誠実な映画
角井誠
ベンチに腰掛けた一人の男が正面から映し出される。男は、画面の右側に向けて視線を泳がせたかと思うと、手に持っていたミネラルウォーターのペットボトルに視線を落とす。どこか居心地悪そうで頼りない。男をとらえるカメラは微かに揺れている。映画の主人公であるらしいこの男は、仕事の待ち合わせへと向かうのだが、依頼主の中年男性は彼を見るなり訝しげな眼差しを向ける。この主人公らしからぬ主人公を前にした観客の戸惑いをそのままなぞるかのように。どうやら男性は、亡くなった父親の弔辞をこのウェン・シャンと名乗る男に依頼しているらしい。会話の途中、ペットボトルを落としたウェン・シャンは、転がったペットボトルを追いかけてフレームアウトし、依頼主と観客を置き去りにしてしまいさえする。フー・ゴーが演じているのだから彼が主人公であるはずなのだけれど、しかし、このウェン・シャンという人物は物語の主人公にふさわしい振る舞いというものを欠いている。まるで自分が物語の主人公であることに戸惑っているかのような、人生と物語の閾の上で足踏みしているかのような佇まい。リウ・ジアインの14年ぶりの新作『来し方 行く末』の素晴らしさは、物語を語ることを自明のものとすることなく、この主人公らしからぬ主人公に徹底して寄り添うところにあるだろう。
物語を語ること。それはウェン・シャン自身の課題でもある。彼は、大学院で学んだ脚本家(志望)であるのだ。ルームメイトらしいシャオイン(ウー・レイ)と暮らす日の当たらないアパートの本棚には、アンドレ・バザンやタルコフスキー、黒澤明の著作や映画史、映画理論の書籍が並ぶ。しかしウェン・シャンは、プロの脚本家にはなれなかった。脚本を仕上げることができないのだ。いわゆる物語、ドラマが、特別な人間を主人公とし、劇的な構成——始め、中間、終わりの三幕構成のような——に従って、その主人公の行為の連なりを描くものだとしたら、ウェン・シャンはそうした物語、ドラマが苦手なのだ(彼の物語観が語られる大学院の恩師との場面は、印象的な場面の一つだ)。「普通の人」を描こうとする彼の脚本は、終わりにまで辿りつくことができない。「普通の人」の人生には、結末もなければ劇的な構成もない。夢破れたウェン・シャンは、ひょんなことから弔辞作家という仕事に出会うことになる。それは、たとえ食い扶持を稼ぐための手段に過ぎなかったとしても、彼にとっての天職であったと言える。弔辞とは、物語とは違って、普通の人の普通の人生を書くものであるのだから。
じっさい、ウェン・シャンの書く弔辞は「評判が良い」らしい。映画のなかで弔辞そのものが読まれることはほとんどないから、彼の弔辞がどのようなものかは具体的にはわからない。私たちが見るのはもっぱら彼が仕事をしているところだ。といっても、彼が書いているところはあまり描かれない。彼がしているのは、聞くこと、残された人たちの語りにひたすら「耳をかたむける」ことだ(本作の英題は『All Ears』で、東京国際映画祭上映時のタイトルは『耳をかたむけて』だった)。ウェン・シャン[聞善]という名には「聞」という字も入っている。ただし彼が話を聞くのは、故人を詳しく知るためだけではない。「事実は人によって違う」とウェン・シャンは言う。彼にとって大事なのは、残された人にとっての「事実」だ。その人にとって故人がいかなる存在であったのか。ウェン・シャンはそれを引き出すためにこそ聞く。

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ところで、人々が故人について話すのは「契約」があるからだ。弔辞を書いてもらうという「契約」があるからこそ、人々は他人であるウェン・シャンに故人との思い出を語る。ウェン・シャンもまた、あくまで弔辞作家という「役目」に徹する。聞き手である彼は「関係性」の外に身を置く。依頼主たちの関係に介入することもなければ、追悼会に参列することもない。それは映画の形式にも見て取れる(リウ・ジアインはきわめて形式主義的な映画作家でもある)。仕事をしていないときのウェン・シャンは、冒頭のショットがそうであったように、微かに揺れるカメラによってとらえられる。薄暗いアパートでシャオインと話しているとき、葬儀場で友人のパン(バイ・コー)と話しているときもそうだ。