「黒沢清を迎えて ― 亡霊たちの社会」黒沢清×クレモン・ロジェ マスタークラス2024/6/11@東京日仏学院

クレモン・ロジェ(CR) まずは黒沢さんにお祝いを申し上げたいと思います。というのも、フランス共和国の文化芸術勲章をこの度受賞なさいまして、これは私たちフランスの人々にとっても重要なことだと思います。黒沢監督の作品を私たちは、1997年の『CURE』の時からずっと拝見しているからです。1997年にフランスで初めて発見されたと言っても、それ以前にも15年以上の映画監督としてキャリアを黒沢さんは持っていらっしゃいました。そういった『CURE』以前の作品については、フランスでは主にシネマテークフランセーズで2012年に行われた大回顧上映で発見することになりました。その時に我々は、黒沢さんが学生時代に立教大学で撮影された8mmの自主映画や、日活、ディレクターズカンパニーでの初期の作品なども徐々に発見していきました。
 また2012年という年がフランスにとって特別な年になったのは、その年だけで黒沢さんの3本もの新作が公開されたからでもあります。その時私たちは、黒沢清さんの作品数の膨大さに驚嘆すると同時に、数だけではなく、様々なジャンルを行き来し、時にはほとんど自主映画のような小さな規模の作品であったり、時には今回の新作のように国際的な共同制作という大規模な予算の作品であったり、また映画の長さも長編映画、短編映画、中編映画など、様々なことを横断して、いわばお手玉を弄ぶように自由に制作なさっていることに大変大きな驚きを覚えました。
 今フランスの多くの映画作家の場合、大体最初は短編から始めて、中編長編とキャリアを進めていくわけで、その後大体長編しか撮らなかったり、大体同じような規模の作品で、内容も同じようなジャンルに留まって映画をつくり続ける方が大半です。そこでまず黒沢さんに最初にお尋ねしたいのは、ご自身の立ち位置を日本の映画産業という中で、どのように位置づけられておいでなのか。日本の映画産業のまさに中心にいるのか、それとも端っこにいるのか、どのようにお考えですか。

黒沢清(KK) これまでいろいろと作品を見ていただいてありがとうございます。
 クレモンさんのことは本当に若い頃から知っています。そんな彼とここでトークすることになるというのは非常に感慨深いものだなと思っています。
自分の日本映画の中でのポジションは……、考えたことがないのでよく分かりません。
 この歳になってもまだ様々な雑多な映画を撮り続けているというのは多少変わっているのかなと思うのですけれども。ただ、過去にはそういう人はたぶんたくさんいただろうと思っています。
 歳を取るごとにある種作風が決まってきて、同じような主題のものをずっと撮り続けて、あるスタイルを確立するような作家がいます。有名なのは小津安二郎ですが、若い頃はいろんな雑多なものを撮っていても、だんだん同じようなものを撮るようになっていく作家。
 そういう作家がいる一方で、歳を取るごとにもう何でもかんでもめちゃくちゃな、とにかく可能な限りいろいろな種類の映画を撮っておこうというぐらい、範疇の広くなるような作家もいます。近年で言えば、例えばスティーヴン・スピルバーグのような作家。僕がそのどちらなのかと言えば、明らかにいろんなものをやれるだけやっておこうというタイプなんだろうと思います。日本ではこのタイプは今や少なくなっていっているのかもしれません。

CR まず最初の質問だったので、ちょっと抽象的な話から始めさせていただきましたが、今日のマスタークラスは映像の抜粋を見ながら、なるべく具体的な映画についての話をしていきたいと考えています。そこで早速まず最初の抜粋からご覧いただきたいと思うのですが、これは黒沢さんの映画の中でも私が最初に見た映画、パリの18区の小さなアートシアターで発見した大変な傑作。『回路』(2000)です。

抜粋上映

CR まずこの映画をはじめに見たときに大変怖かったということを記憶していますが、もう一つ非常に印象に残ったのが、まさにホラー映画、恐怖映画というものの新しい時代を切り拓いた作品ではないかと思ったのです。1990年代は、特にアメリカ映画においてホラー映画が大変に多くつくられた時代だったわけですが、ある種ジャンルの可能性を使い尽くすというかホラー映画についてのホラーになっている、マニエリスム的なところがあった。しかし、むしろ『回路』という映画はホラー映画の形態に新しいフォルムを付け加えた、このように思えたわけです。
 一つの大きな特徴として、例えば従来の日本の恐怖映画となると、あるいは幽霊ものとなると幽霊の役割というのは、実は見た目もある程度はっきりしていて、役割もはっきりしていました。大体復讐のために化けて出てくるわけです。それが、『回路』という映画の中では、そもそもお化けの姿がよく見えないし、その役割自体も非常に漠然としていて、何となくインターネットを通じて感染していく、伝染していくということが漠然とわかるだけであって、そこで明確に役割というのをあえて与えていないと思うんです。

