特集『来し方 行く末』

©Beijing Benchmark Pictures Co.,Ltd

 他人の弔辞を代筆するという仕事に付き纏うのは、その他人の人生のはじまりにも終わりにも基本的に間に合わないということだ。はじまりでも終わりでもなく、後からその人の人生の道中を窺い知ることしかできない。だから映画中盤、主人公は「第一幕でも第三幕でもなく、第二幕にもっとも馴染みがある」と言うのだろう。『来し方 行く末』という映画はそうしたはじまりでも終わりでもない途中であることを受け入れる、というよりも、かつて青山真治が「ただ「中間報告」をやっていくだけ」(nobody issue 35)と述べたように、途中を描くことこそ映画にふさわしいと信じた作品なんだと言いたくなる。『来し方 行く末』がいかに途中と向き合ったのか、今回は監督インタビューと3本の論考から迫る。

リウ・ジアイン インタビュー

——風通しのよさについて

 亡くなった人、これから亡くなる人をいかに悼むのかを語っている『来し方 行く末』は、必ずしも喪失感に覆われているわけではない。あるいは、物語を書き切れない脚本家を主人公に置きながらも、創作に伴う苦難が痛ましく強調されることもない。そうした悲しみや苦しみも感じさせながら、それよりも、こう言ってよければ、この映画は毎シーン映画を撮る楽しみに満たされているように思える。その印象を確かめるため、今回は具体的に3つの場面について伺った。

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──『来し方 行く末』は主人公と誰かとの一対一の対話場面がほとんどです。そうした場面はどこか閉じられた雰囲気を感じさせてしまう場合もありますが、この映画ではつねに風通しのよさを感じました。

リウ・ジアイン(LJ) 脚本段階で一対一の対話が占める割合が多くなるとわかっていました。一対一の対話は非常に撮るのが難しい。しっかりと用意しなければ、往々にして固定の長回しだけになってしまいますよね。しかもその対話が長く続いたり、たくさんの事柄が出てきたりすると、観客の注意力が散漫になり、映画を追い辛くなる。なぜその対話が必要なのか、それがどのような意味を持つのか、そういったことを踏まえて撮らなくてはいけません。なのでクランクインの2ヶ月前から、私がとても信頼する撮影監督ジョウ・ウェンツァオと、書かれている対話の場面についてどういう方式で演出したらいいのか話し合い、分析しました。どこに力点を置いて分析したかというと、まさに質問していただいたように、いかに開放的な雰囲気にするのかということでした。主人公とスマホを2台持っているワンさんが対話する場面、火鍋屋のワンさんとの対話場面、ガンを患っているファンさんとの対話場面。まずそうした場面を二人だけの場面と捉えないことが大事でした。人にとって重要なのは、そこで何を話したか、聞いたか、つまり内容というよりも、その人たちの距離感だと思います。距離によってその対話の意味は変わってくる。あるいはその場所にいるときの佇まいや小さな身振りによっても変化する。だから二人だけが言葉を発する場面を撮ったとしても、それは二人だけの関係を捉えているわけではないのです。二人がいる場所やそこにあるものとの関係にも注意を払う必要があります。
 同時に主人公の聞善ウェン・シャンはとても真面目な人です。相手の話しを必死に聞こうとする。彼らの会話というのは表面的なものではないわけで、やはりその内容によっても関係性は変化していく。ここでの関係性もまた、二人だけのものではなく、彼らがいる場所や周囲にあるものとの関係を意味します。それらの関係性の変化にも敏感でいるようにしました。

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取材・構成:梅本健司

リウ・ジアイン(劉伽茵)

北京電影学院(BFA)を卒業し、現在は脚本制作の准教授を務める。中国のインディペンデント映画界で独自の映画スタイルとテーマ性で知られている。長編デビュー作『Oxhide(英題)』(05/原題:牛皮)は、第55回ベルリン国際映画祭カリガリ映画賞と国際批評家連盟賞を受賞。『来し方 行く末』(23)は、カンヌ国際映画祭監督週間とロッテルダム国際映画祭Bright Future部門で上映された『オクスハイドⅡ』(09/原題:牛皮Ⅱ)以来の14年ぶりの新作。

2025年4月25日(金)より新宿武蔵野館、シネスイッチ銀座、アップリンク吉祥寺ほか全国順次公開

公式サイト:https://mimosafilms.com/koshikata/

『来し方 行く末』
監督・脚本:リウ・ジアイン[劉伽茵]
出演:フー・ゴ―[胡歌]、ウー・レイ[呉磊] 、チー・シー[斎溪]、ナー・レンホア[娜仁花]、ガン・ユンチェン[甘昀宸]
2023年/中国/中国語/119分/カラー/1:1.85/5.1ch 原題:不虚此行 字幕:神部明世 配給:ミモザフィルムズ
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2025年4月25日(金)より新宿武蔵野館、シネスイッチ銀座、アップリンク吉祥寺ほか全国順次公開

「ホワイトボードは二つの面をもつ」板井仁

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『Oxhide』(2003)と『オクスハイドⅡ』(2009)という前二作品においてリウ・ジアインは、親子三人が暮らす狭小な部屋を舞台に、家業の困難と生活の漠然とした不安を、長回しと窮屈なフレーミングによって映しだした。父は自分の作る革製品に誇りをもっているが、売りあげは振るわず、先の見通しは立っていない。父が望むあり方では、金銭を生み出すことができないのだ。ワイドなスクリーンサイズは、全体ではなく部分を映すこと、とりわけ身体動作を映すことに用いられているが、それはただ普通に働いて生活することの難しさ、精神的な負荷や閉塞感といった心情を喚起させるものであった。誰もが企業家的に振る舞うことを強いられる社会において、必ず誰かが負けることになっているシステム上の欠陥は、労働者の責任となって個人を圧迫していくのである。
 自分の理想像と現実とのギャップというテーマ、そして特異なフレーミングは、『来し方 行く末』にもまた引き継がれているといえる。主人公聞善ウェン・シャン(フー・ゴー)は、脚本家になるために大学院に進んだものの、うまく筆を進めることができず、日々を弔辞の代筆業でしのいでいる。しかし、弔辞の代筆という現在の仕事は彼にとってはあまり胸を張れるものではなく、両親には本当のことが言えないままでいる。「普通の人」である自分の能力では脚本家として成功できないのではないかという不安や諦念は、猫背で俯きがちな表情だけではなく、スクリーン上における身体の配置においても表現されている。

