「黒沢清を迎えて ― 亡霊たちの社会」黒沢清×オリヴィエ・ アサイヤス 『パーソナル・ショッパー』アフタートーク 2024/6/11@東京日仏学院
オリヴィエ・アサイヤス(OA) 黒沢さんにお会いできてとてもうれしいです。
黒沢清(KK) こちらこそ本当に一度お会いしたいと思っていました。初めての出会いがこうやってリモートというのも不思議なものですね。今日はよろしくお願いします。
OA 実は以前にもお会いしたことはありますが、きちんと映画のことをお話しするのは初めてになると思います。最初に申し上げたいのが、黒沢さんの『蛇の道』、とても好きでした。
KK ありがとうございます。
──ぜひ『蛇の道』についての感想ものちほどお聞きしたいと思いますが、まずは今回黒沢清監督が「フランス映画でこの一本」という私たちからのお願いで、『パーソナル・ショッパー』(2016)を選んでくださった理由からお話しいただければと思います。
KK みなさんはご覧になっていかがだったでしょうか。本当に恐ろしい映画だったはずです。おそらく幽霊との遭遇という出来事をここまで真面目に、本格的に描いた映画はたぶん映画史上初めてだと思います。素晴らしい映画でした。この映画は2016年のカンヌ国際映画祭で監督賞を受賞し、評価されている傑作なのですが、日本ではホラー映画という形で扱われず、この映画の本当の怖さ、恐ろしさがまともに語られたのをあまり見たことがありません。非常に残念だなと常々思っていました。それで今回僕が好きなフランス映画を一本上映して良いということだったので、迷わずこの映画を紹介したいと思いました。幽霊が出てくる映画というのは古今東西たくさんあるのですが、この映画ほど死んだ人間と生きている人間が接近しつつ、断絶してしまっているという状態をつぶさに描いた映画は他になかったのではないか。これをホラーというジャンル映画なのかは断定できませんし、むしろそういったジャンルから完全に逸脱してしまった映画だと言っても良いかもしれません。
とにかくまず非常に特徴的なのが、主人公が死んだ兄にとにかく会いたいと思っており、兄からのコンタクトをずっと待っているという設定です。実際に兄らしき霊が接触してくる中で、普通こういう展開であれば非常にノスタルジックであったり、センチメンタルなある種のファンタジー映画になっていく場合が多いと思います。たとえば僕がかつて撮った『岸辺の旅』(2015)などはそういった映画です。幽霊と人間との心の交流を描いた映画のひとつでした。ただ、この『パーソナル・ショッパー』は本当に会いたかった兄の霊が接近すると、クリステン・スチュワート演じる主人公にとってはやはり怖いんですね。どうしようもなく怖い。ここがぐっとホラー映画に接近するところなんですけども、幽霊はどんなに親しい人間的な付き合いがあった人であっても、一旦幽霊となるとその存在との遭遇となればやはり怖い。ここがこの映画の最大の肝だろうと思っています。
じゃあ何か幽霊に悪意があるのかというと、中盤ではiPhoneで明らかに悪意を持って主人公を脅かす存在も出てくる。でもあれは結果人間だったわけで、悪意のある人間が持っている恐怖と幽霊の恐怖はまったく違います。幽霊には悪意があるとは思えないわけですね。ではなぜ幽霊が出現してくるのか。その理由がまったくわからない。つまり「わからないからこそ怖い」という展開になっています。こういった幽霊映画の場合、一方ですべてが主人公の妄想なのかもしれないという余地をつくっておくというやり方もあります。ただ、『パーソナル・ショッパー』は本当に幽霊が現実に存在する証拠が画面からいくつも窺える。ここがまたこの映画の本当に恐ろしいところだと思います。
