俺存在した?

梅本健司

 1999年、私が生まれてから二週間少し過ぎたあたりに、どうやら一人の男が冷蔵庫の下敷きになって死んだらしい。彼にとって人生の半分弱にあたる10年間を昏睡状態で過ごしたばかりだったというのだから、目覚めた後も彼はどこか夢を見ているようだったのかもしれない。逝く直前に、彼は天を仰ぎながらそこに居合わせた男に聞く。「俺存在した?」。男は答える。「お前は確実に存在した」。
『ニンゲン合格』の忘れることができないこのシーンを、しかし今更ながら思い出してみたのは、牧場に仰向けになった西島秀俊とは逆に、上空に連れ出されて、下方の遠ざかるジャングルを見つめる小野田寛郎の顔を見たからである。彼が戦地を飛び去る直前に見ることになったその光景をどう感じたのか。それを想像できるほど、小野田に扮する津田寛治の顔にはわかりやすい演出が施されていない。高所恐怖症で航空兵になり損ねたのだというのだから、こんなにも上空からルバング島を望むことを彼は予想だにしなかったのかもしれない。ただ、「私は存在したのか?」と、小野田も問うているように思えてならない。無論、現実に彼は存在した。NHKで放送された小野田寛郎の特番のなかで、父親を小野田に殺されたというフィリピン人が「彼を殺したかった」と包み隠さず話していたことが忘れらない。小野田のつけた傷は今でもルバング島に残っている。だが、映画『ONODA』が問題にしているのはそうしたことではない。西島秀俊にとっての役所広司のような人物も、小野田の30年間、ただその時間が存在したことを肯定することなど出来なかったし、もちろん見下げたジャングルは、ただ彼の踏み締めた大地を覆うばかりで彼に関心などあるはずもない。彼が生きた30年間の虚構ともいえる生を終わらせたのは、「現実」ではなくまた別の虚構でしかなかった。では、「私は存在したのか?」という問いは、あの空で、文字通り宙吊りにされたままだったのか。

 津田演じる小野田の身体がわれわれに初めて提示されるのは、彼を連れ戻すことになる鈴木(仲野太賀)がラジカセから流した「北満だより」の音域を遠ざかるようになされるトラヴェリングによってである。小野田を誘き寄せるためにかかっている「北満だより」にのせられてジャングルを上から覗き見るかのように上昇する直前のカメラの動きに対し、そのトラヴェリングは地を這うようにして移動する。こうした天と地の対比は、孤独になった小野田が上方からの視線によって捉えきれないほどジャングルの奥に隠れてしまったことを示すかのようだ。やがて、カメラが小野田に到達したのちにはじめられる最初の回想場面において設定された複数の父親については、相澤虎之助の文章で見事に指摘されているところだが、アルチュール・アラリ監督の前作『汚れたダイヤモンド』(2016)からの連なりに関して少し補足しよう。
 以前NOBODYのWEBサイトに掲載されたアルチュール・アラリに対するインタヴューのなかで既に指摘されているように、『汚れたダイヤモンド』には、主人公と父子関係を築く人物が複数いる。主人公は彼らの命令や、期待、あるいは亡霊によって多方向から抑圧され、自身の欲望を見失う。映画は主人公を失われた欲望の再発見に導くのではなく、父親たちの抑圧を強化し、絡み合わせ、彼にトラウマを植え付けていく。クライマックスでさえ、抑圧された彼の内なる欲望が発露したというよりも父親たちの力関係の不均衡さが招いた帰結だと見るべきだろう。
 注意すべきなのは、一見親子二世代の物語を描いているように思える前作『汚れたダイヤモンド』において、実際に描かれているのは一つ上の世代を足した三世代の物語だということである。写真やセリフのなかだけにしか登場しないが、主人公の祖父にあたる人物が絶大な影響力を持っているのだと何度か示唆される。彼と同じ姓を持つというだけで、ある界隈では価値を持ち、ある種の身分証明になる。主人公の父親たちも、昔は彼の息子たちであった。父親になった彼らは、その時受けた抑圧を、自分たちの息子に繰り返していると言ってもよい。多くの家族モノでそうされてきたように、ここでも身振りや言葉を通した、上から下の世代への反復が問題となっている。主人公はその三世代の末端に属しているがゆえに受けた抑圧を繰り返すことができない。
 同様に『ONODA』でも三世代の関係が描かれる。けれども、小野田は『汚れたダイヤモンド』の主人公とは違い一番下の世代に属しているのではなく、真ん中の世代に属している。絶対的な子ではなく、父でもあり子でもあるという人物を主人公にスライドさせたことでアルチュール・アラリは前作との距離化をはかっている。

