誰かの窓になる

黒岩幹子

 10歳の夏、私は初めて死を意識した。母と姉妹で別府に旅行に出かけた帰路でのことだった。何がきっかけだったかはわからない。老舗の巨大ホテルに宿泊した前夜、よく眠れなかったからか、帰路に就く前に訪れた高崎山の猿の群れや古びた遊園地の光景が何かしらの作用を及ぼしたのか、当時運行を開始したばかりの真新しい特急列車の中で乗り物酔いを起こした私は、車内に充満する人工的な臭いに吐き気を刺激されながら、いつしか死について考え始めていた。最初はいつか周りの人たちが死んでしまうこと、とりわけ80歳近かった祖母がそう遠くない未来にいなくなってしまうことに怯え、それから自分がこうしてあれこれと考えていること、つまりは自分の意識も死とともに消えてしまうのだと思い至り、恐怖した。その後一週間ほどで思い悩まなくはなったはずだが、夜中に布団の中で祖母の死や自己(意識)の消失にひとり怯え続けていた日々のことは、よく憶えている。
 結局祖母は90歳を前に脳出血で倒れ、1年ほど寝たきりになった末に亡くなった。寝たきりになり、ほとんど話せなくなった祖母が何を考えていたのか、どれほどの痛みや苦しみがあったのか、それはどれだけ想像したところでわからない。祖母と一緒に過ごした思い出は時折蘇るが、亡くなった前後の記憶はだいぶ薄れてきた。いま不思議と脳裏にはっきりと浮かぶのは、外出先で倒れた祖母が運ばれた病院に駆けつけ、一度家に戻ってきたときの父の顔だ。緊迫していたのか狼狽していたのか呆然としていたのか、そのどれでもありどれでもないような顔、無表情とも似て非なる、時が止まったような顔を父はしていた。先にも後にも見せたことがない、その父の顔を介して、私は祖母の死と“初めて”向き合ったのかもしれない。10歳の夏以降、長らく祖母の死を意識下で恐れ続けていたはずだが、おそらく私はそのせいで死というものから目を背けてもいたのではないか。祖母が倒れたときに父が見せた顔は、父が祖母の息子であるという、それまで当然のこととして顧みなかった事実を痛感させるとともに、この先訪れる祖母の死から父が逃れられないように、私も逃れられないことを悟らせるものだったように思う。

『来し方 行く末』の主人公・聞善が生業とする弔辞の代筆という仕事は死から発生する。人が死に、死者の家族や関係者から仕事の依頼が来るのが通例であるから、聞善が主に接するのは死んだ人ではなく、死なれた後に生きていく人たちだ。遺族が故人を偲び、喪失を抱えてなお生きていくために、故人の話を聞いて文章にまとめる。その仕事を通して、聞善は初めて死者と出会う。
 だからだろうか、その映画に登場する死者には顔がない。そのことは若くして亡くなった会社のCEOの弔辞を依頼するルーさん(ガン・ユンチェン)が広げていたノートパソコンの壁紙が映し出されるときに明らかとなる。仲間たち4人で起業したときに撮ったものだという陸さんの説明とともに映し出されるその写真には、確かに4人の若者が写っているが、ひとりだけジャンプをしているせいか上半身がぶれてしまって顔がよく見えない男性がいる。「ボヤけているのが彼だ」という陸さんの説明を聞くまでもなく、私たちはその男性が亡くなったCEOであることを察するだろう。故人をうまく把握できないといった理由で依頼を断ろうとしていた聞善は、その写真を見た直後に「質問を送るからみんなで思いついたことを録音してください」と、陸さんに仕事を引き受ける旨を告げる。
 その前段において聞善が代筆する弔辞の“主人公”である死者たちもまた、その姿かたちが見えなかった。彼らが写真の中や回想シーンによって登場することはなく、あくまでも遺族によって語られる思い出や人となり、そして遺族の話を聞くために聞善が訪れる場所で見る光景によって、その輪郭が浮かび上がっていく。薄暗い火鍋料理店の裏口で、店主が真夏に受験勉強をする妹のために毎日何キロも歩いて氷塊を買いに行っていた亡き兄について聞善に語って聞かせるとき、私たちは地べたにずらりと並べられた鉄鍋と鍋から立つ煙を見ている。「兄が大きなうちわであおぐと鍋は一瞬で熱く真っ赤になった」と店主が言うと、鍋の下でぼおっと炭が爆ぜる様が映し出される。高層マンションに住む依頼人のもとに亡くなった父親の話を聞きに行ったときには、聞善は故人が使っていた部屋に入り、窓から故人がかつて見ていただろう景色——高層ビルの隙間から見える山を眺め、依頼人の写真が載ったページに「息子」と付箋が貼られた雑誌を手に取る。そしてクローゼットの中から突然飛び出してきた子供、故人の孫に驚く。こうした聞善が聞いたエピソード、見たイメージによって、私たちは実在もせず、映画内でも顔や姿を見せない死者の“存在”をそれぞれに形づくっていくだろう。