みなさんよく覚えていらっしゃいますでしょうけど、主人公が見てもいないときに、コップが宙に浮いて下に落ちて割れます。その後主人公が片付けることになる。誰も別に怖がりもしない。そういう物理的現象が起こっている。あるいは主人公も誰も気にもしていないにもかかわらず、勝手にホテルのエレベーターのドアが開き、何も映っていないのに自動ドアがふっと開いていく。どういった表現なのでしょうか。誰も気付かないけども、明らかに幽霊が現実に存在していると言えばいいのか。妄想ではない、客観的事実なのだという表現ですね。このような表現を映画で使うというのは相当勇気がいることだと思います。
「なぜ幽霊は怖いのか」というのはとても難しい疑問なんですけれども、その答えは生きている人間にはわかりようもありません。しかし、かつて生きていた人間が自分の兄ほど親しい存在であっても、一旦死を経験すると何かが大きく変容してしまう。イエスかノーかのコンタクトを取ることはできる。しかし、死を経験した存在はやはり生きているものとは明らかに何かが大きく違っている。そのことを受け入れなければいけない。それがこの映画から汲み取れる死についての考察です。ですからこの映画は、人間と幽霊の遭遇を描いた映画ですが、その裏に「死とは何なんだろう」という本当に壮大なテーマがあると考えています。僕の友人である高橋洋という脚本家で、『リング』という映画の脚本を書いた男がいます。彼は古今東西の幽霊映画に通じているのですが、この『パーソナル・ショッパー』を見ていなかったので「絶対見ろ」と勧めました。そして彼は見た後に一言、「やられた」とつぶやいていました(笑)。それがこの映画に対する僕の感想です。本当にありがとうございました、こんな恐ろしい映画をつくっていただいて。そこで一ファンとして本当にシンプルな質問から始めさせてください。どういったきっかけでこんな恐ろしい映画を撮ろうとされたのでしょうか。
OA 実はこの作品がまず私の頭の中で形を取り始めた時は、まったく現実的な映画で、不可視なもの、見えないものは存在していませんでした。この映画で最初に考えていたのは、パリで過ごす自分のアイデンティティを見失っている女性がいて、やっている仕事に興味を持てず、満足できず、芸術であるとか、精神世界の中にある種の救い、救済を求めていきます。そこからヒルマ・アフ・クリントという初期の抽象画家を映画の中に登場させることを思いつきました。ヒルマ・アフ・クリントの画は最初期の抽象絵画であり、降霊術の世界で霊魂との交信が彼女のインスピレーションとなったと言われています。このヒルマ・アフ・クリントの逸話から、降霊術や霊魂との出会い、さらには見えない世界との繋がりというふうに物語の構成が移っていったわけです。
ジャンル映画について考える時に重要な影響となるのがアメリカ映画です。しかし私の考えでは、アメリカ映画は目に見えないものに対して非常に二元論的な繋がりを持っています。見えないものは恐ろしく、ミステリアスで、危険だとされますが、それは私の視点とは異なります。むしろ目に見えないものは目に見えるものと同じくらい私たちに恩恵を与えてくれるものでもあり得るかもしれない。私たちに神秘を与えるとともに、複雑さを持って、私たちに問いかけてくる。目に見えないものは不吉であるという考えをあえて拒絶し、むしろ謎めいたものという考えとともにこの映画に臨みました。私自身、見えないもの、不可視なのものの存在を深く信じていて、親しみを感じてさえいます。私たちは皆それぞれ、そうした存在に囲まれて生きているのではないでしょうか。映画はそうしたものをとらえようとしてきました。それが黒沢さんの映画を私が好きな理由のひとつでもあります。なぜならばその見えない世界が持っている謎めいたものの不思議さに対し、真剣に向き合って本物の表現としてそれを映画にしている。
