2005年6月19日

コンペティション部門 『Three Burials of Melquiades Estrada』
トミー・リー・ジョーンズ

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脚本賞(『21グラム』の脚本家でもあるギジェルモ・アリアガ)および主演男優賞を獲得した、トミー・リー・ジョーンズ初監督/主演作品。誰もが今年の「おまけ作品」として考えていたようだが、しかし、トミー・リーはきちんと仕事をやってのけた。合衆国に逆らう無法者が、なんのかんの、いまでも必要なのだと、このB級映画に長らく生きた遅咲き俳優はきちんと宣言する。
メキシコ国境に面するテキサスの町。国境警備員によりに誤って射殺された不法メキシコ移民。それをもみ消し闇に葬ろうとする国境警備隊と地元警察に逆らうのがTLJ(メキシコ人が働く牧場の主であり、父的存在)。彼の名誉を回復し、その願い(「死んだら生まれた場所に埋葬されたい」)を叶えるため、犯人の警備員を連れ、死体とともにメキシコへ不法越境の旅に出る。
政治ものを思わせる前半から後半のロードムービーへ。前半の説話の複雑さから後半での太い直線へ。どこか70年代を想起させるフィルムだ(チミノの『心の指紋』を思い出してもいい)。俳優としてのTLJを考えれば当然と言えようか。
だがこのフィルムが証すのは、俳優としてはもちろんのこと、監督としての彼の、その素晴らしさだ。下手をすれば観念的な旅となりかねない後半を(「贖罪」云々)、彼は法に捧げるのでもなく、神に捧げるのでもなく、もっとも原初的な感覚である「匂い」に託す。死体の腐敗が放つ悪臭、だ。罪を犯した者に罪を確認させるだけではない。自らの悪臭と区別が付かなくなるその地点で、彼はもっと大きな何かを掴むはずだ。
あるいは、その悪臭はまた、法のそれであり、生まれた場所=HOMEのそれであり、西部劇というジャンルのそれであろう。いまや死体となった風景は(リオ・グランデやビッグベンドetc.)、その悪臭が彼らに吸い込まれ、吐き出されることで、新たなエモーションを獲得する。
すべては悪酔いかもしれぬが、しかしそれでもよし。TLJはきちんと仕事をやってのけた。

松井 宏

投稿者 nobodymag : 10:01

2005年6月12日

コンペティション部門 『Don't come knocking』ヴィム・ヴェンダース

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とにかく酷い言われようだったヴェンダースの新作。「リベラシオン」紙ではフィリップ・アズーリが「もがれた翼」と題し、もうけちょんけちょんである。「アンロック」誌では5人の批評家が星取りを行っていたのだが、そもそもそのうちのひとりしか本作を見ていない(もちろん星ひとつ)。まったく恐ろしい。
物語は『Broken Flowers』と同じ、あるいは『パリ、テキサス』の変奏。かつてはスターでドンファン、いまは落ち目のB級西部劇俳優(サム・シェパード)が撮影現場から逃走し、数十年会っていない母を訪れ、不意に息子の存在を知ってしまい、そして、息子と、その母でありかつて自身が愛した女性(ジェシカ・ラング)の元を訪れる……。
ヴェンダースが腐心するのはそこから。廃墟の街で3人が出会ってから、である(この点ジャームッシュとは異なる)。だからそこでは必然的に多くのクリシェと自己引用が施されるわけで、それに対し「クリシェの数珠つなぎ」とか「困ったときの自己引用」などという評を与えてもしょうがない。そんなこと百も承知で行っているのだと、そう考えた方がよい。
『Don't come knocking』は、陽気に遊んでいるわけでもないし、ヒロイックな絶望に浸ってもいない。ただ我々の風景を冷静に示すだけだ。それは、もうひとつ別に形成される家族の姿に現れる。もう、省略して言えば、骨壺とインターネット映像が出会う場所、である。
母の骨壺(文字通り映像の果てた地点)。ネット上に溢れる父の若かりし画像(クリシェな映像の飽和地点)。そしてその出会いを演出する娘サラ・ポリー。帰るべき家族=映像のHOMEがないのなら、それならそれで行くしかない、と、ヴェンダースはやっとそう言っているはずだ。
というわけで、いい加減ヴェンダースで憂さ晴らしをするのは止めにしよう。ヴェンダースに「帰還」など期待してもしょうがない。なぜなら、人一倍もがれた翼で飛行し、彼はずっと我々を見つづけている。

