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2005年6月19日

コンペティション部門 『Three Burials of Melquiades Estrada』
トミー・リー・ジョーンズ

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脚本賞(『21グラム』の脚本家でもあるギジェルモ・アリアガ)および主演男優賞を獲得した、トミー・リー・ジョーンズ初監督/主演作品。誰もが今年の「おまけ作品」として考えていたようだが、しかし、トミー・リーはきちんと仕事をやってのけた。合衆国に逆らう無法者が、なんのかんの、いまでも必要なのだと、このB級映画に長らく生きた遅咲き俳優はきちんと宣言する。
メキシコ国境に面するテキサスの町。国境警備員によりに誤って射殺された不法メキシコ移民。それをもみ消し闇に葬ろうとする国境警備隊と地元警察に逆らうのがTLJ(メキシコ人が働く牧場の主であり、父的存在)。彼の名誉を回復し、その願い(「死んだら生まれた場所に埋葬されたい」)を叶えるため、犯人の警備員を連れ、死体とともにメキシコへ不法越境の旅に出る。
政治ものを思わせる前半から後半のロードムービーへ。前半の説話の複雑さから後半での太い直線へ。どこか70年代を想起させるフィルムだ(チミノの『心の指紋』を思い出してもいい)。俳優としてのTLJを考えれば当然と言えようか。
だがこのフィルムが証すのは、俳優としてはもちろんのこと、監督としての彼の、その素晴らしさだ。下手をすれば観念的な旅となりかねない後半を(「贖罪」云々)、彼は法に捧げるのでもなく、神に捧げるのでもなく、もっとも原初的な感覚である「匂い」に託す。死体の腐敗が放つ悪臭、だ。罪を犯した者に罪を確認させるだけではない。自らの悪臭と区別が付かなくなるその地点で、彼はもっと大きな何かを掴むはずだ。
あるいは、その悪臭はまた、法のそれであり、生まれた場所=HOMEのそれであり、西部劇というジャンルのそれであろう。いまや死体となった風景は(リオ・グランデやビッグベンドetc.)、その悪臭が彼らに吸い込まれ、吐き出されることで、新たなエモーションを獲得する。
すべては悪酔いかもしれぬが、しかしそれでもよし。TLJはきちんと仕事をやってのけた。

松井 宏

投稿者 nobodymag : 10:01

2005年6月12日

コンペティション部門 『Don't come knocking』ヴィム・ヴェンダース

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とにかく酷い言われようだったヴェンダースの新作。「リベラシオン」紙ではフィリップ・アズーリが「もがれた翼」と題し、もうけちょんけちょんである。「アンロック」誌では5人の批評家が星取りを行っていたのだが、そもそもそのうちのひとりしか本作を見ていない(もちろん星ひとつ)。まったく恐ろしい。
物語は『Broken Flowers』と同じ、あるいは『パリ、テキサス』の変奏。かつてはスターでドンファン、いまは落ち目のB級西部劇俳優(サム・シェパード)が撮影現場から逃走し、数十年会っていない母を訪れ、不意に息子の存在を知ってしまい、そして、息子と、その母でありかつて自身が愛した女性(ジェシカ・ラング)の元を訪れる……。
ヴェンダースが腐心するのはそこから。廃墟の街で3人が出会ってから、である(この点ジャームッシュとは異なる)。だからそこでは必然的に多くのクリシェと自己引用が施されるわけで、それに対し「クリシェの数珠つなぎ」とか「困ったときの自己引用」などという評を与えてもしょうがない。そんなこと百も承知で行っているのだと、そう考えた方がよい。
『Don't come knocking』は、陽気に遊んでいるわけでもないし、ヒロイックな絶望に浸ってもいない。ただ我々の風景を冷静に示すだけだ。それは、もうひとつ別に形成される家族の姿に現れる。もう、省略して言えば、骨壺とインターネット映像が出会う場所、である。
母の骨壺(文字通り映像の果てた地点)。ネット上に溢れる父の若かりし画像(クリシェな映像の飽和地点)。そしてその出会いを演出する娘サラ・ポリー。帰るべき家族=映像のHOMEがないのなら、それならそれで行くしかない、と、ヴェンダースはやっとそう言っているはずだ。
というわけで、いい加減ヴェンダースで憂さ晴らしをするのは止めにしよう。ヴェンダースに「帰還」など期待してもしょうがない。なぜなら、人一倍もがれた翼で飛行し、彼はずっと我々を見つづけている。

