リウ・ジアイン インタビュー
——風通しのよさについて
亡くなった人、これから亡くなる人をいかに悼むのかを語っている『来し方 行く末』は、必ずしも喪失感に覆われているわけではない。あるいは、物語を書き切れない脚本家を主人公に置きながらも、創作に伴う苦難が痛ましく強調されることもない。そうした悲しみや苦しみも感じさせながら、それよりも、こう言ってよければ、この映画は毎シーン映画を撮る楽しみに満たされているように思える。その印象を確かめるため、今回は具体的に3つの場面について伺った。

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──『来し方 行く末』は主人公と誰かとの一対一の対話場面がほとんどです。そうした場面はどこか閉じられた雰囲気を感じさせてしまう場合もありますが、この映画ではつねに風通しのよさを感じました。
リウ・ジアイン(LJ) 脚本段階で一対一の対話が占める割合が多くなるとわかっていました。一対一の対話は非常に撮るのが難しい。しっかりと用意しなければ、往々にして固定の長回しだけになってしまいますよね。しかもその対話が長く続いたり、たくさんの事柄が出てきたりすると、観客の注意力が散漫になり、映画を追い辛くなる。なぜその対話が必要なのか、それがどのような意味を持つのか、そういったことを踏まえて撮らなくてはいけません。なのでクランクインの2ヶ月前から、私がとても信頼する撮影監督ジョウ・ウェンツァオと、書かれている対話の場面についてどういう方式で演出したらいいのか話し合い、分析しました。どこに力点を置いて分析したかというと、まさに質問していただいたように、いかに開放的な雰囲気にするのかということでした。主人公とスマホを2台持っている王さんが対話する場面、火鍋屋の万さんとの対話場面、ガンを患っている方さんとの対話場面。まずそうした場面を二人だけの場面と捉えないことが大事でした。人にとって重要なのは、そこで何を話したか、聞いたか、つまり内容というよりも、その人たちの距離感だと思います。距離によってその対話の意味は変わってくる。あるいはその場所にいるときの佇まいや小さな身振りによっても変化する。だから二人だけが言葉を発する場面を撮ったとしても、それは二人だけの関係を捉えているわけではないのです。二人がいる場所やそこにあるものとの関係にも注意を払う必要があります。
同時に主人公の聞善はとても真面目な人です。相手の話しを必死に聞こうとする。彼らの会話というのは表面的なものではないわけで、やはりその内容によっても関係性は変化していく。ここでの関係性もまた、二人だけのものではなく、彼らがいる場所や周囲にあるものとの関係を意味します。それらの関係性の変化にも敏感でいるようにしました。
──お答えいただいたことと関連して、先に触れていただいた場面の具体的な部分についてお聞きしたいと思います。まず、聞善がスマホ2台持ちの王さんとはじめて出会う場面です。途中で聞善がペットボトルを落としますが、その流れは脚本に書き込まれていたことなのか、現場で決められたことなのか、どちらでしょう?
LJ 脚本にすでにありました。前半で聞善が会うのは以前から関係が続く人たちがほとんどなのですが、王さんだけははじめて出会う人です。あまり社交的でない聞善が、まだ依頼を引き受けるかどうか決めていない人に対してどう振る舞うのか。聞善の日常性とともにまずそれを見せたいと思いました。聞善がいつも何を持っていて、どう使うか。ペットボトルをリュックの横に入れて、頻繁に取り出す。聞善はそういう習慣がある人なわけです。
ペットボトルを落とすというアイディアはロケーションから思い付いたものです。足元が見えていない場面ですが、実はあそこは王さんの側から緩やかな坂になっているんですね。そのため聞善の方が背が高いのに、王さんと同じか、王さんよりも小さく見える。それで坂なので、ペットボトルを落とすと画面左に向かって転がってしまい、聞善はそれを拾いにいくため一瞬画面から捌けることになる。ここで見えてくるのは、聞善がとても不器用な人であること、一方で不器用さが招いた事態に対して静かに対処していること、そして聞善の一連の動作を王さんがまったく気に留めていないことです。このようにロケーションと身振りによって二人の関係を見せたいと思ったのです。
──次に火鍋屋の万さんとの場面です。最初引きで二人を捉えてから、しばらくして同軸で寄りますよね。その契機となるのは、通り過ぎていく男性三人に万さんが挨拶をするアクションです。会話の内容と一見無関係に思える男性三人をなぜこの場面に登場させたのでしょう?
LJ この場面で何を見せたいか。ひとつは聞善と万さんの関係性の変化です。万さんは元々聞善のことを面倒な人だと思っていたけれど、段々と興味を持ってきた。それは聞善の話すことに興味を持ったのではなく、聞善の真剣に話しを聞く態度に対してだと思います。より近づいたショットになると、万さんがより真実を話すようになっていくのですが、問題はその引きと寄りをどう繋ぐか、どう関係性の変化を見せるかです。
実はここ、もっとセリフが多い場面でした。二人が話している最中に聞善がタバコを吸おうとするのですが、その時に万さんがタバコの火を炭でつけてあげる。北京の男たちにとってタバコの火を交わすというのは男の友情の証なんですね。つまり聞善はそこで認められるわけです。ただ今日お答えしてきたように、二人だけの関係で閉じるのではなく、より開放的な場面にすることを考えたときに、男性三人が通り過ぎる、彼らに対して万さんが聞善と話すときとは別の態度を見せる、それを変化のきっかけとするので十分だと編集のときに気付き、タバコのやりとりはカットしました。
──最後に方さんが夫との思い出を語る場面についても伺いたいです。前にお聞きした二つの場面はペットボトルや通行人など、主要な人物たち以外の画面を往来するものたちが印象的でしたが、ここではさらに時間も多層的です。どのように構想されたのですか?
LJ 脚本段階で重点を置いたのはやはり時間と空間の関係でした。ここで方さんはまだ誰にも言ったことがない、夫との離婚という秘密の決断を明かします。結局離婚はしなかったけれど、そう決断したわけですよね。聞善はその話を聞くことで方さんの80年代の思い出の中に巻き込まれていきます。結局その場面は半地下で撮ることにしました。少ししか光が入らず、暗くもあり、明るくもある、それゆえに時間が曖昧に思える空間だと思ったからです。
そして方さんの話に巻き込まれる聞善の視点を観客にも共有してほしかった。いつものバスに乗っている聞善の映像が差し込まれるのは、ペットボトルと同じように、80年代の記憶を今を生きる聞善の日常性とともに見せるためです。
取材・構成:梅本健司

リウ・ジアイン(劉伽茵)
北京電影学院(BFA)を卒業し、現在は脚本制作の准教授を務める。中国のインディペンデント映画界で独自の映画スタイルとテーマ性で知られている。長編デビュー作『Oxhide(英題)』(05/原題:牛皮)は、第55回ベルリン国際映画祭カリガリ映画賞と国際批評家連盟賞を受賞。『来し方 行く末』(23)は、カンヌ国際映画祭監督週間とロッテルダム国際映画祭Bright Future部門で上映された『オクスハイドⅡ』(09/原題:牛皮Ⅱ)以来の14年ぶりの新作。