©Beijing Benchmark Pictures Co.,Ltd

 ただし物事の常として例外はある。この映画に用意された例外のひとつは、生きているうちから自身の追悼会のための弔辞を依頼した女性、方さんだ。聞善が弔辞を書く前に出会う唯一の対象者である方さんは、彼女自身の口で自分の人生を語って聞かせる。方さんの家の物置で、彼女がかつて直面した離婚危機について、夫が赴任していた上海から子連れで北京へ帰る汽車の中で揺れ動いた気持ちを話す場面は忘れがたい。方さんの語りに汽笛、汽車がレールを走る音、赤ん坊の泣き声などが重っていき、バスに乗った聞善が車窓の外に目をやる短いカットが挿入される。その車窓から見える景色に、上海から北京までの路線図が描かれていき、路線図の背景はいつしか物置に干された絨毯になっている。次のカットでは、並んで話す方さんと聞善の向こう側にある窓がふたりの頭部をなめるかたちで映し出される。その窓には方さんの話を聞く聞善とその背後に干された絨毯などが映っているのだが、まるでふたりが方さんの記憶の映画を見ているかのような錯覚に陥りそうになった。
 同シーンに限らず、この映画にはたくさんの窓や入口が写っている。聞善が暮らす部屋には物干し部屋と居室の間にも窓があるために窓の向こうに窓が見えるし、彼が観察日記をつけるために訪れる動物園では展示室のガラスの向こうでぐるぐると歩き回るホッキョクグマが見える。前述してきた聞善が依頼人と会う場所でも、火鍋店の裏口からは火鍋を囲む客の姿が見え、高層マンションの部屋の窓からは灰色の空や小さな山が見える。同僚の弔辞を依頼した陸さんは、自分の会社は地下で光が入らないのだと、全面ガラス張りのファストフード店で聞善に会う。『BAUS 映画から船出した映画館』(甫木元空、2024)という映画の中で、映画館のスクリーンを指して「これは皆さんが住んでいる世界を見るために、感じるために開かれた窓だ」と言う人がいたが、聞善が行なう弔辞の代筆という仕事は、依頼人たちが開いた窓から見えた故人の人生を、依頼人に代わって描写するということなのかもしれない。そして方さんが聞善に求めたのは、一緒に映画を見るように、彼女が開いた窓から見える世界について語り合うこと、その過程を経ることによって”代筆者”ではなく“筆者”として自分の人生について書いてもらうことだったのではないか。言うなれば、方さんの人生を映画化するための“脚本”を聞善に書かせたかったのだろう。

 弔辞の“筆者”として方さんを見送った聞善は、陸さんから大きな窓のある高層階のオフィスに引っ越すとの連絡を受け、引っ越しの準備が進む地下のオフィスを訪れる。聞善が薄暗いオフィスを見て回る様子に、そこで働いていた亡きCEOについて語る同僚たちの声がオーバーラップされていく。「よくうちの部屋で喫煙していた。南向きの窓から少し日が入るからだ」と語る声が聞こえたとき、聞善は小さな明かり取り窓がひとつしか付いていない、がらんとした部屋に足を踏み入れる。窓の下には踏み台が置かれていて、その台に上がった彼はその窓から外を見上げる。まるで暗い映写室の窓から光を放つスクリーンを覗きこむかのように。
 その窓は汚れて曇っていて、聞善がそこから何を見ているのかはわからない。でも私たちはラストシーンを待つまでもなく、彼が自分の窓を開け“外の世界”へと踏み出していけることを、あらかじめ知っている。なぜならば、すでに聞善は本人も意図せぬうちに “フレームの外”へ出てしまっていたからだ。映画の冒頭を思い出してみよう。斎場で弔辞の依頼人と会う場面で、リュックのポケットに入れていたペットボトルを落とした聞善は、依頼人をその場に残したまま、ペットボトルが地面を転がる音に反応するかのように小走りでフレームの外へ出てしまう。その動作は、皿の中でキャットフードを揺らす音に反応してフレームの中に入ってくる野良猫、あるいは林檎の写真を撮ろうとしてバランスを崩し、フレームの外へ転がってしまう聞善自身によって反復されるだろう。こうしたフレーム外への不意の逸脱/フレーム内への闖入は、私たちにこの映画もまた“窓”としてあることを強く意識させる。聞善が弔辞の依頼人という窓から死者が生きた痕跡をたどっていく足どりを、私たちは『来し方 行く末』という窓を通して見つめる。
 この映画を見た私の脳裏に、祖母が倒れた日の父の顔が去来したのは、あの日の私が父という窓を通して祖母を見つめ、来たるべき祖母の死と向き合ったからだろう。そして、その父もすでにこの世にはいないからこそ、あの日の記憶が呼び起こされたのだろう。父は私の窓になってくれていた。この映画はそのことに気づかせてくれた。

黒岩幹子(くろいわ・みきこ)

編集者・ライター。WEBマガジン「boidマガジン」やスポーツ紙「中日スポーツ」、映画関連書籍・パンフレットの編集に従事。編著に『青山真治クロニクルズ』(共編著、リトルモア)、『そこから先は別世界 妄想映画日記2021-2023』(樋口泰人著、boid)など。

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