KK ありがとうございます。見えないものと見えるものの境目を映画で描くことは、非常に興味を持っています。ただ、見えないものを何となくほのめかすことはやりますが、『パーソナル・ショッパー』はそこからやはり一歩踏み込んでいる。さっきも言いましたけど、主人公は見えていないかもしれない。誰が見ているかもわからない。しかし、明らかにそれは映っていると。映っているのかいないのか、これは映画にとって大きなことです。かすかではあってもエクトプラズムの白い光がふわっと見えたりと、何かが確実に存在しているわけです。それはほのめかすことを通り越して、明らかに存在の痕跡をそこに見せています。肉眼では見えないけども、フィルムではその存在がわかってしまう。そういった映画の特徴を熟知して、「存在しているものが映った」というふうに捉えているところがこの映画の本当にすごいところだと思います。
それとクリステン・スチュワートさんが本当に素晴らしいんですけども、彼女は目に見えないものも存在すること、あるいは生きていることと死んでいることの境目について、本当に理解されていらっしゃったと思います。企画段階で彼女はこのことについてすぐに理解されたのでしょうか。それともアサイヤス監督が相当に指導されたことで、存在するのかしないのか、どちらなのかがわからないものにちゃんと向き合い、そしてその存在を確認するといったお芝居を何の疑問もなくやり通せたのでしょうか。
OA 私が指導したということはありません。クリステン・スチュワートは直感的に、かつ深くこの映画のコンセプトである「見えるもの、見えないもの」を理解した上でこの映画に臨んでくれました。彼女はただの俳優以上の存在であり、彼女自身には映画作家の要素があり、実際、彼女は現在、初監督作品を手がけています。クリステンは本作のほとんどのシーンでひとりであり、私はフレームの外側から演出をし、フレームの内側で彼女が演出しているような撮影現場だったと思います。彼女が孤独である瞬間、多くの移動シーン、どのように動くか、そうした一つひとつの時間も彼女自身が決定していました。そこに存在するのに的確だと感じられるように、長さや動きは彼女自身が決めていきました。
とくに私にとって重要だったのが、黒沢さんのおっしゃったコップが割れるシーンでした。あのシーンはチェコでセットを立てて撮影したシーンですが、コップが落ちることを前提に設計されたセットです。私にとってあの瞬間はこの映画の中でも最も重要な瞬間であり、あの瞬間、あのショットを実現するのに適切なパースペクティブ、距離、時間を見出すようにセットが用意されました。あのシーンは、主人公が冒頭から探し求めていたもの、つまり兄とのコンタクトが実現されるシーンではありません。彼女は失望しかけ、それを諦めかけています。しかしその彼女の背後で、彼女の知らないところで、まさにそれが起こっている。このシーンで最も重要なのは、そうしたフラストレーションの感情です。最初から彼女は兄の霊魂とのコンタクトに信仰と言えるほどの気持ちを抱いていたのに、それが実現されようとしているその瞬間、その信仰は失われてしまう。しかしその後、映画は彼女にもう一度チャンスを与えることになります。
KK やはりさっきも言ったんですが、兄に会いたいけど、いざ出てきそうになると怖いだろうと思うんです。だけどなぜ怖いのかは本当によくわからない。馬鹿な質問かもしれませんけど、どうして見えないものが出てくると人はこうなるのか。アサイヤス監督はその理由を説明できますか。
OA パラレル・ワールドが存在し、そこに亡霊たちが住んでいるという考えはもちろん恐怖を抱かせます。私たちは自分のそれまでの認識、世界の見方を失ってしまうわけですから。それによって必然的にアンバランスな感覚というか、怖くなったり、心配になる、怯える感覚になるのは当然のことでしょう。死者たちの世界があるということを信じてしまったら、私たちは不安になり、恐怖を抱きます。私自身が信じていて、そしてこの作品も語っているのは、そうした死者の国というのが絶えず私たちの中に存在しているということです。それは心配や不安、苦悩になります。芸術の実践というのはしばし、そうした別の世界へ歩み寄る形を探す、そうした世界と私たちの関係を平静化するためのフォルムを探すひとつの方法であるのではないでしょうか。
