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August 20, 2005

2005年8月20日

実家に帰郷した隙に、父親の本棚の隅にそろりと置かれていた『スカートの下の劇場』を盗み読む。そこには、「パンティ」の多角的な歴史的変遷を通してかいまみえる1989年のセクシュアリティが描き込まれている。出版当初から16年の歳月が経過した現在、それを単純に鵜呑みにすることはできないが、それでも「動物的な性欲」をむき出しにし始めた女性と、「手続きが最高の価値」でありゴール(挿入)を単なる付随品として捉える男性、という非対称なセクシュアリティのあり方への指摘は、私の職業を考える上でもひとつの鮮烈な基準となるだろう。上野千鶴子もまた、当時広まったばかりだった「ソープランド」を男性の受け身的快楽の発見として評価している。以降「ヘルス」「イメクラ」「ピンサロ」「SM」「性感エステ」等へと至る細分化の流れを、即物的で能動的(になりがち)なインサートを先延ばしにしたい男性の妄想の産物であると考えることは間違いではない。
ところで私にはセクシュアリティよりパンティこそ切実な問題だ。というのも私の業種では、女性は性感時パンティのみ着用での接客となるからだ。この場合私の身に付けるパンティは、自身のイメージを外的要因によってコントロールすることのできる唯一無二の装置として機能する。一体どのようなパンティがこのTPOにもっともふさわしいかというのは、かねてからの疑問なのだ。上野は本書において、セックスアピールとナルシシズムというパンティの持つ二面性に注目している。パンティは、男性と女性の交錯する外的・内的な視線のなかで実に様々な局面を呈する。上野によれば、男性はパンティをそれ自体として愛で、誰がそれを履いているかは度外視する。もしくは彼らは現物の女性と対面すると、彼女らの身に付けるパンティに視線を落とすゆとりを失ってしまうのだ。彼らにとってのパンティとは生身の女性の下着ではなく、そのために彼女たちがパンティをセックスアピールとして選択するさい前提とする男性の視線は、実際には架空のものとなる。女性はナルシスティクな自己演出を目的としてのみ、パンティを選ぶのが正しいし、上野によれば実際の多くの女性たちは単にそうしているだけなのだ。
さて、自分がやる気になるパンティを探しに、私は早速下着屋さんに足を運んだ。しかしそこで目にしたのはパンティではなくブラジャーだった。多くのブラジャーとパンティはセットになってそろえてひとつのハンガーにかけられていて、パンティはまるで背景のように多様なブラジャーの後ろで小さく揺れていたのだった。私は仕方なく気に入ったパンティを含むセットを2点選びだして試着室へとはいった。パンティの試着は禁止されている。ブラジャーを試着して店員さんにみせると、彼女はひと言こういった。「あー、あってませんねぇ。別のものお持ちしますね」。あっていないのはデザインではなく胸の形だった。彼女は次から次に様々なブラジャーを試着室に持ち込み、私と一緒になってひとつひとつそれを確認してくれた。最終的に最も私の胸に形があっていたブラジャーと、それとセットになっているパンティと、さらに色違いの同じセットを手に取り、私は自動的にレジへと向かった。私に最もふさわしいパンティを決めたのは、結局男性でも私自身でもなく店員さんだった。
「ブラジャーとパンティはセットで」という認識は、1989年当時はあまり一般的ではなかったのだろうか。さらに現在はずいぶんと機能性が重視されるようになった気もする。それらはセクシュアリティに何らかの影響を与えているのだろうか。男性陣はどう思っているのだろう。いずれにしろ私が新品のブラジャーとパンティという純真無垢なイメージについやる気を抱かされてしまったのは確かではあるが……。

投稿者 nobodymag : August 20, 2005 3:01 PM