そしていつかは終わる

梅本健司

 過去を持たない人物たちを中心にしていたかつての黒沢清にあって、復讐劇である『蛇の道』(1998)の哀川翔は例外的なひとりと言えなくもなかった。だが哀川に用意された過去=復讐の理由はほぼ後付けであり、説明的すぎるがゆえに何も説明していないも同然だったのだから、まだ結末を知らずに見ている観客にとっては、やはり彼もきわめて黒沢的な、過去を持たずに現在をつねに生き直し続ける男だったと言ったほうがよいだろう。哀川の揺らぎのない演技も相俟って、彼が演じた新島はどれだけ残酷な行為に及んでも動じない機械のようだった。しかし近年の黒沢清の登場人物たちにとっての過去はただの言い訳として機能したり、捨て去られたりするだけのものではなくなってきている。たとえば『散歩する侵略者』(2017)における松田龍平は、宇宙人に乗っ取られ、たしかにそれまでの人格を失うものの、彼にとって主たる問題となるのは、その器=身体に搭載されたこれまでの記憶と破綻しかかった妻との関係だった。とくに2000年代後半からの黒沢は、現在だけではなく、現在において過去がいかに現前するのかという問題を最大の関心事にしてきたように思う。現在と過去の相克を経て、登場人物たちは決定的な変化の後を生きることになるのだ。夫婦の関係──つまり映画以前から続くカップルの関係がより前面に出たのも、このことと無関係ではないのかもしれない。
 ところが今年に入ってから配信(?)された、『CURE』(1997)と『叫』(2007)のもっとも冷酷な部分を煎じ詰めたような『Chime』を見て、そうした現在の黒沢像が揺らがなかったと言えば嘘になる。吉岡睦雄もまた、凄惨な出来事の次の瞬間にはそれをまったく忘れてしまったかのように暮らしていたのだった(もっとも彼は紛れもなく『CURE』以後を生きているのだが)。さらに25年以上前に撮られた『蛇の道』をリメイクするというのだから、それはそれで身構えたものだ。黒沢はまさに最近の過去を忘れて、より以前に戻ろうとしているのではないか。しかしながら、そんな不安を裏切るようにリメイク版『蛇の道』は、後ろ向きな懐古趣味などとは無縁の、現在の黒沢清にしか撮れない新鮮な魅力を湛えた作品だったのである。

© 2024 CINÉFRANCE STUDIOS – KADOKAWA CORPORATION – TARANTULA

 とはいえ物語は基本的にオリジナル版と変わらない。娘を殺された父親と、一見部外者に思えるもうひとりの人物が娘の死の真相を探るべく、関係のありそうな人々に残虐な拷問を繰り返していく。ただし、今回は舞台をフランスに、復讐に協力する新島を日本人の女性、新島小夜子に大胆にも変更しており、そのことがいくつもの新しい要素を生み出している。異国の地で日本人女性を主人公にしたという点では『旅のおわり世界のはじまり』(2019)に近く、ウズベキスタンで撮られた同作でもそうであったように、女性であること、外国人であることが、あからさまではないながら問題となる。たとえば冒頭、マチュー・アマルリック演じる男を誘拐するさいに、小夜子は何をするでもなくその男の前に立ち止まる。すると男は彼女にフランス語と英語を混ぜながら笑顔で話しかけ、何の警戒心もなく近づいてくる。フランスという地、フランスに住む人々にとって小夜子の存在は当たり前ではないのだ。進んで自らを囮として晒す小夜子もそのことを深く理解しているようである。このような無意識の差別はことさら本作のテーマとして浮かび上がることはなく、演出やさりげないセリフのレベルで入れ込まれているにすぎないものの、それによってオリジナル版では考える必要もなかった新島の社会的な立ち位置が、今回は具体的な状況を伴って見えてくる。
 職業は数学塾の講師から精神科医に変更され、付随して吉村という日本人男性の患者との場面が付け加えられる。「終わって困ることがあるんですか。本当に苦しいのは終わらないことでしょう。あなたならできます」という小夜子の言葉に従うように、最終的に吉村は自死するのだが、このエピソードを、かたや何人ものフランス人男性を操っている小夜子の支配力を強化するものとして見るのは慎むべきだろう。拷問する男たちが鎖に繋がれているのに対して、吉村は自由に部屋を動きまわることができ、その点で小夜子は彼に対する優位性を必ずしも持ち合わせていない。一度目の診察の場面では、バックショットで捉えられたり、フレームに切り取られたり、あるいはピンボケされたりすることによって、顔が見えなくなった吉村がフラフラと椅子に座る小夜子に近づいてくる。声で吉村を演じているのが西島秀俊だと誰もがわかるのだが、その抑揚を欠いた声がじつに気持ち悪い。手足をさらに細長く見せるための黒いニットとパンツを西島に着させる黒沢清は、この俳優を二枚目と見做すことなく、どこまで不気味な人として使い続けている。結局吉村についてはよくわからない。しかし、彼の存在は小夜子という人物についての理解を促す。彼は小夜子に歩み寄りながらさまざまなことを質問する。「ご出身は?」「ご家族は?」「ご結婚は?」、小夜子はすべての質問に答えるわけではないものの、それに対する反応は否応にも小夜子を登場人物として立ち上げてしまうのである。
「ただひとり復讐のシステムのどこか外側にいた哀川版に対して、今回は主人公が復讐の外側にいるのではなく、まさに復讐の中心にいて、そこから一歩も抜け出せない、怪物ではなく人間である。主人公を、恐ろしくもあるけれど、哀れでもあり、愛情や憎しみが残っていたりと弱い部分もある人間として捉え直せないだろうか、ということが脚本を再構成するうえでの最初のテーマでした」(2024年6月5日、日本外国特派員協会記者会見での発言)。黒沢がそう語るようにここまで述べてきたリメイク版における変更は、小夜子をまさにただの人間に引き戻すためのものだろう。とはいえ、黒沢は小夜子に扮する柴咲コウに感情的な演技などほとんどさせていないし、アクションの動機付けとしての感情をくどくど説明する語りもしていない。むしろ柴咲コウはこの映画のなかでも特権的と言っていいほど抑制された演技を求められており、小夜子の行動原理も依然として掴めない。しかし映画において表れる情緒とは、演技や、あるいは主観的な映像、音響などによってのみ示されるものではない。三宅唱監督が『夜明けのすべて』についてのインタビューでも語ったように、映画を見るということは、「さっき見たものの記憶とともに見えないものも同時に感じながら見ること」である。小夜子に纏わる諸々の要素は、彼女を理解可能な人物にするとは言わないまでも、見えない彼女の側面を想像させる(仮に小夜子に対する観客の歩み寄りを一切禁じたいのであれば、この映画には不必要なものが多すぎる)。こう言ってよければ、オリジナル版の新島はそもそも理解可能かどうかでさえ問題にできなかったが、小夜子は、人物像に迫る道筋は用意されつつも、結局は理解できない人であるということこそが重要なのである。