松井 宏

投稿者 nobodymag : 09:59

2005年6月 8日

ある視点部門 『Down in the valley』デヴィッド・ジェイコブソン

「公式コンペ」で2本(ヴェンダース『Don't come knocking』、トミー・リー・ジョーンズ『The three burials of melquiades estrada』)、そして「ある視点部門」で1本(デヴィッド・ジェイコブソン『Down in the valley』)。明らさまに西部劇の記号を見せるフィルムが3本、今年のカンヌでは見られた。
もちろんすべての舞台は現代なのだが、なぜまたこんな事態になったのか。大したことないと言えばそうだが、大したことのような気もするし……。と、とりあえずいちばんの驚きだったのが、これが長編第2作目のアメリカの若手デヴィッド.・ジェイコブソン。これが良いのだ。
小さな街にやってきた時代遅れのカウボーイ=ストレンジャーと、堅物の警察官を親父に持ついまどきの女の子との恋物語。少々ファンタジックで手垢の付いた設定だが、とはいえこのフィルム、別にジャンルの郷愁でもなく、記号の露出ショウでもない。
あらゆるジャンルがそうなのだが、しかし西部劇は他にどれにもまして神話的である。ペキンパーはかつてこう語ったと記憶する——ウェスタンは普遍的な枠組みであり、そこで今日の世界への注釈が可能なのだと。それを、西部劇がアメリカの夢と悪夢の両方としてつねにあったと、そう言い換えもできるだろう。そのうえで『Down in the valley』が示すのは、現在において西部劇が悪夢としてしか機能しない、ということだ。
夢の断片を拾い集め、組み合わせたとき、それが途端に悪夢の姿をとる。それが現在の西部劇であり世界であると、一発の銃声を放ったガンマン=エドワード・ノートンはそのことに気付き唖然とする。その呆然顔はマイケル・ムーアのどのフィルムよりも鋭利だし、なんならそれこそが、ツインタワー崩壊を眺めた我々の顔だったと言ってもいい。この悪夢もまた我々の現実なのだ。『Down in the valley』に足りないのは、そこで生き続けねばならない者の姿なのだが、しかしその点はクローネンバーグ『A History of Violence』(公式コンペ)がきちんと補ってくれる。それで良し。
まあそれはいいとしても。こんなフィルムを若い人が撮ることにまず驚く。的確さと適当さのバランスといい、キャスティングといい(少女役にエヴァン・レイチェル・ウッド。親父役にデビッド・モース!)なかなか興奮させる。このまま数十年いってジェームズ・フォーリーあたりになってくれと願うばかり。