KK ありがとうございます。今見てかなり恥ずかしかったです。時代を感じますね。皆さん、今の若い方はほとんど知らないかもしれませんが、インターネットがつながるモデムの音は、デジタルなのに、何かものすごくアナログな音がしてつながっていたんですね。あの音が不気味でしたね、これはどこにつながっているんだろうという。そういう懐かしい時代のものです。
 あの頃、僕は新しいホラー映画をつくってやろうという意気込みに燃えていたというよりは、既にもう手はやり尽くされているなという諦めにも似たところから発想していたという記憶があります。
 おっしゃるように幽霊映画というのは日本でもたくさんつくられていましたし、もちろん海外でもそうでしたが、幽霊が出現してくるというと、人間ほどははっきりわからないですけれども、大抵が何かの恨み、ある種の悪意に基づいた目的を持って、ぬーっと出てくるというのが主流であったと思います。
 ただ、そのわかりやすい人間的感情である恨みみたいなものが幽霊になることによって、もはや人間性を完全に欠いてしまって、ある異様な、超自然的な力のようなものとして人間にのしかかってくる。こういった幽霊を、多分世界的に広めたのは『リング』(1998、中田秀夫)だったと思います。あれも恨みに出てきている貞子という幽霊なのですが、古典的な怪談のような人間的な恨みとは全然違う。見たものを呪い殺すというか、もっと不可思議な力を持った怪物のような幽霊ということで、世界的に非常に称賛されたわけです。
 今でも覚えています。『リング』は日本でももちろん大ヒットして、プロデューサーが「『リング』みたいなのをやってくれない?」と言いました(笑)。ご存じのように、リングはビデオ画面が恐ろしいというものなんですけど、あからさまなそれの真似ではあるんですが、ではインターネットが恐ろしいということで何か考えてみます、というのがこの『回路』のスタートでした。ほとんど投げやりのような感じでしたが。ただ、やっていくうちに、さっきおっしゃったようにわかりやすい恨みのようなもの、それは非常に個人的なものですけれども、そういう個人的な人間の、もう死んでしまった人間の感情のようなものを、物語から一切排除してつくってみようというのはひとつの思い切った決断だったと思います。
 恨みも何も関係のない、理由もよくわからない死んだ人間が、幽霊として現実世界に出現しはじめるという現象、それが何なのかということは、つくっているこちらにとっても非常にわかりづらいものでした。いま思えば、人間的な感情を持たない不気味なものが現実に現れるということをつきつめていくと、映画はどこかSF映画に近づく。文明が破壊されるとか、普通に生きて常識的だと思っていたものがどんどん変わってしまう。近未来SFのような様相を呈してくるんだなということを実感しました。これは幽霊映画でなく、多くのゾンビ映画にも言えることですね。今はゾンビ映画というと、ほとんどSF映画ですよね。昔全然そうではなかったんですけれども。

CR 黒沢さんは、いわゆるシネフィルな映画監督、例えばフランスで言えばオリヴィエ・アサイヤス監督であるとか、そういった映画監督たちの一人だと考えられると思います。ですので、黒沢さんがご覧になった過去の映画からどういう影響を受けたのかを議論するために、黒沢さんの作品ではない映画の抜粋もご覧になっていただきましょう。
 黒沢さんも大変好きで、大変に影響を受けているとおっしゃっていたリチャード・フライシャー監督の作品から、『静かについて来い』(1949)の抜粋をご覧いただこうと思います。
 ざっと物語を説明しますと、この映画は連続殺人鬼についての映画で、それを警察が追うという構図になっています。警察は手配のために犯人を模したマネキン人形をつくるのですが、しかしシルエットはわかっていても顔がわからないので空白になっている。この顔がない犯人の姿というのは、おそらく黒沢さんの映画に共通するテーマではないかと思っています。人の顔がない、あるいは顔が崩れていくことが、ひとつの映画の中で繰り返される。

抜粋上映

KK クレモンさんはなかなか凝ったものを選ばれましたね。この映画を見たのは覚えています。

CR 黒沢さんはこの時期のフライシャーでは『札束無情』(1950)について結構書かれていますよね。

KK そうですね。かなり最近も見て何度も語ったりもしています。ただ『静かについて来い』に関しては語ったこともなく、不意を突かれて動揺しています。

CR『札束無情』についてはパリで選定されていましたよね。

KK そうですね。去年パリシネマテークでアメリカ映画を3本選んでくれと頼まれたので、その中の一本に『札束無情』を選びました。

CR 黒沢さんがフライシャーから二つの面で大きな影響を受けているということを読んだ記憶があります。ひとつにはシナリオの構成。そしてフライシャーのカット割についても影響を受けたと語られていたと思います。そこについて詳しくお聞かせください。