KK あまり怖いと強調しない方がいいのかもしれません。感覚的なものかもしれませんけど、これはいわゆるホラーというジャンルの映画ではないと思いました。そう思える理由はふたつあって、ひとつは音の怖いシーンは怖いんですが、音楽は絶対に怖い音楽を使っていないという点がひとつ。それと主演のクリステン・スチュワートさんが怖い目に遭うんですけれども、必要以上に怖がらないことです。彼女が本当に怯えだせばどんどんホラー映画になるんですけど、彼女は怖いと思いながらも兄と出会うという強い心を持っています。だから過剰には絶対怖がらない。その2点によって、本当に怖いシーンがたくさんあるにもかかわらず、全体としては幽霊と遭遇してしまった人間の辛さだったり、すごみを感じさせる。そして最終的にはある種の感動へと導かれます。決してホラー映画では味わえない何かになっているのだなと思いました。アサイヤス監督としては、怖いけれども過剰に怖くしないようにと心がけたのでしょうか。
OA この映画は「喪に服す」ことについての映画だと考えています。喪に服しているあいだ、私たちは自分たち自身と同時に、失った人の影と共に生きていると思います。失った人をとても近くに感じ、生きている自分たちの世界と死者たちの世界との境界が非常に薄く感じられます。ジャンル映画としてのホラーの形式をときに借用してはいますが、この映画は心の中の探求を行く人に寄り添っていく作品であると思っています。彼女は自分に問いかけています、死者の世界は現実なのか、そこにアクセスすることはできるか、死者の世界と直接に行き来ができる扉を開けることはできるのか、それとも彼女が体験していることは自分自身の心の中の冒険なのか。そしてこの作品が導き出す答えというのは、喪に服すとは心の中の冒険であるということです。見えないものとは、とどのつまり自分の無意識であり、私たちの中にありながら私たちを超えるものだと。
KK なるほど。この映画で素晴らしいのは、幸せだった過去の回想や写真のような、ノスタルジーに浸る映像がほとんど何もないところだと思います。主人公にとって喪に服すということは過去を懐かしむことではなく、今目の前にいるであろう死んだ兄の幽霊にどう対処するかということであって、まさに今を生きることが服喪の問題になっていますね。
OA おっしゃる通りです。それに『蛇の道』も、同じくジャンル映画の約束事に従って、ホラー性やアクション性といったある種の歪みを受けているけれど、本質的には喪の映画だろうと感じます。つまり、人間の最も根源的な感情のひとつである子どもを失った悲しみについての映画です。それは復讐という形をとるわけですが、復讐を果たすことで逆に何かが心の中で壊れてしまい、さまよっているような感覚もあります。最初、それは一人の人物の感情だと思われるけれど、次第に二人に共通する感情であるということが見えてくる。その見え方が素晴らしいと思いました。
KK そう言っていただけると本当にありがたいです。フランスで再び映画を撮れることになってうれしかったのですが、僕はフランスの社会状況やそこに住んでいる人たちの心の中までちゃんと理解することができません。だけど、ジャンル映画の規則に忠実な作品であれば日本人の僕にもできるかもしれないと思ったんです。娘の喪に服す一方で、復讐という行為によって普通の人間が自らの意志で犯罪者となっていく。決してハッピーエンドにはならない物語でもあるだろうと思っていました。
ジャンルに関して質問なのですが、アサイヤス監督には『パーソナル・ショッパー』や『デーモン・ラヴァー』(2002)のようなジャンル性が色濃く漂う作品がある一方で、『夏時間の庭』(2008)や『アクトレス〜女たちの舞台〜』(2014)といったジャンルからまったく外れたドラマもありますね。ジャンルに対する距離の取り方や付き合い方、あるいは突き放し方といったものはどのようにコントロールされているのでしょうか。