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「誰かの窓になる」黒岩幹子

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 10歳の夏、私は初めて死を意識した。母と姉妹で別府に旅行に出かけた帰路でのことだった。何がきっかけだったかはわからない。老舗の巨大ホテルに宿泊した前夜、よく眠れなかったからか、帰路に就く前に訪れた高崎山の猿の群れや古びた遊園地の光景が何かしらの作用を及ぼしたのか、当時運行を開始したばかりの真新しい特急列車の中で乗り物酔いを起こした私は、車内に充満する人工的な臭いに吐き気を刺激されながら、いつしか死について考え始めていた。最初はいつか周りの人たちが死んでしまうこと、とりわけ80歳近かった祖母がそう遠くない未来にいなくなってしまうことに怯え、それから自分がこうしてあれこれと考えていること、つまりは自分の意識も死とともに消えてしまうのだと思い至り、恐怖した。その後一週間ほどで思い悩まなくはなったはずだが、夜中に布団の中で祖母の死や自己(意識)の消失にひとり怯え続けていた日々のことは、よく憶えている。
 結局祖母は90歳を前に脳出血で倒れ、1年ほど寝たきりになった末に亡くなった。寝たきりになり、ほとんど話せなくなった祖母が何を考えていたのか、どれほどの痛みや苦しみがあったのか、それはどれだけ想像したところでわからない。祖母と一緒に過ごした思い出は時折蘇るが、亡くなった前後の記憶はだいぶ薄れてきた。いま不思議と脳裏にはっきりと浮かぶのは、外出先で倒れた祖母が運ばれた病院に駆けつけ、一度家に戻ってきたときの父の顔だ。緊迫していたのか狼狽していたのか呆然としていたのか、そのどれでもありどれでもないような顔、無表情とも似て非なる、時が止まったような顔を父はしていた。先にも後にも見せたことがない、その父の顔を介して、私は祖母の死と“初めて”向き合ったのかもしれない。10歳の夏以降、長らく祖母の死を意識下で恐れ続けていたはずだが、おそらく私はそのせいで死というものから目を背けてもいたのではないか。祖母が倒れたときに父が見せた顔は、父が祖母の息子であるという、それまで当然のこととして顧みなかった事実を痛感させるとともに、この先訪れる祖母の死から父が逃れられないように、私も逃れられないことを悟らせるものだったように思う。

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「誠実な映画」角井誠

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 ベンチに腰掛けた一人の男が正面から映し出される。男は、画面の右側に向けて視線を泳がせたかと思うと、手に持っていたミネラルウォーターのペットボトルに視線を落とす。どこか居心地悪そうで頼りない。男をとらえるカメラは微かに揺れている。映画の主人公であるらしいこの男は、仕事の待ち合わせへと向かうのだが、依頼主の中年男性は彼を見るなり訝しげな眼差しを向ける。この主人公らしからぬ主人公を前にした観客の戸惑いをそのままなぞるかのように。どうやら男性は、亡くなった父親の弔辞をこのウェン・シャンと名乗る男に依頼しているらしい。会話の途中、ペットボトルを落としたウェン・シャンは、転がったペットボトルを追いかけてフレームアウトし、依頼主と観客を置き去りにしてしまいさえする。フー・ゴーが演じているのだから彼が主人公であるはずなのだけれど、しかし、このウェン・シャンという人物は物語の主人公にふさわしい振る舞いというものを欠いている。まるで自分が物語の主人公であることに戸惑っているかのような、人生と物語の閾の上で足踏みしているかのような佇まい。リウ・ジアインの14年ぶりの新作『来し方 行く末』の素晴らしさは、物語を語ることを自明のものとすることなく、この主人公らしからぬ主人公に徹底して寄り添うところにあるだろう。
 物語を語ること。それはウェン・シャン自身の課題でもある。彼は、大学院で学んだ脚本家(志望)であるのだ。ルームメイトらしいシャオイン(ウー・レイ)と暮らす日の当たらないアパートの本棚には、アンドレ・バザンやタルコフスキー、黒澤明の著作や映画史、映画理論の書籍が並ぶ。しかしウェン・シャンは、プロの脚本家にはなれなかった。脚本を仕上げることができないのだ。いわゆる物語、ドラマが、特別な人間を主人公とし、劇的な構成——始め、中間、終わりの三幕構成のような——に従って、その主人公の行為の連なりを描くものだとしたら、ウェン・シャンはそうした物語、ドラマが苦手なのだ(彼の物語観が語られる大学院の恩師との場面は、印象的な場面の一つだ)。「普通の人」を描こうとする彼の脚本は、終わりにまで辿りつくことができない。「普通の人」の人生には、結末もなければ劇的な構成もない。夢破れたウェン・シャンは、ひょんなことから弔辞作家という仕事に出会うことになる。それは、たとえ食い扶持を稼ぐための手段に過ぎなかったとしても、彼にとっての天職であったと言える。弔辞とは、物語とは違って、普通の人の普通の人生を書くものであるのだから。

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