松井 宏

投稿者 nobodymag : 21:50

2005年6月 6日

コンペティション部門 『Broken Flowers』ジム・ジャームッシュ

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ご存知今年のグランプリ。だいたい開催前からプレス間でも期待度ナンバーワンで(現地にいるとひしひし感じた)、映画祭としてもこの「カンヌの子供」を迎える準備は万端、といった感じ。こいつだけはアメリカに奪われねえぞ、といったところか。
物語は、強引に要約すれば、息子探し(あるいは家族探し)の旅。ビル・マーレイ演じる中年男(かつてはそのドン・ジュアンぶりを鳴らしていた)の元に1通の手紙がやってくる。差出人は不明ながら、どうやらかつて一時期を共にした女性らしく、そこには、男が知らなかった〈息子〉の存在が記されてある。そして始まる、息子と母親を探し出す旅。候補に挙がった5人の過去の女性を、それぞれビル・マーレイが訪れてゆく。
さて『デッドマン』『ゴーストドッグ』で思考された問題。それは「ジャンルの死」以後、それをどのように再生するか、という点にあった。そして『Broken Flowers』においてJ.Jは、初めて「家族」の問題に取り組む。この道程が思い出させるのは、たとえば黒沢清の『キュア』から『ニンゲン合格』へ至るそれだろう。あるいは青山真治の『ユリイカ』以後かもしれないし、カラックスかもしれない。あるいはそこにウェス・アンダーソンを加えてもよいだろう……。が、とにもかくにも「家族」という主題は「ジャンルの死」以後と、その再生を生きる90年代後半からの映画において(あるいはアメリカ映画との関係において)必ず現れ出るものなのだ。ここで言えるのは、彼らがみな、ジャンルの問題を形式の問題としてだけでなく、自らの家系の問題として思考していたということだろう。
とはいえJ.Jはつねに「家族」に取り憑かれていたのではないか。『コーヒー&シガレッツ』を見れば明瞭だ。映画の家族とは別種の、それを再生する手段としての、彼独自のカルチャーに根ざした家族(悪く言えばお友達)。J.Jのフィルムを形成してきたのは、こうした異なる位相の「家族」であり、その間での振幅であったはずだ。
そのうえで『Broken Flowers』が取り組むのは、語の意味での真の、血縁によって繋がる「家族」である。もちろんそれは「家族の解体」以後の「家族」である。つまり断片となった家族——ジャンルのそれから血縁のそれ——をどのように再生するか、あるいは、その組成をどのように組み替えるか。それが、期せずして父となったマーレイ=ジャームッシュの賭けとなる。
もちろんその旅にカタストロフは訪れない。近さと遠さが混じり合い、そこを支配するのは永遠に続くかのような弛緩したサスペンスだ。これまでのJ.Jに見られたショットの力とリズムは失速し(今回の撮影はJ.Jのこれまでを支えてきたロビ−・ミュラーではない)、変わってあるのは、ぼんやりしながらどこまでも醒めた映像ばかり。
だが『Broken Flowers』は「失敗作」でも「可愛い小品」でもない。なぜならこの不確かな千鳥足は、ジャンルの支えを欠いて「家族」に取り組む、現在の映画の足取りでもあるからだ。差出人不明の手紙は、再生の直中にある「家族」からの手紙であり、また現在のアメリカ映画からの手紙でもある。最後まで差出人は不明だろうが、J.Jはきちんとその手紙を受け取ったと言える。
まあそんなことお構いなしに、多くの評は『Broken Flowers』に「肩透かし」を呟く。そしてカンヌはカンヌで、我が子の帰還祝いにグランプリを与える。で、そんな甘ったるい目配せとは別の場所で『Broken Flowers』は、正しく慎ましく、アメリカ映画に向き合っていた、そういうことだろう。

