間」で、昨年のギィ・ジルに続き、フランス映画の知られざる作家、名作を特集する枠で誰を特集したいか、と同氏に尋ねたところ、すぐに名前が挙がったのがモッキーだった。その後、素材や権利の問題が生じたにもかかわらず、モッキー特集を実現させるために協力し続けてくれたペール氏の同講演の原文は「日本におけるジャン=ピエール・モッキー」と題され、以下のブログにて公表されている。

    https://www.arte.tv/sites/olivierpere/2020/03/18/jean-pierre-mocky-au-japon/

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     東京、横浜では「第2回映画批評月間」が現在、中止・延期となってしまったが、京都の出町座では、モッキー、そして彼をこよなく敬愛するセルジュ・ボゾン、両監督の特集が現在開催されている。そこで4月12日、本日上映される『言い知れぬ恐怖の町』についてのペール氏による作品紹介を以下に訳出させてもらった。ペール氏のモッキーと本作への熱い想いを通して、本作の魅力を感じていただき、モッキー作品が上映される日が近いことをお待ちいただきたい。


    『言い知れぬ恐怖の町』ジャン=ピエール・モッキー
    オリヴィエ・ペール

     『言い知れぬ恐怖の町』はジャン=ピエール・モッキーの最良の一本である。ブールヴィル演じるシモン・トリケ警部は、逃亡した偽札偽造者の捜索に乗り出す。逃亡者を追っていくうちに、トリケ警部はオーヴェルニュ地方の想像上の村、バルジュにたどり着き、風変わりなふるまいの住民たちに出会う。そして中世の時代に首を斬られたと言われている「バルジャスク」と呼ばれる獣の存在が村の者たちのもとに恐怖の種をまいていた。

     ジャン=ピエール・モッキーは本作で、ベルギーの作家、ジャン・レーの幻想的な世界を自由に脚色しているが、そこには大いなる幸福感と原作に対する繊細な配慮が十分に感じられる。主役のトリケ警部を演じるブールヴィルを取りまくのは、モッキー作品の常連俳優たち(ジャン・ポワレ、フランシス・ブランシュとその風変わりな子分たち)、そしてフランス映画のかつての名俳優たち(ジャン=ルイ・バロー、ヴィクトル・フランセン、レイモン・ルーロー)がとりわけ奇抜でエキセントリックな役を演じている。バーレスク的かつシュールレアリスト的調子をともなって幻想映画のジャンルに闖入してきたこの驚くべき作品は、公開当時、あまりにも突飛とされ、理解されることがなく、観客の入りもよくなかったため、配給会社からは再編集を求められ、より観客受けするようにと、タイトルも『大いなる恐怖』に変更されてしまった。しかし今回は喜ばしいことにモッキー自身によって監修された真の「ディレクター・カット」修復版、つまり完全版で特別にご紹介させていただく。主役を演じるブールヴィルの魅力的な演技(モッキー作品のブールヴィルはつねに素晴らしい)、そして偉大な作家レーモン・クノーによるユーモアと言葉への愛が詰まっている台詞(契約上の問題でクレジットされていないのだが)が大いに貢献している、滑稽かつ感動的な本作、そのゾクゾクさせる不気味さと、突拍子もなさをたっぷり味わって頂ける貴重な機会となるだろう。

     モッキーにブールヴィル、クノー、ジャン・レー、そして心ゆくまで楽しんで演じている傑出した俳優たち、そして忘れてはならないのが、映画史上もっとも偉大な撮影監督のひとりオイゲン・シュフタン。このように素晴らしい才能が結集し、モッキーのフィルモグラフィーの中でも他に類がない成功作品となった『言い知れぬ恐怖の町』は、60年代以降、あまり試みられることがなくなってしまったフランス映画の貴重な水脈、「詩的幻想作品」の中に位置づけられるだろう。

    著者原文:https://www.arte.tv/sites/olivierpere/2013/08/19/la-cite-de-lindicible-peur/
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    言い知れぬ恐怖の町
    フランス/1964年/92分/モノクロ/デジタル
    監督:ジャン=ピエール・モッキー
    出演:ブールヴィル、フランシス・ブランシュ、ジャン・ポワレ、ヴェロニク・ノルデー ほか

    逃亡した偽札偽造者の捜索に乗り出したシモン・トリケ警部は、オーヴェルニュ地方の想像の村、バルジュにたどり着くのだが、そこには摩訶不思議な住民たち、出来事があふれていた......。ベルギーの幻想小説家ジャン・レーの原作を自由に、幸福感と繊細さとともにモッキーが映画化。モッキー作品にかかせない俳優のひとり、ブールヴィルが風変わりな警部役を魅力一杯に演じている。