 ただの人間であることは、内面や過去に関わることだけに留まらない。哀川翔演じる新島の機械性は、いかなる状況に巻き込まれようとも、行為に及ぼうとも、動じないし、疲弊しないところにあった。述べたようにそれは哀川の演技によるものもあるが、それだけではなく彼の呼吸音がほとんど聴こえないためでもある。もちろん哀川自身は無呼吸で演じていたわけがないし、耳をすませば彼の息遣いがまったく聴こえないわけでもないのだが、オリジナル版で相方を演じた香川照之の常に錯乱した演技からくる激しい呼吸音によって、哀川の息遣いはある程度目立たなくなっていたのである。内面や過去の有無だけではなく、そうした抽象的な身体性が、哀川版新島の非人間的なところを形成していたと言えるだろう。一方リメイク版において、柴咲コウの息遣いはハードなアクションを伴えば伴うほど画面に響き渡る。この点はダミアン・ボナールとの男女コンビにしたことも大きい。ふたりが同時に呼吸をしていても、はっきりとどちらの声か聴き分けることができるからである。加えて、すでに死体となった男にナイフを突き立てる場面では、冒頭でも響いた壊れた蛍光灯から発せられるような音の後に、心拍音がはっきりと聴こえてくる。それは動揺か何かの感情表現というよりも、復讐の身振りによってはじめて小夜子に血が通う瞬間のように思える。

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 オリジナル版からかなり変更された三人目に誘拐する男の特徴からも、こうした小夜子の人間らしい身体性に黒沢が極めて自覚的だったことがわかる。小夜子と、ダミアン・ボナール演じるバシュレの誘拐は毎度のこと計画通りにはいかないのだが、ここでの失敗はより大きく、スリマル・タジによって演じられた、見るからに屈強な男クリスチャンにふたりは返り討ちにあいかける。なるべく三人の全身が収められるように距離を取られたカメラは、前田敦子による見事なアクションを捉えた『Seventh Code』(2013)とは異なり、むしろ喧嘩の経験など乏しい人々の鈍いアクションこそを強調するためのものだろう。なかでも巨漢ふたりの取っ組み合いに割り込めない小夜子の戸惑いは際立つ。 

 こうしてリメイク版『蛇の道』は脚本の変更や柴咲コウの声も含めた身体を通して、小夜子に人間味を帯びさせてきた。しかしながらもっとも彼女の人物像を立ち上げてもいいはずの場面で、小夜子は人間らしくない。小夜子の自宅は四度見せられるものの、彼女がどう生活しているかなどはほとんど示されず、初回を除けば日本にいるらしい夫と常にビデオ通話をしているだけだ。最初の通話場面で小夜子はパソコンの前には姿を見せず、画面横で静止しており、その様子はとても人には見えない。あるいは、すでに電話に応じているところからはじまる二度目の通話場面において、小夜子はパソコンの画面越しに夫と正対しているのだが、どこかふたりの会話は噛み合っていない。夫の言葉に小夜子は応対しながらも微動だにせず、それは会話というよりも何度も再生したことのあるビデオにあらかじめ用意された答えを棒読みしているのに近い。少なくとも、そこでは夫を演じた青木崇高の穏やかで軽薄な演技と柴咲コウのニュアンスを欠いた演技の差もあって、もっとも近しい間柄同士の会話とは感じられない異様な空気が流れている。まるで廃人同然の小夜子が自宅でひとり佇む場面をそのように復讐の合間に挟み込むことで、彼女の復讐は人間らしさを取り戻すための戦いにも思えてくるのである。
 三度目は小夜子の娘も殺されていたことがわかった後のラストシーンにあたる。パソコンの背によって顔下半分が隠された小夜子の目を際立てるショットの迫力をここで詳しく述べる必要もないだろう。忘れてはならないのはその瞳が何を睨みつけているのかということだ。言うまでもなくそれは夫にほかならないのだが、その夫はまるで『叫』の小西真奈美のように「昔のことは忘れよう」と言う。つまり小夜子の眼差しはそうして過去を捨て去ろうとする者たちにこそ向けられていたのである。過去を思い出せというその眼差しは、もはや過去をどうすることもできないがゆえに厳しく、鋭い。そのような『蛇の道』において、時間は当然のことながら巻き戻らない。

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