松井 宏

投稿者 nobodymag : 12:24

2005年6月 3日

監督週間部門 『埋もれ木』小栗康平
批評家週間部門 『Me and you and everyone we know』ミランダ・ジュリ

批評家週間とカメラドールでグランプリを獲得した『Me and you and everyone we know』。監督は弱冠27歳のアメリカの若手ミランダ・ジュリ。ちなみに今年のカメラドール審査員長はキアロスタミだった。
元々マルチメディア・アーティストだという彼女らしく(すでにMOMA等で作品を発表しているとのこと)、主人公はアーティストを目指す、女の子と呼ぶには少々歳のいった女性(ジュリ本人が演じる)。アメリカの郊外ニュータウンで、彼女を中心に、コミュニケーションに問題を抱えたさまざまな〈loser〉たちが登場し、やがてそれぞれの小さな和解が描かれてゆく。
こうした設定は、たとえば「サンダンス映画祭出品作品」というレーベルの、90年代アメリカ映画で何度も反復されてきた(事実本作はサンダンスグランプリ作品でもある)。そうした作品群を大きく二分するのが、枠(たとえば青春やら共同体やら、あるいはジャンルやら)への意識があるかないかだ。『Me and you』には、その枠への思考がまったく欠ける。仮に彼女が、枠の消えた「以後」を生きるのだとしても、その「以後」に対する思考もここにはない。日本的「不思議ちゃん」に近い〈loser〉たちの集う街は、輪郭を曖昧にしながら不可思議な力を持つ天使の街へ姿を変える。
MeとYouとEveryoneと、あらゆる人間が似通いながら、優しげな集団を形成する。デマゴジックな「終わりなき日常」のユートピア。こうした傾向は、日本の「鉄道も通らぬ村」が舞台となる、小栗康平『埋もれ木』にも確実に現れる。2作の共通点。それはまず、ともに、時間の流れが停止した狭い空間が舞台という点。そして主人公がともに創作者であるという点(『埋もれ木』の中心軸は、少女3人の語る空想の物語が実現されるという点にある)。
奇妙なことに、こうした共通点は『Eli, Eli』(青山真治)と『Les invisible』(ティエリー・ジュス)においても共通点として現れる。だが2対のフィルム(『埋もれ木』『Me and you』と『Eli, Eli』『Les invisibles』)を隔てるのは、前者では創作者の創作プロセスがブラックボックスになっているのに対し(『埋もれ木』における神秘的な村と森、『Me and you』における天使的な街)、後者ではそのプロセスこそがひたすら描かれる、という点。
「川の終わりの地点で、水は止まり、漂うの」……ナンシー・シナトラが「The End」と歌うその地点で、前者のふたりは永遠の水遊びに耽り、後者のふたりは新たな創作を始めるのだと、そう言えるだろう。

松井 宏

投稿者 nobodymag : 09:42

2005年5月31日

コンペティション部門 『Where the truth lies』アトム・エゴヤン

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誰もが言うように、今年のカンヌコンペの副題は「作家の祭典」「作家の会合」あるいは「作家のサヴァイヴァル」。すでにパルムドールやグランプリを穫った新旧スター作家たち(40〜50年代生まれ)。いま、ある者はリサイクル期(安定期)に、またある者は衰退期に入っている。賞とは別の場所で、彼らはみなサヴァイヴァルのふるいに掛けられたわけだ。
そのなかでもいちばん若いアトム・エゴヤン(60年生れ)。実験映画の分野から出発し、97年に『スウィート・ヒア・アフタ』で審査員特別グランプリを獲得したアルメニア出身カナダ監督だが、前作『アララトの聖母』では自らのオリジン探求を主題とすることとなる。ただ、その探求に付きまとうナイーヴさが人々を辟易させたのも確か。
こういうとき人は(ハリウッド外の映画監督は、と言い換えてもよい)どうするのか。一方でオリジン探求を続ける手(今年の審査員長クストリッツァ、あるいはギタイあたりか)があり、真逆の極として「アメリカ映画」への参入という手があるだろう。自らの作家性を担保にマシーンのなかへ身を投じるのだ。
エゴヤンが選択したのは後者。お得意の説話的複雑さとサスペンスで、50〜70年代のショウビズ界スターコンビ(ケヴィン・ベーコン&コリン・ファース)の表と裏を語る『Where the truth lies』。惜しいのは、裏音楽産業ものや裏ハリウッドと違い産業システムの変革を蔑ろにしてしまっている点だが、エルヴィスとケネディのような主人公コンビといい、いまに繋がるアメリカを語るには良質なフィルム。『マン・オン・ザ・ムーン』の緻密さとエモーションに比べるのは酷だが、「アメリカ映画」へのイニシエーションとしては、これはなかなか良いのではないか。
もちろんそんな選択にみなは冷たい。多くの酷評が目に付き、エゴヤンはサヴァイヴァルレースの脱落者扱い。ちなみにこのふるいから〈またしても〉落とされたもうひとりがヴェンダースなのだが……まあとにもかくにも。エゴヤンに関しては、やっとここから面白くなるんじゃないかと、個人的には思うのだった。