松井 宏

投稿者 nobodymag : 09:59

2005年6月 8日

ある視点部門 『Down in the valley』デヴィッド・ジェイコブソン

「公式コンペ」で2本(ヴェンダース『Don't come knocking』、トミー・リー・ジョーンズ『The three burials of melquiades estrada』)、そして「ある視点部門」で1本(デヴィッド・ジェイコブソン『Down in the valley』)。明らさまに西部劇の記号を見せるフィルムが3本、今年のカンヌでは見られた。
もちろんすべての舞台は現代なのだが、なぜまたこんな事態になったのか。大したことないと言えばそうだが、大したことのような気もするし……。と、とりあえずいちばんの驚きだったのが、これが長編第2作目のアメリカの若手デヴィッド.・ジェイコブソン。これが良いのだ。
小さな街にやってきた時代遅れのカウボーイ=ストレンジャーと、堅物の警察官を親父に持ついまどきの女の子との恋物語。少々ファンタジックで手垢の付いた設定だが、とはいえこのフィルム、別にジャンルの郷愁でもなく、記号の露出ショウでもない。
あらゆるジャンルがそうなのだが、しかし西部劇は他にどれにもまして神話的である。ペキンパーはかつてこう語ったと記憶する——ウェスタンは普遍的な枠組みであり、そこで今日の世界への注釈が可能なのだと。それを、西部劇がアメリカの夢と悪夢の両方としてつねにあったと、そう言い換えもできるだろう。そのうえで『Down in the valley』が示すのは、現在において西部劇が悪夢としてしか機能しない、ということだ。
夢の断片を拾い集め、組み合わせたとき、それが途端に悪夢の姿をとる。それが現在の西部劇であり世界であると、一発の銃声を放ったガンマン=エドワード・ノートンはそのことに気付き唖然とする。その呆然顔はマイケル・ムーアのどのフィルムよりも鋭利だし、なんならそれこそが、ツインタワー崩壊を眺めた我々の顔だったと言ってもいい。この悪夢もまた我々の現実なのだ。『Down in the valley』に足りないのは、そこで生き続けねばならない者の姿なのだが、しかしその点はクローネンバーグ『A History of Violence』(公式コンペ)がきちんと補ってくれる。それで良し。
まあそれはいいとしても。こんなフィルムを若い人が撮ることにまず驚く。的確さと適当さのバランスといい、キャスティングといい(少女役にエヴァン・レイチェル・ウッド。親父役にデビッド・モース!)なかなか興奮させる。このまま数十年いってジェームズ・フォーリーあたりになってくれと願うばかり。

松井 宏

投稿者 nobodymag : 21:50

2005年6月 6日

コンペティション部門 『Broken Flowers』ジム・ジャームッシュ

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ご存知今年のグランプリ。だいたい開催前からプレス間でも期待度ナンバーワンで(現地にいるとひしひし感じた)、映画祭としてもこの「カンヌの子供」を迎える準備は万端、といった感じ。こいつだけはアメリカに奪われねえぞ、といったところか。
物語は、強引に要約すれば、息子探し(あるいは家族探し)の旅。ビル・マーレイ演じる中年男(かつてはそのドン・ジュアンぶりを鳴らしていた)の元に1通の手紙がやってくる。差出人は不明ながら、どうやらかつて一時期を共にした女性らしく、そこには、男が知らなかった〈息子〉の存在が記されてある。そして始まる、息子と母親を探し出す旅。候補に挙がった5人の過去の女性を、それぞれビル・マーレイが訪れてゆく。
さて『デッドマン』『ゴーストドッグ』で思考された問題。それは「ジャンルの死」以後、それをどのように再生するか、という点にあった。そして『Broken Flowers』においてJ.Jは、初めて「家族」の問題に取り組む。この道程が思い出させるのは、たとえば黒沢清の『キュア』から『ニンゲン合格』へ至るそれだろう。あるいは青山真治の『ユリイカ』以後かもしれないし、カラックスかもしれない。あるいはそこにウェス・アンダーソンを加えてもよいだろう……。が、とにもかくにも「家族」という主題は「ジャンルの死」以後と、その再生を生きる90年代後半からの映画において(あるいはアメリカ映画との関係において)必ず現れ出るものなのだ。ここで言えるのは、彼らがみな、ジャンルの問題を形式の問題としてだけでなく、自らの家系の問題として思考していたということだろう。
とはいえJ.Jはつねに「家族」に取り憑かれていたのではないか。『コーヒー&シガレッツ』を見れば明瞭だ。映画の家族とは別種の、それを再生する手段としての、彼独自のカルチャーに根ざした家族(悪く言えばお友達)。J.Jのフィルムを形成してきたのは、こうした異なる位相の「家族」であり、その間での振幅であったはずだ。
そのうえで『Broken Flowers』が取り組むのは、語の意味での真の、血縁によって繋がる「家族」である。もちろんそれは「家族の解体」以後の「家族」である。つまり断片となった家族——ジャンルのそれから血縁のそれ——をどのように再生するか、あるいは、その組成をどのように組み替えるか。それが、期せずして父となったマーレイ=ジャームッシュの賭けとなる。
もちろんその旅にカタストロフは訪れない。近さと遠さが混じり合い、そこを支配するのは永遠に続くかのような弛緩したサスペンスだ。これまでのJ.Jに見られたショットの力とリズムは失速し(今回の撮影はJ.Jのこれまでを支えてきたロビ−・ミュラーではない)、変わってあるのは、ぼんやりしながらどこまでも醒めた映像ばかり。
だが『Broken Flowers』は「失敗作」でも「可愛い小品」でもない。なぜならこの不確かな千鳥足は、ジャンルの支えを欠いて「家族」に取り組む、現在の映画の足取りでもあるからだ。差出人不明の手紙は、再生の直中にある「家族」からの手紙であり、また現在のアメリカ映画からの手紙でもある。最後まで差出人は不明だろうが、J.Jはきちんとその手紙を受け取ったと言える。
まあそんなことお構いなしに、多くの評は『Broken Flowers』に「肩透かし」を呟く。そしてカンヌはカンヌで、我が子の帰還祝いにグランプリを与える。で、そんな甘ったるい目配せとは別の場所で『Broken Flowers』は、正しく慎ましく、アメリカ映画に向き合っていた、そういうことだろう。

