ホワイトボードは二つの面をもつ

板井仁

『Oxhide』(2003)と『オクスハイドⅡ』(2009)という前二作品においてリウ・ジアインは、親子三人が暮らす狭小な部屋を舞台に、家業の困難と生活の漠然とした不安を、長回しと窮屈なフレーミングによって映しだした。父は自分の作る革製品に誇りをもっているが、売りあげは振るわず、先の見通しは立っていない。父が望むあり方では、金銭を生み出すことができないのだ。ワイドなスクリーンサイズは、全体ではなく部分を映すこと、とりわけ身体動作を映すことに用いられているが、それはただ普通に働いて生活することの難しさ、精神的な負荷や閉塞感といった心情を喚起させるものであった。誰もが企業家的に振る舞うことを強いられる社会において、必ず誰かが負けることになっているシステム上の欠陥は、労働者の責任となって個人を圧迫していくのである。
 自分の理想像と現実とのギャップというテーマ、そして特異なフレーミングは、『来し方 行く末』にもまた引き継がれているといえる。主人公聞善ウェン・シャン(フー・ゴー)は、脚本家になるために大学院に進んだものの、うまく筆を進めることができず、日々を弔辞の代筆業でしのいでいる。しかし、弔辞の代筆という現在の仕事は彼にとってはあまり胸を張れるものではなく、両親には本当のことが言えないままでいる。「普通の人」である自分の能力では脚本家として成功できないのではないかという不安や諦念は、猫背で俯きがちな表情だけではなく、スクリーン上における身体の配置においても表現されている。
 上述のとおり、この映画が特徴的なのはカメラポジションやフレーミングである。カメラはしばしば、アイレベル、あるいはややハイポジションから水平に構えられているため、地面や床はフレームから切れ、ロングショットで捉えられる人物は、画面の中央よりやや下側に配置される。多くのシーンにおいて、人物の身体が画面を占める割合は少ないままであるのに加え、聞善はしばしば画面の端や隅、画面の奥や事物の裏に身体をおさめている。例えば聞善の部屋を捉えるショットにおいて、彼が食事をしたり執筆したりする机とその椅子は、左側の壁に設えてあるために画面外あるいは左手前の柱によって隠れており、そこで作業する彼の顔や両手もまたときおりフレームアウトしてしまう。葬儀場の職員である潘聰聰パン・ツォンツォン(バイ・コー)と一緒に屋上でタバコを吸うシーンは作中何度も登場するが、あるシーンにおいて聞善は、画面左端あるいは画面左奥の窓台に座っていたりする。背中を丸めて俯く聞善の姿は、控えめであるというだけではなく、陰鬱としてどこか自信のない印象を与える。こうした画面構成は、都市から離れ、北京郊外の安アパートで生活する彼の、足元のおぼつかない不安定な現状を反映しているといえるかもしれない。

©Beijing Benchmark Pictures Co.,Ltd

 しかし、俯くことは、聞きとること、執筆することと重なっている。聞善のその俯きは、弔辞の依頼者の言葉を聞きとることでもあり、ノートやパソコン、スマートフォンに向かって文字を書き連ねることでもある。映画は、兄や父、親友、あるいは余命宣告を受けた自分自身への弔辞を聞善に依頼する、さまざまな境遇をもった人々と出会い、話すことによって構成されている。依頼者は聞善に自分の思いを語り、聞善はそれを静かに受けとめる。カメラが水平アングルであることは、見下ろす/見上げるといった非対称なあり方ではなく、人物が一対一で顔を合わせ、寄り添いながら、見えない部分も含めて均等なかたちで存在していることをさりげなく強調する。歩き、座り、会話をする二人の人物のシルエットも、その多くは画面内で同程度の比率におさまっている。

 映画は中盤以降、聞善がかつて書いた甘銘ガンミンという人物への弔文に不満を抱き、小さな町から北京へと会いにやってきた邵金穗シャオ・ジンスイ(チー・シー)とのエピソードが中心となる。邵金穗は街の中だけではなく、動物園、バスの車内、地下鉄の入り口、聞善の自宅で甘銘について語る。しかし彼女が一方的に言葉を並べたてるのではない。聞善もまた自分の部屋で、資料やホワイトボードを用いて自分が取材した範囲において甘銘のことを話す。二人の議論がヒートアップし、邵金穗がホワイトボードの文字を消そうとするとき、その板面はひっくり返り、「小尹」を中心としたツリー状の書き残しがあらわれる。
 俯くことは、彼の内向的でネガティブな雰囲気を伝えると同時に、依頼者の目線に寄り添いながら、言葉を聞きとり、書きとめるひたむきな姿勢としても捉えうるものでもあった。彼の書く弔辞における故人のイメージが、他の誰かにおいては異なって見えていたように、映画は、一つのものが複数の面をもっていることを描いていたともいえる。邵金穗によってホワイトボードが返されることは示唆的であろう。
 聞善の苦悩は、自分が「普通の人」であるということであった。彼は自身の脚本において「普通の人」の物語を描きたいと考えているが、それでは展開やドラマ性に欠け、市場には受け入れられないであろうとも考えている。こうした理想と現実のあいだの引き裂かれは、彼の部屋の中に存在する小尹シャオイン(ウー・レイ)という人格としてあらわれている。聞善が現実に存在する物理的な身体であるならば、小尹は聞善の象徴的な身体であり、彼が創作する脚本の主人公というだけではなく、彼が理想とする存在であると同時に、受け入れることのできない自身のもう一方の側面としての存在なのではないか。
 ホワイトボードに書かれた「小尹」という書き残しがきっかけとなって、聞善は邵金穗に小尹を含めた自身のこと、脚本家を目指しているが、物語が書けないでいることを打ち明ける。彼女はそれに対し、「でも今も物語を書いている」「脚本と同じよ」と聞善に言葉を返す。このとき彼は、自分が生活のタネとして仕方なく書いている弔辞が、自身が理想とする「普通の人」の物語であることに気づく。ホワイトボードは、見えるものと見えないもの、あるいは異なって見える複数のものが、一つの別の側面であることを見せる。ここで弔辞と物語、あるいは聞善と小尹は重なりあう。

 同じ空間に身を寄せながら、他者の言葉を受けとめるということは、彼ら/彼女らに受けとめられることでもあった。ここには、弔文を執筆すること以上のもの、互いの苦しみを解きほぐすようなケアの実践があるのだろう。それは、邵金穗が送った「この数日は人生で一番酷かった」というメッセージに対し、「そんなに悪くなかったよ」「気にしなくていい」ではなく、「そうだろうね」と、相手の心情をまるごと受け入れる聞善の姿勢においても感じられるものである。
 邵金穗との出会いを経て、聞善は中断していた脚本に再び取り掛かるようになる。映画の終盤、それまで水平アングルだったカメラは、ローアングルで聞善をとらえる。カメラは、うす暗い屋内へと光を通す窓のショット、次いで、卓球台に登り、窓のそばへと向かう聞善を足下からティルトアップしていく。卓球台の上、壁にもたれながらタバコに火をつけ、上へと昇っていく煙の行方を追う聞善の顔は、すこし晴れやかにも見える。

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