松井 宏

投稿者 nobodymag : 10:36

2005年5月29日

監督週間部門 『Be with me』エリック・クー

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監督週間オープニング作品。シンガポールの監督エリック・クーは8年前すでにカンヌで発見されており、久々の国際舞台復帰だという。またタイトルはビーチボーイズ『20/20』に収録された同名の曲(デニス作曲)が由来とのこと。
物語は3つの軸で構成される。美人キャリアウーマンに憧れるしがない警備員。女子中学生の同性愛と破局。そしてテレサ・チャンという、二重障害を持つ老婆の実人生。
3つの軸にはまず共通点がある。ほとんど台詞がないこと。警備員は孤独なダメ男の典型でつねに無口なため、女の子はそのコミュニケーション手段がつねに携帯メールなため、老婆はもちろん基本的に言葉を奪われているため。この「言葉のなさ」は、それぞれに、異なるコミュニケーション手段を与える。手紙(警備員)、メール(女の子)、そして身体への接触(老婆)。
もうひとつの共通点は、すべてが「恋愛」とその挫折を語っていること。ここでエリック・クーの選択は正しい。つまり3つのコミュニケーションのモードは、いかにアナログだろうとディジタルだろうと、決して恋愛の成功を導きはしない。もちろん負け犬同士の、たとえば警備員と少女との、逃避的恋愛もクーは斥ける。では恋愛とは誰にも訪れぬ不可能性なのだろうか?
そこでクーは別種の出会いを演出する。ドキュメンタリーとフィクションとの出会いだ。テレサ・チャンの実人生に、彼女の伝記を編纂するひとりの弁護士が接ぎ木される。その接ぎ木により彼の父(妻に先立たれ絶望に沈んでいる)と老婆との出会い、そして恋愛が演出される。ひとつの現実から作品を演出する弁護士(伝記の編纂)は、同時に恋愛の演出家でもあり、その姿はひとりのシネアストのそれでもあるのだ。
ただ以上のことはこの場合「演出」のレッスンの先行をも意味してしまう。ショットの力や色の処理、スタイルの器用な使い分け、あるいは全編を覆う「孤独さ」など、ここ10年ほどのアジア映画評価のおさらい的感も、それに通ずるだろう。ではここに欠けるのは何か? 現実やファンタスムの断片を再構築するロマネスクな意志、である。
その意志と力を持つのが、たとえば『SMILE』を完成させたブライアン・ウィルソンであり、また今年のカンヌでの『Odete』(ジョアン・ペドロ・ロドリゲス)や『Les invisibles』(ティエリー・ジュス)であろう。今後エリック・クーはそこに辿り付けるだろうか。

