テクスト(コン)テクスト
隈元博樹
© 2021 『ドライブ・マイ・カー』製作委員会
『ドライブ・マイ・カー』を見ていると、俳優たちのある仕草が気になってくる。それは広島での国際演劇祭に向けて、アジア各国から公募で選ばれた彼/彼女らが『ワーニャ伯父さん』の本読みを行っている場面でのこと。その稽古場では四方に机が並べられ、俳優たちはそれぞれに身体を向かい合わせ、配役ごとにゆっくりとセリフを母国語で読み上げていく。そのようにしてある俳優がセリフを読み上げると、俳優は自らの手で拳をつくり、「コン」と机に向けて音を鳴らす。すると今度はその音に合わせ、別の配役の俳優が次のセリフを読み始め、先の俳優と同じようにして机を鳴らす。この繰り返しによって、稽古場での本読みが進められていくといったものだ。本読みの中で、演出家の家福(西島秀俊)から「みんなに聞こえるように、もっとゆっくり、はっきりとお願いします」と指摘が入ることもあり、指示を受けた俳優は改めてその箇所を読み直すこともまたしかり。本編では、実際の立ち稽古や本番の場面よりもこの本読みの時間に多くが割かれているのだが、立ち稽古の中で俳優が発する言葉に違和や齟齬を感じたならば、家福はすぐさま机を並べ直し、全員を座らせて本読みのやり直しを行うことさえ厭わない。映画の中の本読みは、このような一進一退を経ていくことで、リハーサルの中の核として入念に進められていく。
この本読みで用いられる「コン」は、演劇あるいは映画におけるひとつのルールなのかもしれないし、実際に稽古の場で使われている所作なのかもしれない(ちなみに音〔霧島れいか〕がテクストを吹き込んだ『ワーニャ伯父さん』のカセットテープには、テクストとテクストとのあいだに「コン」は収録されていない)。また上演される舞台の形式が「多言語演劇」であることから、言葉の通じない相手へ向けた「合いの手」として機能していることも窺えるだろう。ただし、『ドライブ・マイ・カー』において繰り返される「コン」の合図は、本読みを行う上での単なるルールにとどまらず、この映画に通底する言葉以上の何かを他者へと送るための、ある種の伝達信号のような気がしてならない。そもそも濱口竜介の映画を形づくる言葉や演出に触れるたび、彼にとって俳優にテクストを読ませることは、映画をつくるための最も大きなプロセスとして位置付けられてきた。「NOBODY issue44」に掲載された『ハッピーアワー』公開時のインタヴューによると、濱口はジゼル・ブロンベルジェがルノワールの演出を体験する『ジャン・ルノワールの演技指導』(1968、ジゼル・ブロンベルジェ)を見たことで、「本読み」の演出に惹かれたと述べている。本作の中でルノワールは、監督の彼女に対し、まるで電話帳を読むかのようにして、感情、イントネーション、抑揚をすべて排し、その本読みを何度もやらせることを促す。そのことで冒頭と最後に彼女が演じた同じ場面は全く異なるものとなり、いかにして本読みという行為が映画の演出に作用するものであるかを悟ったのだという。
もちろんこの『ドライブ・マイ・カー』においても、家福は本読みを行う中で、まずは俳優たちに「演じない」ことを説いている。そして感情、イントネーション、抑揚を排し、書かれたテクストを自らの声(あるいは手話)でゆっくりと噛み砕かせ、それらを何度も繰り返すことで徹底させていく。ただ、読むだけで良いんだと。こうしたプロセスの元で形成されていく俳優たちの声や演技は、やがて自らの言葉として厚みを帯びていくようになる。しかし、『ドライブ・マイ・カー』が興味深いのは、本読みという行為がテクストを読む俳優自身のためだけに行われていない点にある。たとえばある特定の俳優のセリフに言葉としての厚みを感じなければ、その他の俳優たちとは別途本読みの時間を設けることや、他の部屋で特訓させることなどもできただろう。しかし先述したとおり、家福は途端に立ち稽古を中断させ、ふたたび最初から全員で本読みを行うことを選択する。そのことで、家福が目指す『ワーニャ伯父さん』とは、けっして独りよがりのものでなく、演劇の場をともにつくり、言葉を交わし合う他者との協働に基づくものであることを直に受け止める。そのために彼らが読むテクストのあいだには、つねに「コン」が介在しており、俳優たちは言葉以上の何かを伝達し、ともに受け取ることを相互に繰り返しているのだとも思えてしまうのだ。
演じる者から言葉とは異なる何かを介し、さらに演じる者へと伝達していく行為。そのことについて考えたとき、本作の脚本を濱口とともに執筆した大江崇允の長編『適切な距離』(2011)を思い出す。『適切な距離』においても、『ドライブ・マイ・カー』と同様に稽古場の場面が登場する。横一列に数名ほど座って並ぶ演劇サークルの大学生たちは、ひとりずつ自分の表情を、隣に座る学生と見つめ合うことで伝えていく。そして隣の学生に表情を伝えられた学生は、さらにその隣の学生へと自らの表情を伝えていくのだが、一番端に座った学生まで表情が伝えられると、今度はその流れを折り返すようにして、新たに少し微笑んだ表情を隣の学生へ向けて伝えていくことを開始する。この言わば「伝顔ゲーム」を通した反復行為によって思わず笑い転げる学生がいたりするのだが、たとえばここで家福のように「もうちょっと笑えたね」と発言する演出サイドの外部の声が介入してくることもある。伝顔であるかぎりそこに言葉は存在しないものの、それぞれの表情とのあいだに生じる「適切な距離」は、まるで細胞組織を伝達するシナプスのように、あるいは「コン」の合図と同じようにして、彼らの表情を伝えていくのだ。こうした一連の場面からも、『適切な距離』には演じる者から演じる者へと言葉以上の何かが伝えられていく瞬間が収められており、それは『ドライブ・マイ・カー』の稽古場の場面においても十全に引き継がれている。
いくら言葉を重ね合わせたとしても、そのすべてが他者に通じているとはかぎらない。そのことは家福と妻の音に加え、ふたりを取り巻く若手俳優の高槻(岡田将生)やドライバーの渡利(三浦透子)たちが抱える人間模様そのものであり、家福の愛車「SAAB 900」とともに積み重ねられた時間と分かちがたく結びついている。つまりは、言葉以上の何かを探し求めることで、愛する/愛した相手を理解し直すための濃密な旅こそが『ドライブ・マイ・カー』なのだ。そして、彼らの道程と並走するかのように、本読みを行う俳優たちは、テクストとテクストとのあいだに絶えず「コン」と打ち鳴らしては、たがいに呼吸を合わせ、さらには相手のテクストさえも覚えることで、他者への理解を試みていたのではないかと思うのだ。だからこそ本読みの中で行われる「テクスト(コン)テクスト」な稽古場の光景は、今も強く私の脳裏にこびり付いている。