特集『蛇の道』

© 2024 CINÉFRANCE STUDIOS – KADOKAWA CORPORATION – TARANTULA

 黒沢清ほど映画作家として国内で認識されている監督はいない。ひとつのショットを見ればそれが黒沢清の映画なのだと誰もがわかる、とよく言われる。たしかにそうだ。とはいえ、黒沢清の作家性はそこまで簡単に語れるものではなくなってきている。とくに近年は撮るたびに新しい試みがあり、下の世代の監督たちよりも大きくフィルモグラフィを変容させているように思える。どんな物語、ジャンル、あるいは異国が舞台でも果敢に挑んでいく。それが黒沢清の新作にいつもワクワクさせられる理由でもある。
 しかしそうした黒沢本人の姿勢とは裏腹に見る側の黒沢像はどこか凝り固まってしまっているのではないか。観客のなかには、勝手といえば勝手だが、自分が思っていた黒沢映画ではなかったという人もいるようだ。セルフリメイクとなる『蛇の道』はオリジナル版と比較され、なおのこと昔の方を懐かしむ傾向が強くなってしまうのかもしれない。
 これまでの黒沢清を語り直す、というほど大袈裟なものではないけれど、黒沢映画一本一本と自由に出会い直すために今回の特集は組まれた。まずそのためには日本の外から黒沢清がどのように見られているのかをあらためて知ることが重要だろう。6月11日に東京日仏学院で行われたふたつのイベント、映画批評家クレモン・ロジェとのマスタークラスと、お互いに敬愛し合うオリヴィエ・アサイヤス監督との対談を採録した。


『蛇の道』
2024年/フランス・日本・ベルギー・ルクセンブルク/113分
監督・脚本:黒沢清
原案:『蛇の道』(1998 年大映作品) 
出演:柴咲コウ、ダミアン・ボナール、マチュー・アマルリック、グレゴワール・コラン、西島秀俊、ヴィマラ・ポンス、スリマヌ・ダジ、青木崇高
配給:KADOKAWA
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公式HP:https://movies.kadokawa.co.jp/hebinomichi/

「黒沢清を迎えて ― 亡霊たちの社会」黒沢清×クレモン・ロジェ マスタークラス2024/6/11@東京日仏学院

クレモン・ロジェ(CR) まずは黒沢さんにお祝いを申し上げたいと思います。というのも、フランス共和国の文化芸術勲章をこの度受賞なさいまして、これは私たちフランスの人々にとっても重要なことだと思います。黒沢監督の作品を私たちは、1997年の『CURE』の時からずっと拝見しているからです。1997年にフランスで初めて発見されたと言っても、それ以前にも15年以上の映画監督としてキャリアを黒沢さんは持っていらっしゃいました。そういった『CURE』以前の作品については、フランスでは主にシネマテークフランセーズで2012年に行われた大回顧上映で発見することになりました。その時に我々は、黒沢さんが学生時代に立教大学で撮影された8mmの自主映画や、日活、ディレクターズカンパニーでの初期の作品なども徐々に発見していきました。
 また2012年という年がフランスにとって特別な年になったのは、その年だけで黒沢さんの3本もの新作が公開されたからでもあります。その時私たちは、黒沢清さんの作品数の膨大さに驚嘆すると同時に、数だけではなく、様々なジャンルを行き来し、時にはほとんど自主映画のような小さな規模の作品であったり、時には今回の新作のように国際的な共同制作という大規模な予算の作品であったり、また映画の長さも長編映画、短編映画、中編映画など、様々なことを横断して、いわばお手玉を弄ぶように自由に制作なさっていることに大変大きな驚きを覚えました。
 今フランスの多くの映画作家の場合、大体最初は短編から始めて、中編長編とキャリアを進めていくわけで、その後大体長編しか撮らなかったり、大体同じような規模の作品で、内容も同じようなジャンルに留まって映画をつくり続ける方が大半です。そこでまず黒沢さんに最初にお尋ねしたいのは、ご自身の立ち位置を日本の映画産業という中で、どのように位置づけられておいでなのか。日本の映画産業のまさに中心にいるのか、それとも端っこにいるのか、どのようにお考えですか。