松井 宏

投稿者 nobodymag : 23:34

コンペディション部門 『Lemming』ドミニク・モル

今年のカンヌ映画祭コンペ部門のオープニング作品。〈レミング〉とは北欧に生息するネズミ科の小動物の名だ。その繁殖力の強さにより鼠算的に増える種の数を集団自殺で調節する、そんな特異な習性を持つ。本作は、ひょんなことからレミングを発見する〈幸福な〉若夫婦(ロラン・リュカ&シャルロット・ゲンズブール)がたどる奇妙な経験を、上司でもある〈危機の〉熟年カップル(アンドレ・デュソリエ&シャルロット・ランプリング)の介入とともにサスペンス仕立てで描いてゆく。物語はロラン・リュカ演じるハイテク企業の技師(タケコプター紛いの空飛ぶ監視カメラを作っている)の視点から語られる。さまざまな事件(上司の妻の誘惑、自殺、自らの妻の不倫、交通事故、上司の死……)が現実とファンタスムの境で繰り広げられ、彼自身の錯乱がフィルムのそれと軌を一にすることとなる。
日常から生じさせられる不気味さ。それは見事に持続させられ、現実とファンタスムの境は最後まで曖昧なままだ。その不気味さがレミングに賭けられているというか。ここでのレミングは、一見して、物語とは関係のないヒッチコック的マクガフィンの意味のなさ=不気味さなのだが、一方でドミニク・モルはそこに象徴的な意味をも与える。つまりここでのサスペンスは、犯罪を巡るのではなく(たとえば上司の死がリュカによる他殺なのか、自殺なのか云々)、レミングという存在に、物語上のその機能にこそ、賭けられているのだ。
とはいえ夢落ち的ラストといい、結局はクラシシズムに寄り添うフィルムだと言えなくもない。デビッド・リンチへの道はほど遠く、あるいはアラン・レネ『アメリカの伯父さん』のネズミ実験場からもほど遠い。あるいは、異なる形でレミングを扱う青山真治『Eli, Eli, Lema Sabachthani?』(「ある視点部門」出品)の対蹠的存在だと、そうも言えるだろう。フランスの若手監督には珍しく「アメリカ映画」を見据える演出や細部を持つドミニク・モルだが、今回もまた前作同様(『ハリー、見知らぬ友人』)、良質なフィルムの粋をはみ出すことがなかった。

松井 宏

投稿者 nobodymag : 00:05

2005年5月15日

コンペディション部門 『Last Days』ガス・ヴァン・サント

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カート・コバーンをモデルとした主人公、マイケル・ピットが演じる彼はブレイクと名づけられているが、他の登場人物はみな役者の名前、ファーストネームがそのまま劇中で使われている。当時のバンドメンバーや友人たちの名前をそのまま劇中に用いることは可能だろうが、ガス・ヴァン・サントはこのようにしてあっさりとこの映画が、現在、製作されたこと、つまり当時の再現ではなく過去と現在が明確に違うということを宣言し、語り始める。役者はみな、現在、当時の彼らと、同年代の役者が選ばれている。これがひとつ目の「ずれ」。
マイケル・ピットだけ役名がつけられているのは、彼が劇中でおかれる立場を示している。過去に現在を導入するこの映画の主人公が現在、すでに死んでいることはこの映画を観る者ならばみなすでに知っている。劇中で麻薬更正施設からの脱走者で森の中で友人と自閉的な生活を送っている彼は、つまり生(麻薬からの更正)と死(ひどい中毒症状を捨て置くこと)との間に立っている。若さを謳歌する友人たちにつねに混ざろうとせず、ほとんど意味のある言葉を発することもできないブレイクは登場人物中ひとりだけ決定的に老いて見えるのはこのためだ。ふたつ目の「ずれ」。
3つ目は撮影である。カメラのフォーカスは常に1点に絞られ、画面上の人物が移動しようと徹底して無関心である。このフォーカスの「ずれ」はガスの好む柔らかい光の中で端的に美しい。そしてその美しさが提出するのは当然「カメラ」の存在、これは劇映画であるというアナウンスであろう。
4つ目の「ずれ」は『エレファント』に顕著にみられた彼の話法である。ひとつの現象が違った話者の視点から、なんのサスペンスを明かすでもなく繰り返される。観客は時系列の整理のために推理するのではなく、一度の時間の流れでは語られなかったこと、語りきれなかったことに耳を、目を澄ますことになる。パラレルにわずかにきしみながら横滑りを続けるひとつの事象。関係ないが、カート・コバーンのために「How long, how long will I slide?」と歌ったアンソニー・キーディスを思い出した。
5つ目。マイケル・ピットの演奏、シャウトをサーストン・ムーアが文字通り「ずらして」ループを組み、劇中ではブレイクひとりだけでその音楽を創造する。つまりこの音楽はブレイクの頭の中と、映画を観る者だけが体験できる。どこでループを組んだのか聞き逃してしまうほどにこの演奏のシークエンスは滑らかで、その滑らかさがかえってそのわずかな「ずれ」の存在を浮かび上がらせる。
いくつもの「ずれ」。ひとつひとつがかすかに立てるきしみの音は、徐々に、徐々に大きく共振して「大きな」音、音楽となり、その音楽は死の直前、ブレイクの手によってなる。その瞬間、彼は「ずれ」から起こる軋みのたてるかすかな音を拾いその振動を増幅させる共鳴体、純粋に音楽装置となっているように見える。
ラスト。彼はまさに「抜け殻」となるのだが、天上へ窓枠に足をかけて上っていくもうひとりの彼をわれわれは目撃する。彼は誰だったか。唐突だが、私はソングライターとしてのカートではなかったかと思ってしまう。ヴァセリンズを誰より尊敬していた彼。かつて彼のパフォーマンスにはやはり心奪われたが、好きな「歌」もたくさんあったことを思い出した。
鈴木淳哉