ドキュメンタリーのカメラのような日常を覗き見る視線。それは、ウェン・シャンを見つめるリウ・ジアインの眼差しであるかのようだ。それに対して、彼が弔辞作家として話を聞いている場面は、より厳密で洗練された、フィクション性の高い構図と編集で描き出される。たとえば、ウェン・シャンがワン兄弟の弟の火鍋屋に話を聞きに行く場面。店の裏側にあるバルコニーが引きでとらえられる。カメラは揺れていない。ウェン・シャンと弟は中心から外れた画面左側にいて、画面右側には火鍋に使う炉が並んでいる。炉と人物を同時にとらえる周到な構図になっている。随所で、語りの重要な要素となるオブジェ——氷塊など——のショットもインサートされる。ウェン・シャンの日常と弔辞作家としての仕事の間には一線が引かれている。
しかし映画が進むにつれて、そうした一線が崩れていく。それはまず、ファン(ナー・レンホア)との関わりに見てとることができる。彼女が依頼したのは、なんと自分自身の弔辞だった。がんで余命半年を宣告された彼女はウェン・シャンに弔辞を頼むのだが、その後、二年、三年と生き延びることになる。そのうちウェン・シャンとファンの間には、弔辞作家と依頼主を超えた「関係性」が、友情が結ばれていく。二人をとらえるカメラはしばしば揺れている。ファンが自宅で過去を語るくだりは、この映画のなかで最も洗練された美しい瞬間をかたちづくっているだろう。それはきっと、二人の「関係性」がなければ語られなかった思い出であるに違いない。彼はもはや「関係性」の外に身を置いて、弔辞を書くことはできなくなる。いまや彼自身が語り手にならなくてはならない。ファンと関わるなかで、物語を書くことと弔辞を書くことという営みの境界が限りなく薄まっていく。そして、もう一人の女性——シャオ(チー・シー)——が日常と仕事、物語と弔辞の境界にさらなる揺さぶりをかけにやってくる。ウェン・シャンがかつて書いた弔辞に納得がいかない彼女は、資料の残されたウェン・シャンの部屋に上がり込んでくるのだ。もはやそれは仕事ではない。故人について語るシャオに付き合ううちに、日常と仕事の境界は消え去り(二人をとらえるカメラは揺れている)、ウェン・シャン自身もまた自らを語り出すことになるだろう。物語/弔辞は、きっとウェン・シャンが思っていたほど異なる営みではない。弔辞はそれ自体一つの物語でありうるし、物語もまたきっと普通の人の生を描きうる。そこに優劣などないのだ。
こうして『来し方 行く末』は、物語を語ることそのものを問い直していく。もちろん、それ自体は知的な営みであるには違いない。しかしこの映画は、ウェン・シャンに徹底して寄り添いながら、彼と同じように葛藤しながらそれを行う。リウ・ジアインは、『Oxhide』(2005)、『オクスハイドII』(2009)で、自身も出演して革職人の父と母との生活をとらえながら、ドキュメンタリーとフィクションの間の細い線を辿っていった(家族が餃子を作るところを極めて形式的に描く『オクスハイドII』では、家族の台詞はすべて書かれていて、三人は自分自身を演じていた)。リウ・ジアインにとって、いかにして物語を語るのか、いかにして普通の人々の人生を語るのかというのは大きな課題であったはずだ。ウェン・シャンの書く弔辞のなかに、書き手である彼自身も——目立たぬかたちであれ——刻み込まれているように、この映画にはリウ・ジアイン自身も刻み込まれている。ウェン・シャンの葛藤に、彼を見つめる眼差しに、彼の変化を描く形式の発明に。葬儀場で働くパンは、ウェン・シャンについて「誠実な弔辞を書きますよ」と語る。それはリウ・ジアインの映画についても言える。誠実な映画。人の生き死にを神のごとき視点からドラマに仕立てる類いの映画は、いまなおスクリーンに溢れている。この「誠実な映画」のもつ価値は限りなく大きい。
角井誠(すみい・まこと)
映画研究・批評。早稲田大学文学学術院教授。共著に『映画論の冒険者たち』(東京大学出版会、2021年)、『レオス・カラックス 映画を彷徨うひと』(フィルムアート社、2022年)、訳書に『彼自身によるロベール・ブレッソン インタビュー 1943-1983』(法政大学出版局、2019年)など。