OA 私自身のジャンルに対する付き合い方はずっと変わっていません。私の映画づくりは、ジョン・カーペンターやウェス・クレイヴン、デヴィッド・クローネンバーグといった作家によるホラー映画から根本的な影響を受けています。それらの映画は、おそらく普通のリアリスト映画では到達不可能な、人間の心の中のある種のゾーンに入り込むことができると考えています。
KK 今のお話で、僕も間違っていなかったんだなということが確認できました。
──お二人の映画、とくに『パーソナル・ショッパー』と『蛇の道』では女性の孤独に迫っていらっしゃいます。『パーソナル・ショッパー』の場合は、兄との再会をめぐる物語と重なり合いながら、クリステン・スチュワートが自分自身に入り込んでいく姿が描かれています。それは先ほどお話のあった、自分自身と向き合うための「心の旅路」という側面ですね。
OA おっしゃる通りです。それにこのふたつの映画の主人公の女性は、両者とも異国にいることでますます孤独に追い詰められていきます。その中で自己の探求を続けていくと、最終的にはそこで見出した自分自身と和解しなければならなくなる。それこそが人間の宿命です。こういったテーマは、たとえば『クリーン』(2004)でもとりあげていますが、『パーソナル・ショッパー』ではホラーというジャンル映画の枠組みを使うことで、これまで以上に人間の心の深いところに入り込むことができたと思っています。
KK そこから生まれる、ちょっとした罪悪感につけ込んでくる悪意があるのも怖いところですね。
──『パーソナル・ショッパー』の最後の長回しのシーンはいかがでしょう。
KK 本当に衝撃的でもあり、感動的でもありました。オマーンという場所に行って、しかもすぐに「私はここにいる」と幽霊が宣言することに驚かされる。彼女にずっとつきまとっていたのか、世界のどこにでもいるということなのか。どちらの解釈が正しいのかはわからないけれども、結局のところ逃れられない。でもそれを認めるしかない。そこが最後に彼女が至った地点だったんでしょうね。
OA 私からこのシーンについて説明するのは難しいですね。それはこの映画そのもののミステリーに最も属している部分なので、監督が何かを明かすことでそのミステリーを損なうべきではないと思うからです。ただ、このラストシーン、とくに最後の台詞は、私というよりクリステン・スチュワートが生み出したものです。元の脚本では「It’s me?(これは私なの?/私の思い込みなの?)」という台詞だったのですが、彼女はうまくいかないと言って「It’s just me?(私だけなの?)」への変更を提案してくれました。それによってこのシーンの意味合いがよりはっきりしたと思います。ガラスの壊れるシーンで一度彼女が逃してしまった霊魂と向き合うためのチャンスが再びここで与えられる。同時に、改めてある種の啓示を受けるわけです。それが何かということを表現するには、やはり「It’s just me?」でなければならなかったんです。
──黒沢監督とアサイヤス監督は同い年でいらっしゃいます。お二人とも映画を深く愛しながら多種多様な映画に挑戦してこられました。最後となりますが、お互いに応援の言葉を交わしていただければと思います。
KK 正直、今の日本で自分と似たスタンスで映画を撮っていると思われる監督は誰もいませんが、フランスには何人かいらっしゃって、その一人がアサイヤス監督です。今日はそのことを改めて確認できて本当にうれしかったです。世界には仲間がいると思えるだけで勇気付けられます。ありがとうございました。
OA 私は黒沢監督の映画に初めて出会った時から、ずっと深く尊敬してきました。最初に見た『CURE』(1997)は、今も繰り返し思い起こすほど私の記憶に刻まれた映画です。そして『パーソナル・ショッパー』のような映画は、すでに監督である私の手を離れて、映画自身が自らの生を生き始めています。その旅の中でこの映画が黒沢清という人に出会い、そこでご自身が私の想像していた通りのことを体験してくれたということに大変光栄かつうれしく思っています。ありがとうございました。
司会:坂本安美
通訳:藤原敏史