投稿者 nobodymag : 12:48

コンペディション部門 『Kilometre Zero』ハイナー・サラーム

主人公のクルド人アコは望まず参加したフセイン・イラク陸軍の兵隊として最前線に配属される。戦死者を郷土に帰す任務を帯び、戦地から離れるが、その間ドライバーや検問のイラク軍上官とのやり取りのうち、被差別民族としてのクルド人の立場を知る。映画は戦地からの移動のシーンでロードムービーの様相を帯び始め、その間次第に寓話化が加速する。節々で軽妙な笑いが差し挟まれ、そこで扱われるギャグは、この監督の語り手としてのスタンス(笑ってしまうもの・笑うべきもの・笑うしかないもの)が見て取れ、共感できる部分も多かった。その中でひとつ、牛が絶好のタイミングでくそをするシーンがある。ひとつの映画を製作するのならば、撮影中に不測の事態をフィルムに定着する(してしまう)ことは、確かに起こりうるだろう。ギャグとしてはもちろん採用であるが、問題はそのシーンを採用することが映画全体に及ぼす影響である。
イラン・イラク戦争を題材に、戦争を寓話として語るのがこの映画の勘所であるが、物語の寓話化と、撮影中に起こる不測の事態を編集に残す/削る決断は無関係ではありえない。寓話として物語を語る態度とは、映画の詳細描写から「リアリティ」を排除し、現実世界とは切れた場所、「映画」の中で、ある種の題材、この映画の場合は「戦争」のエレメントをより高純度で抽出する作業と言える。フィルムに不測の事態を定着し、そこから新たな撮影の着想を得ることはあるだろうし、そうした事態を歓迎すべき映画ももちろんあるが、この映画で持ち込まれるそれは、違ったレベルではあるがこの映画が「現実」と地続きであることを、ひいてはこれはひとりの人間が監督した「映画」であることを観客に意識させる方向に働き、寓話としての強度がぐらついてしまっているように思う。
そのぐらつきのせいか、冒頭の最前線のシーンでたびたび見られる砂漠で主人公と戦友の3人が話すシーン——砂塵がレフ版の役目を果たすのか、逆光(カメラは常に「西側」の方向を向いている)で撮られる夕景は不思議とシャドウ部が明るく、美しいコントラストをみせる——を繰り返されると、その前に見た、3人があまりに無邪気にヨーロッパを礼賛するシーンを私はくつくつと笑ってしまったのだが、その無邪気さがどこまで演出されたものなのか、どこまでイラクの「現実」をひきずっているのか、判断がつかなくなってしまった。
鈴木淳哉

投稿者 nobodymag : 12:45