KK 『静かについて来い』に関してはそれほど多くは語れないのですが、フライシャーの映画は自分が映画を作ることになるとは思っていない若い頃から普通のアメリカの娯楽映画としてたくさん見ていました。ただある時、非常にわかりやすい『絞殺魔』(1968)という映画を見た時にひとつのカットをどうやって撮ったのだろうかと分からずに驚いた記憶があります。変なカットではないのですが、普通だったら三、四つに割れそうなカットをワンカットであっという間に見せてしまう瞬間でした。そのカットを見た時がフライシャーは特別な存在だと気付いた最初だったと思います。
 当初は作家的なひとつのスタイルだと思っていたのですが、Vシネマを撮り始めた頃にフライシャーのやり方は経済的な原則から導き出されたものだったのだということに気付き、大きな影響を受けました。というのも映画を撮影するということを構成する、わかりやすいひとつの原則にその時までなかなか気付いていなかったからです。
 具体的に言いますと、商業映画の場合一日に撮影できるカット数が10〜15カットと決まっています。太陽が出て沈むまでは動かしようのない時間の制約なわけです。それでいて予算のないスケジュールのコンパクトな映画で、もし一日に三つのシーンを取らなければいけない場合、ワンシーンに三カットぐらいしかかけられなくなるわけです。
 例えばヤクザが誰かを撃って逃げるシーンを撮るとしたら、ピストルで撃つカット、誰かが倒れるカット、逃げるカットとこの三カットで終わりなわけです。ところがちょっとした才能があればワンシーンをワンカットで取れてしまうことがあります。すると一日の撮影時間が短縮されたり、より多くのシーンが撮れるようになる。これは本当に切実な撮影現場での悩みでもあるのですが、フライシャーの映画にはそのようなワンカットで撮ったシーンが至る所にあるわけです。そのように撮る才能は映画史上フライシャーがダントツに素晴らしいと思います。
 ただこれらは経済的な理屈から割り出されるカット割なのですが、フライシャーはそれを超えてと言いますか、ワンカットであること、編集されていないことがある種の驚きとなって現れるのです。先ほどの『静かについて来い』でも、ドラマチックな転換点で大きく物語が展開する瞬間に、編集によらないワンカットで見せることは経済的なことだけでない、映画表現の原点がある気もします。その面でいつもフライシャーには影響を受け続けています。

CR ワンカットで撮ってしまうという話は次にお見せしたい2つの抜粋映像と非常にうまく話が繋がるように思います。それは『CURE』と『桜の代紋』(1973、三隅研次)の尋問シーンについてのものです。

KK『桜の代紋』(笑)。

CR その反応を見ると余程お好きなのですね。

KK ここで出るとは思わなかったです。素晴らしいチョイス。

抜粋上映

KK『桜の代紋』は大好きな映画です。改めて今の場面を見てみるとフライシャーですね。まったく同じ、ある種の経済原則から割り出した撮り方で、それが強烈な構成にもなっている。日本映画の中にもやはり、すごい才能のあるプログラムピクチャーの監督がいたわけです。マキノ雅弘もその一人なわけですが。
 皆さんも驚かれたと思うのですが取り調べが終わった後、走っている護送車の後ろから脇に突然車が出てきたと思ったら、前にも赤い車が割り込んできて挟み撃ちにするシーンがワンカットで撮られていましたよね。
 ハリウッド映画だと同じシーンを何十カットも重ねるだろうし、それはそれで贅沢な娯楽だと思うんですけど、予算もスケジュールもない中でもたったワンカットで撮れてしまう。護送車が挟み撃ちにされた瞬間のリアリズム、ある種の衝撃、そのことが起こった確実性というものはワンカットだからこそ伝わる、強烈なものになっていますよね。
『桜の代紋』の取り調べのシーンでは、二人の人物が机を挟んで対峙し、クロースアップのカメラが横に入って壁の一面へカメラを向けただけの1番安いやり方で済ませてしまう。『CURE』でも同じことをやっています。付け加えると、僕はあるシーンを一方向からのみで撮って、見える範囲の中でそのシーンのドラマをすべてやってしまおうとする時があります。全部は見せられないのですが、その方向からずっと見ることによって湧き上がる映画的な興奮のようなものは時折自分の映画にも取り入れたいと思います。それは何に通じているかというと、やや気恥ずかしいですが世界最初の映画、リュミエール兄弟の「工場の出口』(1895)をやりたいということです。たった一面だけで全部を見せるというまさに映画の基本がそこにはあるように思うのです。