黒沢清(KK) これまでいろいろと作品を見ていただいてありがとうございます。
 クレモンさんのことは本当に若い頃から知っています。そんな彼とここでトークすることになるというのは非常に感慨深いものだなと思っています。
自分の日本映画の中でのポジションは……、考えたことがないのでよく分かりません。
 この歳になってもまだ様々な雑多な映画を撮り続けているというのは多少変わっているのかなと思うのですけれども。ただ、過去にはそういう人はたぶんたくさんいただろうと思っています。
 歳を取るごとにある種作風が決まってきて、同じような主題のものをずっと撮り続けて、あるスタイルを確立するような作家がいます。有名なのは小津安二郎ですが、若い頃はいろんな雑多なものを撮っていても、だんだん同じようなものを撮るようになっていく作家。
 そういう作家がいる一方で、歳を取るごとにもう何でもかんでもめちゃくちゃな、とにかく可能な限りいろいろな種類の映画を撮っておこうというぐらい、範疇の広くなるような作家もいます。近年で言えば、例えばスティーヴン・スピルバーグのような作家。僕がそのどちらなのかと言えば、明らかにいろんなものをやれるだけやっておこうというタイプなんだろうと思います。日本ではこのタイプは今や少なくなっていっているのかもしれません。

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「黒沢清を迎えて ― 亡霊たちの社会」黒沢清×オリヴィエ・ アサイヤス 『パーソナル・ショッパー』アフタートーク 2024/6/11@東京日仏学院

オリヴィエ・アサイヤス(OA) 黒沢さんにお会いできてとてもうれしいです。

黒沢清(KK) こちらこそ本当に一度お会いしたいと思っていました。初めての出会いがこうやってリモートというのも不思議なものですね。今日はよろしくお願いします。

OA 実は以前にもお会いしたことはありますが、きちんと映画のことをお話しするのは初めてになると思います。最初に申し上げたいのが、黒沢さんの『蛇の道』、とても好きでした。

KK ありがとうございます。

──ぜひ『蛇の道』についての感想ものちほどお聞きしたいと思いますが、まずは今回黒沢清監督が「フランス映画でこの一本」という私たちからのお願いで、『パーソナル・ショッパー』(2016)を選んでくださった理由からお話しいただければと思います。