松井 宏

投稿者 nobodymag : 12:24

2005年6月 3日

監督週間部門 『埋もれ木』小栗康平
批評家週間部門 『Me and you and everyone we know』ミランダ・ジュリ

批評家週間とカメラドールでグランプリを獲得した『Me and you and everyone we know』。監督は弱冠27歳のアメリカの若手ミランダ・ジュリ。ちなみに今年のカメラドール審査員長はキアロスタミだった。
元々マルチメディア・アーティストだという彼女らしく(すでにMOMA等で作品を発表しているとのこと)、主人公はアーティストを目指す、女の子と呼ぶには少々歳のいった女性(ジュリ本人が演じる)。アメリカの郊外ニュータウンで、彼女を中心に、コミュニケーションに問題を抱えたさまざまな〈loser〉たちが登場し、やがてそれぞれの小さな和解が描かれてゆく。
こうした設定は、たとえば「サンダンス映画祭出品作品」というレーベルの、90年代アメリカ映画で何度も反復されてきた(事実本作はサンダンスグランプリ作品でもある)。そうした作品群を大きく二分するのが、枠(たとえば青春やら共同体やら、あるいはジャンルやら)への意識があるかないかだ。『Me and you』には、その枠への思考がまったく欠ける。仮に彼女が、枠の消えた「以後」を生きるのだとしても、その「以後」に対する思考もここにはない。日本的「不思議ちゃん」に近い〈loser〉たちの集う街は、輪郭を曖昧にしながら不可思議な力を持つ天使の街へ姿を変える。
MeとYouとEveryoneと、あらゆる人間が似通いながら、優しげな集団を形成する。デマゴジックな「終わりなき日常」のユートピア。こうした傾向は、日本の「鉄道も通らぬ村」が舞台となる、小栗康平『埋もれ木』にも確実に現れる。2作の共通点。それはまず、ともに、時間の流れが停止した狭い空間が舞台という点。そして主人公がともに創作者であるという点(『埋もれ木』の中心軸は、少女3人の語る空想の物語が実現されるという点にある)。
奇妙なことに、こうした共通点は『Eli, Eli』(青山真治)と『Les invisible』(ティエリー・ジュス)においても共通点として現れる。だが2対のフィルム(『埋もれ木』『Me and you』と『Eli, Eli』『Les invisibles』)を隔てるのは、前者では創作者の創作プロセスがブラックボックスになっているのに対し(『埋もれ木』における神秘的な村と森、『Me and you』における天使的な街)、後者ではそのプロセスこそがひたすら描かれる、という点。
「川の終わりの地点で、水は止まり、漂うの」……ナンシー・シナトラが「The End」と歌うその地点で、前者のふたりは永遠の水遊びに耽り、後者のふたりは新たな創作を始めるのだと、そう言えるだろう。

松井 宏

投稿者 nobodymag : 09:42