editorial
梅本健司
だがこうした、延々と延びる神秘的な道も、空に太陽が出ていないことも、すさまじい寒さもそうした何もかもの不思議さ奇怪さも、男には何の感銘も与えなかった。(『火を熾す』ジャック・ロンドン)
未開と文明化の狭間にあるマイアミの僻地、ひと気のないオレゴンの山奥やどこにでもあるような駐車場、あるいはどこだかよくわからない荒野に対し、われわれはアメリカの歴史の一端を再確認することもできれば、その豊かさや頽廃を感じ取ることもできるかもしれない。しかし、今回上映されるケリー・ライカートの映画の人々、とりわけ女性たちは、われわれのようにその景色を眺めることでなんらかの意味を享受しようとはしない。同じように一台の車で女性が旅をするために『ウェンディ&ルーシー』と比べられもするクロエ・ジャオの『ノマドランド』(2020)において、フランシス・マクドーマンド演じる主人公は自然とともにありつつも、眺めるという行為によっても、その広大さを確認している。一方で、ひょんなことからひとりの男性とボニー&クライドを演じることになる主婦が、または一匹の犬を連れてアラスカを目指す女性が、もしくは行き先を見失った三つの家族のうちのひとりの妻が、景色を眺めることがあっただろうか。確かに、彼女らは辺りを見ないわけではない。だが女性たちがそうするときは決まって何か─それも即物的な─を探しているときであり、景色の中に歴史、美しさ、醜さといった意味を見出すためではない。『ミークス・カットオフ』において、なぜスタンダードサイズを選んだのかという質問に答えているライカートの言葉はそうした登場人物たちに寄り添う姿勢を端的に示しているだろう。私は、この場所を脱ロマン主義的に映そうとした。ヴィスタでは撮らずに、スタンダードサイズで撮ることはそれに役立った。また、そうすることで1日7〜12マイル歩く移民たちを常に追うことができる。特に女性の登場人物からの視点では、周囲に何があるかわからない。ボンネットのせいで視界が開けていないからだ。(Dietrich, Joy. “O Pioneers! Kelly Reichardt’s Anti-Western.” The New York Times, Apr. 2011.)
ライカートの一部の作品が女性の視点から男性的なジャンルを再構築しているという、何人かによって論じられている指摘は決して間違えではないのだが、それだけではなくむしろライカートの女性たちは自身の身体で男性的なジャンルを解体していく。無論、女性の身体が男性に見られるということによってではない。ライカートにあって、女性の身体が男性の欲望的な眼差しを通して晒されたことは一度もない。女性の身体でジャンルを解体するとはどのようなことか。例えば、『リバー・オブ・グラス』において、女性主人公の相方の男性は周囲を観察することによって、自分たちがボニー&クライドのような物語を生きてはいないのだと悟るが、そうした事実を聞いた彼女の方はというと、一時は落胆しながらも、物語を継続させようと、「現実」を知らせてくる男に見向きもせず、ひとり突き進もうとする。西部劇を意識した『ミークス・カットオフ』では、男女が、役割を分断されているために、移動するか暗闇に包まれるかしないと別々のフレームに押しやられてしまうのだが、インディアンという絶対的他者を一団に加えることによってその制度は崩れていく。この契機となるのは女性主人公の発砲であり、またインディアンを一団にとどめ続けるのも彼女の諸々の行動によってである。同じく、ジャンル映画を再構築しようとする系譜に当てはめられるだろう『ナイト・スリーパーズ ダム爆破計画』は、初めてライカートがひとりの男性に焦点を当てたフィルムである。これは、いささか先走っていうならば、ライカートが男性的なジャンルを女性の身体で解体した上述の二作に対し、さらにそれらを男性の視点から反転させた映画であるかもしれない。『ナイト・スリーパーズ』では、先ほどの記述とは一見反するかのように男性主人公の前に女性の裸体が晒されるが、それを見た主人公は欲情するのではなく、慄いてその場を立ち去ってしまう。これは古典的ハリウッド映画のセクシャルポリティクスを転倒させた興味深い場面ではないだろうか。この『ナイト・スリーパーズ』と、ひょっとしたら、ロマンティシズムを排して見つめる女性たちという型を崩しているかもしれない『ライフ・ゴーズ・オン 彼女たちの選択』は残念ながらDVDスルーにとどまってしまっている(後者は2018年に日仏学院でのカイエ・デュ・シネマ週間で二度上映されている)。『ミークス・カットオフ』以後、撮影監督を務めるようになったクリストファー・ブローヴェルトによって、より暗くなった画面をスクリーンで見られないのは残念なことだ。初期四作品に続き劇場公開されることが待たれる。
さて、ライカートは女性に限らず、男性の描き方も大変興味深い。E.ドーン・ホールが「ReFocus: The American Directors」シリーズでライカートを取り上げた際に、『リバー・オブ・グラス』の主人公の父親である銃をなくした警察官や、主人公が去った後で子供を抱きかかえることになる夫に対して指摘しているとおり、彼らには明らかにジェンダートラブルが起きている。こうした男たちの系譜は『ライフ・ゴーズ・オン』の最初の二つのエピソードの中に見ることができる。しかし、『ライフ・ゴーズ・オン』においては、ホールがくだんの指摘をした節のタイトル「力無き男たち(POWERLESS MEN)」に端的に示されているような男性の弱さに焦点を当てたというよりも、社会的な階級が低くかったり、家庭での至上権を妻に奪われていたりしても、男性であるというだけで、時に社会や共同体に女性よりも簡単に溶け込んしまえるという潜在的な権力に注目している。
ふたりの男性を主人公にした『オールド・ジョイ』については拙評で論じたが、議論の経済性の関係で誰もが想起するであろうふたりの同性愛にも近い関係については触れらていない。これは、『ナイト・スリパーズ』の主人公とテロ仲間の男性との関係を経由し、あるいは最新作『First Cow(原題)』にもひょっとしたら繋がるかもしれない。 『First Cow』の予告編を見る限り『オールド・ジョイ』と同じく男性ふたりが主人公のようだが、驚くのは予告編の最後、彼らが抱擁を交わすのをクロースアップの切り返しで捉えていることだ。ライカートの映画において、男女だろうが、女性同士であろうが、男性同士であろうが、正面から向かい合い抱擁を交わすところをクロースアップで捉えたことはあっただろうか。そのことについてはまた別の機会に論じたい。