KK みなさんはご覧になっていかがだったでしょうか。本当に恐ろしい映画だったはずです。おそらく幽霊との遭遇という出来事をここまで真面目に、本格的に描いた映画はたぶん映画史上初めてだと思います。素晴らしい映画でした。この映画は2016年のカンヌ国際映画祭で監督賞を受賞し、評価されている傑作なのですが、日本ではホラー映画という形で扱われず、この映画の本当の怖さ、恐ろしさがまともに語られたのをあまり見たことがありません。非常に残念だなと常々思っていました。それで今回僕が好きなフランス映画を一本上映して良いということだったので、迷わずこの映画を紹介したいと思いました。幽霊が出てくる映画というのは古今東西たくさんあるのですが、この映画ほど死んだ人間と生きている人間が接近しつつ、断絶してしまっているという状態をつぶさに描いた映画は他になかったのではないか。これをホラーというジャンル映画なのかは断定できませんし、むしろそういったジャンルから完全に逸脱してしまった映画だと言っても良いかもしれません。
 とにかくまず非常に特徴的なのが、主人公が死んだ兄にとにかく会いたいと思っており、兄からのコンタクトをずっと待っているという設定です。実際に兄らしき霊が接触してくる中で、普通こういう展開であれば非常にノスタルジックであったり、センチメンタルなある種のファンタジー映画になっていく場合が多いと思います。たとえば僕がかつて撮った『岸辺の旅』(2015)などはそういった映画です。幽霊と人間との心の交流を描いた映画のひとつでした。ただ、この『パーソナル・ショッパー』は本当に会いたかった兄の霊が接近すると、クリステン・スチュワート演じる主人公にとってはやはり怖いんですね。どうしようもなく怖い。ここがぐっとホラー映画に接近するところなんですけども、幽霊はどんなに親しい人間的な付き合いがあった人であっても、一旦幽霊となるとその存在との遭遇となればやはり怖い。ここがこの映画の最大の肝だろうと思っています。
 じゃあ何か幽霊に悪意があるのかというと、中盤ではiPhoneで明らかに悪意を持って主人公を脅かす存在も出てくる。でもあれは結果人間だったわけで、悪意のある人間が持っている恐怖と幽霊の恐怖はまったく違います。幽霊には悪意があるとは思えないわけですね。ではなぜ幽霊が出現してくるのか。その理由がまったくわからない。つまり「わからないからこそ怖い」という展開になっています。こういった幽霊映画の場合、一方ですべてが主人公の妄想なのかもしれないという余地をつくっておくというやり方もあります。ただ、『パーソナル・ショッパー』は本当に幽霊が現実に存在する証拠が画面からいくつも窺える。ここがまたこの映画の本当に恐ろしいところだと思います。
 みなさんよく覚えていらっしゃいますでしょうけど、主人公が見てもいないときに、コップが宙に浮いて下に落ちて割れます。その後主人公が片付けることになる。誰も別に怖がりもしない。そういう物理的現象が起こっている。あるいは主人公も誰も気にもしていないにもかかわらず、勝手にホテルのエレベーターのドアが開き、何も映っていないのに自動ドアがふっと開いていく。どういった表現なのでしょうか。誰も気付かないけども、明らかに幽霊が現実に存在していると言えばいいのか。妄想ではない、客観的事実なのだという表現ですね。このような表現を映画で使うというのは相当勇気がいることだと思います。
「なぜ幽霊は怖いのか」というのはとても難しい疑問なんですけれども、その答えは生きている人間にはわかりようもありません。しかし、かつて生きていた人間が自分の兄ほど親しい存在であっても、一旦死を経験すると何かが大きく変容してしまう。イエスかノーかのコンタクトを取ることはできる。しかし、死を経験した存在はやはり生きているものとは明らかに何かが大きく違っている。そのことを受け入れなければいけない。それがこの映画から汲み取れる死についての考察です。ですからこの映画は、人間と幽霊の遭遇を描いた映画ですが、その裏に「死とは何なんだろう」という本当に壮大なテーマがあると考えています。僕の友人である高橋洋という脚本家で、『リング』という映画の脚本を書いた男がいます。彼は古今東西の幽霊映画に通じているのですが、この『パーソナル・ショッパー』を見ていなかったので「絶対見ろ」と勧めました。そして彼は見た後に一言、「やられた」とつぶやいていました(笑)。それがこの映画に対する僕の感想です。本当にありがとうございました、こんな恐ろしい映画をつくっていただいて。そこで一ファンとして本当にシンプルな質問から始めさせてください。どういったきっかけでこんな恐ろしい映画を撮ろうとされたのでしょうか。

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そしていつかは終わる

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梅本健司

 過去を持たない人物たちを中心にしていたかつての黒沢清にあって、復讐劇である『蛇の道』(1998)の哀川翔は例外的なひとりと言えなくもなかった。だが哀川に用意された過去=復讐の理由はほぼ後付けであり、説明的すぎるがゆえに何も説明していないも同然だったのだから、まだ結末を知らずに見ている観客にとっては、やはり彼もきわめて黒沢的な、過去を持たずに現在をつねに生き直し続ける男だったと言ったほうがよいだろう。哀川の揺らぎのない演技も相俟って、彼が演じた新島はどれだけ残酷な行為に及んでも動じない機械のようだった。しかし近年の黒沢清の登場人物たちにとっての過去はただの言い訳として機能したり、捨て去られたりするだけのものではなくなってきている。たとえば『散歩する侵略者』(2017)における松田龍平は、宇宙人に乗っ取られ、たしかにそれまでの人格を失うものの、彼にとって主たる問題となるのは、その器=身体に搭載されたこれまでの記憶と破綻しかかった妻との関係だった。とくに2000年代後半からの黒沢は、現在だけではなく、現在において過去がいかに現前するのかという問題を最大の関心事にしてきたように思う。現在と過去の相克を経て、登場人物たちは決定的な変化の後を生きることになるのだ。夫婦の関係──つまり映画以前から続くカップルの関係がより前面に出たのも、このことと無関係ではないのかもしれない。

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