コンクリートの地上で愛欲は肯定される

作花素至

『ノーバディーズ・ヒーロー』が、『湖の見知らぬ男』『ミゼリコルディア』と比べてやや異質な物語を語っているように感じられるとしたら、それは端的に田舎ではなく都市を舞台にしているからだろう。なぜ都市であることが物語に影響を与えるのかといえば、この場合おそらく、地面が舗装されているからである。
 この3作品に共通していることの一つは誰かが殺されるということである。『湖の見知らぬ男』においては、終始波の立たない不気味なほど穏やかな湖に一人の男が沈められて殺され、『ミゼリコルディア』では、主人公に殺された男の遺体が森の土に埋められ隠匿される。さらに『ノーバディーズ・ヒーロー』では、クレルモン=フェランの街でテロらしきものが発生している。そして『湖の見知らぬ男』と『ミゼリコルディア』の場合、主人公は水面/地面にのみ込まれた死者の気配に脅かされながら、その場所に縛り付けられることになるのだ。ところが『ノーバディーズ・ヒーロー』の街の舗装された地面には何も埋まることがない。主人公のメデリック(ジャン=シャルル・クリシェ)は「テロ」が起こった広場の地上にやって来て、犠牲者を追悼する市民の姿や手向けられた無数の花束を眺めるが、事件が彼をその地点に、あるいは心理的に拘束することは決してない。彼が「テロ」と関わるのは、ただ事件のせいでイザドラ(ノエミ・ルヴォウスキー)とのセックスが中断させられたままになってしまったという点と、彼が助けたアラブ系の家出青年セリム(イリエス・カドリ)が逃亡したテロリストかもしれないという疑念においてである。ある夜、メデリックは自宅のアパートメントに泊めたセリムが過激派の仲間たちを招き寄せ、祈祷を捧げているのを目撃する。捕まったメデリックはテラスから突き落とされ、彼の目の前に地面が迫り来る——しかしこれは彼の単なる悪夢である。固いコンクリートの地上の死はどこまでも抽象的なものなのだ。

『ノーバディーズ・ヒーロー』
©2021 CG CINÉMA / ARTE FRANCE CINÉMA / AUVERGNE-RHÔNE-ALPES CINÉMA / UMÉDIA

 水面/地面の下で具体的な存在感を放つ死者と、地上で死んだ実体のない者たちという対比が成り立つとして、そのことが物語にどう作用するのだろうか。アラン・ギロディのこれらの作品の登場人物は、いずれも社会的・宗教的な規範より自分自身の愛と欲望に従うことを選択する者として特徴づけられている。そして映画は、その選択を倫理的に論評したり、ましてや否定したりすることなく、彼らの私的な利益が最後まで追求されることを欲しているように見える。
 しかし、『湖の見知らぬ男』と『ミゼリコルディア』の主人公は、自らの欲望にまつわる罪責感を捨てきれない「弱さ」を持っている。彼らは規範としての常識を未だ内面化しており、警察官をはじめとする他者の視線を意識すると、殺人者である愛人を告発すべきではないか、あるいは自首すべきではないかという迷いを抱いてしまう。その時、彼らに愛情を向ける者——かつ、自己の欲望にあくまでも忠実であろうとする「強靭な」人物が現れ、彼らをあの忌まわしい水面/地面へと再び導き、その下から発する罪責感を克服するよう手助けするのである。すなわち主人公は、愛人とともに湖を泳いだり、自分に想いを寄せる神父とともに死体の上から生えた茸を食したり、さらに死体を掘り返したりすることで、たとえいかなる結果が待ち受けていようとも、欲望に従うという過去の選択を引き受け直すことになるのだ。『湖の見知らぬ男』と『ミゼリコルディア』は、一面ではこのプロセスを描いた物語として見ることができるだろう。
 ところが、『ノーバディーズ・ヒーロー』にはこうした特異な磁場を持つ地点は存在しない。ジョギングを日課とするメデリックをはじめとして、人びとはクレルモン=フェランの街路を自在に往還しながら予測不能な関係をとり結んでいく。それを可能にするのは、誰もがはじめから克服すべき罪責感や規範に対する後ろめたさを持たない「強靭なる」人物であるということだ。娼婦のイザドラに向かって私的なセックスを遠慮なく申し込んだ上、「テロ」のニュース速報など一顧だにせず、夢中で彼女の身体をまさぐり、その後もセックスの完遂だけを目指して彼女を追いかけ続けるメデリックは、清々しいほど内なる愛欲に服従して生きている(彼女を暴力的な夫から引き離そうとしたり、セリムについて警察に通報したりする試みも、正義感というより個人的な嫉妬や不安に由来するものと考えるべきだろう)。もっとも、欲望に正直であることが欲望の実現をただちに意味するものではないことは、本作がよく教えてくれるところである。とはいえ、メデリックの愛欲の爆発に対する度重なる妨害は『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』(1972、ルイス・ブニュエル)的な諷刺というより、彼の不屈さの強調であるとも感じられるのだ。
 ふつう、社会にメランコリーを蔓延させ、市民を萎縮させずにはおかないはずの「テロ」を尻目に欲望を追求するメデリックの姿はそれ自体で反逆的だが、一方で、事件に対し自己の利害から離れて関心を示すのがイザドラである。彼女は、誰もいない場所で自爆したらしい逃亡犯のニュースを見ながら、事件で何もわからず死んだ人よりも自殺した犯人のほうが不幸ではないかと語る。さらに「娼婦の役目」と称し、どこか危うさのあるセリムがテロリストと化すのを防ぐという目的を(半ば)持って彼の童貞を捨てさせてやるのだ。このような思考は「政治的正しさ」の規範からは逸脱しているかもしれないが、彼女の公的な責任意識の存在を明らかにしている。自ら望んでその仕事をしているというイザドラは自己の欲望を裏切らずにいながら、同時に他者に開かれた独自の規範をも保持しているのである。

『ノーバディーズ・ヒーロー』
©2021 CG CINÉMA / ARTE FRANCE CINÉMA / AUVERGNE-RHÔNE-ALPES CINÉMA / UMÉDIA

 自己の欲望を全的に肯定しながらそれに自閉しないこと。そのために絶えざる移動のなかで多様な関係を切り拓くこと——これが、罪責感を乗り越えるという課題を予め果たしている『ノーバディーズ・ヒーロー』の人びとの次なる問題なのかもしれない。実際、メデリックが自称する性的指向は変転するのだが、彼との関係を欲するフロランス(ドリア・ティリエ)は、最後に彼がゲイだと聞くとイザドラとの関係を持ち出して性的指向の「思い込み」を指摘する。これは、欲望のあり方を既存のカテゴリーに分類してしまうこと自体が「思い込み」ではないかという発言にも聞こえるのである。こうした非自閉的な愛の主張は『ミゼリコルディア』の神父においてさらに先鋭化することになるだろう。

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