ともに生き延びる

池田百花

© 2021-LES FILMS DU POISSON–GAUMONT–ARTE FRANCE CINEMA–LUPA FILM

 物語は、ベッドの上に裏返しに並べられたポラロイド写真のイメージから始まり、そこで主人公のクラリス(ヴィッキー・クリープス)が、トランプで遊ぶ時のようにそれらをめくっては元通りに裏返して苦しそうにわめいている。そしてショットが切り替わり、今度はひとりでドライブしながら、彼女がカセットに録音した娘の拙いピアノの演奏を聞いていると、その音が別の場所から、つまり「彼女のいない部屋」から聞こえてくる。そこにはピアノを弾く娘と息子、そして父親がいて、彼らは彼女のいない日常を送っているのだが、ふたつの異なる空間にいるはずのそれぞれが発する声や音がまるで交感しているかのように響き合う。こうして、物語の時間軸は定まらず、つじつまの合わない描写が重ねられていく中で、あらゆる事実関係が宙吊りにされたまま、しかしここに映っているのが、おそらく何か決定的なことが起こってしまった後の光景であることが伝わってくる。

 一体何が起こってしまったのか、という問いに対して、この映画に与えられた「家出した女の物語、のようである」という一文を手掛かりに、クラリスが家族を置いて家を飛び出し、その先で亡くなって亡霊として家族のもとに戻ってきたのではないか、と仮定することもできるかもしれない。先に言ってしまえば、結局この予想ははずれるのだが、強調したいのは、彼女が亡くなったわけではなさそうだとわかってからも、その姿が依然として亡霊のように見えてならないことだ。というのも、繰り返される日常の中で子供たちや夫が年を重ねて変化していく様子がはっきりと描かれるのに対して、ほとんど変わらないクラリスの時間は止まってしまっているようで、彼女の存在自体が脆くて不確かに感じられるからだ。幼い頃の息子が宇宙服を着てバスルームにいる忘れがたい場面に顕著に表れているように、何かによって「壊されて」しまった母親がいつまでたっても戻らず、その不在こそが逆に彼女の存在を時として痛々しく浮かび上がらせることも、亡霊らしい彼女のあり方を示していないだろうか。

 クラリスの亡霊らしさに関して言えば、現実の世界にいながらにして彼女の生が通常とは違う次元で展開されていることもまた、その特徴の一部を成していると言えるかもしれない。こうして、起こってしまった出来事が引き起こす苦悩にさいなまれて、彼女がいわば壊れしまった後、生きることの耐えられなさを抱えながらもなんとか持ちこたえようとする動きには、「生きる」というよりも「生き延びる」という表現がよく当てはまる。しかしそもそも「生き延びる」とは何を意味するのか。たとえば、生きることの不可能性を探求したのはモーリス・ブランショだったが、ジャック・デリダは、ブランショの小説である『死の宣告』に登場する女性主人公について論じながら、死の淵を彷徨いながらも「生き延びる」彼女の生の中に肯定の声を聞き取ろうとした。「生き延びることの特性、その肯定の軽やかさ、それ自身の記憶をもたない肯定から肯定への、肯定への肯定の軽やかさ」(ジャック・デリダ『境域』、書肆心水、2010年、p.255.)。この映画で主人公が「生き延びる」姿に焦点を当てる理由を彼の言葉の中にたどって、彼女のうちにも、死に曝された生に対して肯定で答える軽やかさを聞き取ってみたい。

 映画に登場するクラリスにとっては、「生き延びる」ための方法は想像することだった。そこで、冒頭に置かれたポラロイド写真の場面を思い返すと(これは象徴的な場面として映画の最後に再び登場する)、最初、過去の思い出を表すモチーフである写真を前に彼女が苦しんでいることは、彼女が思い出と妥協できずに苦しめられていることを表しているように見える。しかしそこから彼女はそれらの過去のイメージの断片をつなぎ合わせて、その上に新たな想像上の世界を作り出そうとする。この作品について語る時、監督であるマチュー・アマルリックがあえて「喪」という言葉を用いなかったように、クラリスが眼差しているのは過去ではなくその後の世界なのであり、彼女が物語を想像する身振りは軽やかでありながら力強い。さらに、その動きの下に、娘の奏でるピアノを通奏低音として聞き取ることができるなら、彼女が強く憧れていたマルタ・アルゲリッチの印象とも相まって、その音色にのせられたクラリスの動きは、ますます止まるところを知らずに突き進んでいく力に満ちている。

 最後に、映画の原題であるSerre moi fort〔「強く抱きしめて」という意味〕について、これは作品内で用いられている楽曲の歌詞から取られているのだが、歌詞の中にはSerre moins fort〔moinsは「より少なく」という比較級を表すので、ほとんど反対の意味〕という似て非なる表現も登場する。監督のアマルリックは、直前までどちらにするか決めかねたうえ、前者を選ぶことにしたそうだ。この選択は、苦悩をもたらす思い出や再び触れるのが不可能だとわかっている相手を遠ざけるのではなく、たとえそれが起こりえないとしても願い続けたいというクラリスの声に耳を傾けさせてくれる。しかもそれは、見たり聞いたりする以上に、おそらく知覚の中で最も身体的な触れるという感覚を欲望する声だ。だから彼女は、自ら生み出すイメージの力強さをもって、触れえないものに語りかけて手を伸ばす。そして何より苦悩に満ちた現実に差し込む光の穏やかさが、クラリスの想像によって召喚される感覚の豊かさを映し出し、彼女が彼らとともにいる世界の証明となっている。

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