©bathysphere ‐ To Be Continued ‐ Ascent film ‐ Chipangu ‐ Frakas Productions ‐ Pandora Film Produktion ‐ Arte France Cinéma

 父親になろうとする小野田を演じるのは、津田ではなく、むしろ若い遠藤雄弥の方だ。彼はいかにして父親になろうとするのか。彼のもとに残った三人の兵に、中野学校で過ごした日々とそこで与えられた命令を打ち明けた後で、小野田が最初にすることはルバング島の地図を描くことだ。訪れた土地ひとつひとつに、四人の兵士のそれまでの人生で馴染みの深い名前をつけていく。出来上がった地図は、彼ら四人固有の世界であり、小野田が父親たらんとするのは、この枠組みのなかにおいてである。その過程で、小野田は岸壁を見下ろし、高所恐怖症は多少なりとも克服しているのだと控えめに示唆されるのだが、それでもやはり彼には俯瞰的な視点が欠けていたのだろうか。なにしろ、その時点で既に戦争は終わっている。彼らの世界は、外部とのつながりをほとんど失っており、やがて崩壊する。父親であることの挫折が小野田に訪れるのは書くまでもない。
 果てして小野田は、最後の仲間も失って孤立無援になる。津田寛治が演じなくてはならないのは、父親であることにも、戦争は続いているという物語を語ることにもほとんど失敗した空っぽの男である。空っぽになってしまった男を演じたとき、津田寛治はいつも素晴らしい。30年近くの出来事を記してきた日記にも、もはや日付しか書くことがない。くだんの地図は未だに彼の住処に飾られているのだとカメラは映すが、次にそれはディゾルブによって揺れる炎に繋がれる。ここで重要なのは、その繋ぎが彼らが作った世界、あるいは物語が単に失われゆくものであるというのを示しているのではないということだ。その炎は、依然としてルバング島が日本の領地なのだと現地の人々に威嚇するために行っていた放火作戦によるものなのだが、そうした物語を語るための儀式だけが形式的に残ってしまい、物語そのものは崩壊してしまっているということをこのディゾルブは告げている。のちに小野田の父のような存在であった谷口(イッセー尾形)によって行われる命令解除の儀もまた形だけのものであることがおのずと強調される。歌うべき歌詞もなく、メロディだけが虚しく響く。

 小野田は日本兵たちの戦没地を回り、「あなたのことは忘れない」というが、それは役所広司によってかつて放たれた「お前は確実に存在した」という言葉とどれほどの隔たりがあるのだろうか。そんな小野田自身の30年の生もまた、そこに「存在した」のだと「日本兵」の誰も肯定できなかったことはもう述べた。「日本兵」ではなく、連なる父子関係からも独自の距離をとっている鈴木は確かに、彼が「いた」のだと言える存在だったのかもしれない。だが不思議なことに、谷口を連れてきたあと、彼が重要な役割を演じることはない。では繰り返すが、「私は存在したのか?」という問いは、あの空で、文字通り宙吊りにされたままだったのか。しかし、その前に彼の30年が「あった」のだと克明に示す一瞬がある。それは、ヘリコプターに乗る直前、口を開かぬまま茫然として歩く小野田を見つめるルバング島の島民たちの姿である。小野田がろくに見ようともしなかったその存在に見つめられ、見つめ返すとき、世界などと風呂敷を広げなくとも、「ルバング島」に同居しながら周縁に追いやっていた者たちを目の当たりにしたときに初めて、小野田は紛れもなくここに生きたのだと実感したはずだ。彼らのまなざしは、救いでもなければ、裁きでもない。「お前は確実に存在したのだ」と告げるまなざしは、だからこそ厳しく、その過酷さは映画のそれそのもののようだ。

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