CR 黒沢さんの映画でもワンカットの長回しがよく見られますが、リチャード・フライシャーや三隅研次にも同じことが言えます。また三隅研次の場合、彼のショットというのはどれを見ても一発で三隅と分かるくらいに作家のスタイル、個性が現れていると思います。三隅研次と黒沢さんとの間で共通するのは、一つのフレームの中に敢えて別のフレームを持ち込んでいくということが言えるのではないかと思います。例えば、今ご覧いただいた『桜の代紋』では、金網が入った護送車の窓越しに敢えて人物を撮っており、黒沢さんもそのようなことを繰り返しされているような気がするのです。

KK 映画はカメラをどこに置いてもよく、またどこから撮っているかを観客に分からせる必要もありません。しかし、理屈ではよくわからないのですが、「明らかにここから撮っている」ということがドラマを強烈に引き立てる瞬間があるような気がします。撮っているという行為が客観性のようなものを持ってしまう瞬間なのかもしれません。何かが起こっているのをそのまま撮るのではなく、窓越しにそれが見えたとしたらどう見えるのかを撮ってみると、起こっているドラマに客観性が生まれ、深みのようなものまで現れ、不思議な映画的効果を発見することがあります。私自身、知らず知らずのうちにリチャード・フライシャーや三隅研次の映画を見てそういうものをやろうとしているのだろうと思います。
 もう一つ鮮やかに印象に残るのは俯瞰で撮っているものです。これはフライシャーにも三隅にもありますし、他にも才能のある監督の映画には必ずどこかにあります。ドラマが起こっている瞬間のカットがちょっと上から、二階から見たのかビルの上から見たのか、いろいろなケースがありますが、ふと上から見た俯瞰ショットが入っています。なぜだかはわかりませんが、そういうのがもの凄く印象的に記憶に残る。どこで俯瞰ショットを入れるか、それは本当に監督の才能にかかっているのだろうと思います。

CR ここでフライシャーや三隅のような明らかに黒沢さんに影響を与えたと分かる監督ではなく、あまり黒沢清と結びつけた人が少ない監督の抜粋を見たいと思います。エリック・ロメールなのですが、黒沢さんとロメールの間の共通点は二人とも感情の浮き沈みや流れをじっと見ていくことに関心がある映画作家ではないかと思います。ただ、エリック・ロメールは人間の感情を言葉を通して表現していくのに対して、黒沢さんは沈黙を通してそれを捉えているのではないか。そこで今日ご覧いただきたい作品は『三重スパイ』(2003)という映画の抜粋なのですが、『スパイの妻』(2020)という黒沢さんの映画を拝見したときにこの映画のことを思い出しました。また『スパイの妻』と『三重スパイ』についてもうひとつ重要な共通点を挙げたいのは、大きな歴史というものを敢えて二人のカップルから炙り出していこうとする点だと思います。

抜粋上映

KK『三重スパイ』の影響で『スパイの妻』を制作したのは本当です。戦争中の日本と満州の物語であるにもかかわらずほとんど室内劇のようになっており、外で起こっていることの影響が室内に及び、反対に室内で画策したことが外に影響を及ぼしているらしい。そのように外の状況をほとんど描かないまま戦争をテーマに扱えるだろうかということに挑戦したのが『スパイの妻』でした。『三重スパイ』も同じですよね。
 今『三重スパイ』を見ると、『スパイの妻』と同じようなことをやっているなあと恥ずかしくなりました。
『スパイの妻』を撮影するもっと前に、『三重スパイ』を東京日仏学院で上映して私が解説した記憶があります。その時、室内と外が影響しあうという映画で『三重スパイ』に絡めてトビー・フーパ―の『スポンティニアス・コンバッション』(1989)を挙げ、短く見せた記憶もあります。設定は全然違うのですが、室内で主人公が怒りを発するとそれが影響して窓から遠くに見えている原子力発電所がメルトダウンを起こしはじめるというすごい瞬間があるのですが、それを確かここで見せました。
 エリック・ロメールは決して会話だけの作家ではなく、もっといろいろなものを撮っているはずなのですが、どうしてもロメールというと閉ざされた避暑地の別荘などで会話を中心にドラマが進んでいくという印象が強くあります。そのスタイルはすごいものだと思いつつ、私はなかなか会話だけでドラマを成立させてしまう度胸や勇気がありません。やはり映画は会話がなくても見ている人がスクリーンに釘付けになるような瞬間を作らないとまずいのではないかということに囚われているからです。なかなかエリック・ロメールのようにはいきませんね。

通訳:藤原敏史

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