ただ隣にいる
浅井美咲
映画の中盤、山添くんの恋人である千尋は、山添くんの家の前でばったり出くわした藤沢さんに「有り難うございます、彼と向き合ってくださって」と告げる。それに対して藤沢さんは「いえ、たまたま隣の席に座っているだけなので」と間髪入れずに答える。この「たまたま隣に座っているだけ」という表現は、山添くんと藤沢さんの関係を考えるとき、このうえなくしっくりくる言い方であるように思う。「向かい合う」のではなく「隣り合う」。二人は恋人になることはないし、友達だとも明示されない。切り返しがほとんど使われず、同じフレームの中に一定の距離を保って収まり続ける山添くんと藤沢さんは明らかな言葉で表すことはできないけれども、しかしたしかな関係を築いていく。
山添くんと藤沢さんが映画の中で初めて同じフレーム内に収まるのは、藤沢さんが山添くんのデスクまで差し入れのシュークリームを持っていくシーンであるが、山添くんは生クリームが嫌いだとその差し入れを返し、藤沢さんは彼の素っ気なさに狼狽える。イヤホンをしてスマホを観ている山添くんの背後から藤沢さんがシュークリームをそっとデスクに置き、足早に山添くんがフレームから立ち去っていくまでのこのシーンの中で、藤沢さんはずっと山添くんの方を見ているものの、山添くんが彼女のことを見ることはなく、二人は正対することすらない。立ち上がった山添くんは少し手前にいるためか頭の上がフレームから切れて藤沢さんよりも随分大きく見えて、対して藤沢さんがとても小さく見える。このように映画の序盤、二人の間には上手く噛み合わない居心地の悪さが漂っていて、観ている我々にもそれが伝播してくる。
©瀬尾まいこ/2024「夜明けのすべて」製作委員会
山添くんが会社で発作を起こした後、藤沢さんは彼の自宅まで食料や飲み物を届ける。この時藤沢さんは山添くんにパニック障害かどうかを聞き、自分もPMSで同じ薬を飲んだことがあると告げる。狭い玄関先を舞台とすることで、必然的に二人は向かい合うことになり、それをキャメラが横から捉えている。藤沢さんは山添くんを見上げ、どこか彼の顔色を伺いながら話す。そもそもすぐに立ち去ろうとした藤沢さんを呼び止めて玄関前に戻らせたのは山添くんだが、彼も初めて藤沢さんに正対している一方、ドアの前に立ちはだかることで、藤沢さんがそれ以上踏み込むことを暗黙のうちに禁じているようにも見える。藤沢さんは山添くんに「お互い無理せず頑張ろう」と告げるが、山添くんはその言葉が腑に落ちない。PMSとパニック障害はしんどさやそれに伴うものも全然違うのではないか、と。少し間が空いた後、「病気にもランクがあるということか、PMSはまだまだだね」と言い残し、藤沢さんは張り付けた笑顔で足早にフレームから去ってしまう。山添くんの首を傾げるリアクションは、おそらく藤沢さんが自分の言葉を誤解していることへの戸惑いを示しているのだが、向き合っているにも関わらず、藤沢さんは彼のその違和感を見逃してしまう。向き合ったからこそ、互いの事情を告げることができた。しかし同時にこの場面においても二人はまだ噛み合っていない。
ところがこの後、二人の間にあった壁は融和し始める。電車に乗れない山添くんのために自転車を持ってきた藤沢さんは、玄関のドアを開けた山添くんが散髪ケープをつけているのを見て、私が髪を切ろうか、と提案する。先述のシーンでは玄関の外で二人を横から捉えていたキャメラが部屋の中に入り、山添くんの背中側からやりとりを映すが、奥にいる藤沢さんは部屋の中を少し覗いたあと、山添くんの顔を見ながら二、三度頷く。山添くんは部屋を振り返ってその提案に迷いながらも、藤沢さんに気圧された様子である。この時藤沢さんは画面の奥に、山添くんは手前にいて、彼の方が大きいにもかかわらずなんだか藤沢さんの存在の方が大きく見える。続いて藤沢さんがカーテンを開けるショットに転じ、藤沢さんが山添くんの部屋に踏み込んだことを示唆するとともに、山添くんの部屋に陽光が差し込む。二人で床にビニールを敷き、山添くんが正座して待つ後ろで藤沢さんがバリカンを試しに動かしている様子をキャメラが引きの位置から捉える。その後キャメラは藤沢さんの手元を映すように横に移動し、耳上の髪を切るのを捉えるのだが、藤沢さんは慣れない手つきで短く切りすぎてしまう。藤沢さんの息を飲む声とともにキャメラは引きの位置に戻り、スマホで耳のあたりを撮影してそのあまりの短さに驚き、腹を抱えて笑う山添くんと、謝りながらつられて笑う藤沢さんを映す。山添くんに至っては思わず立ち上がって廊下に行き、また部屋に戻ってきて崩れ落ちるくらいの大笑いぶりだ。山添くんの部屋の中に藤沢さんが足を踏み入れたこと。暖かい陽の光が差す部屋で、彼の髪を切ったこと。この一連の二人のやりとりは彼らが互いの距離を見つけ始める些細な、しかし決定的な場面となる。
そして彼らは同じフレームの中で隣に並んだり、目を合わせずに会話をするようになる。例えば、山添くんが日曜日に会社で社長の弟が遺したプラネタリウムの解説のテープを聞いている時、窓から藤沢さんがガレージで社用車を洗っているのを見つける。この身振りはこれ以前にPMSの兆候が出ていた藤沢さんを落ち着かせるため、山添くんが提案した身振りであり、藤沢さんの中に山添くんとの日々が生きているひとつの証左である。すぐさま山添くんは階下に下りて藤沢さんが車を洗っているところに背後から近づいていく。画面の少し奥で立ち止まった山添くんが「何かあったんですね」と突然声をかけても、足音が聞こえていたのか、藤沢さんは驚く様子がなく、一瞬だけ彼の方に顔を向けて「ちょっとイライラしちゃって」と答える。その返答を聞き、山添くんは「それでわざわざ日曜日に?」と言いながら藤沢さんの方へ移動し始める。車内から窓越しに二人を捉えていたキャメラを背後から二人を映す位置に切り替え、彼らの上半身を映す。山添くんは藤沢さんとバケツ一個分ほど離れた距離に立って横に並び、「それはだいぶヤバいですね」とだけ言って車の上の方を拭き始める。その後キャメラは再び車内に戻り、窓に垂れるカーシャンプーの泡越しに、車の上の方を見上げながら洗う山添くんと窓枠を少し下を向きながら洗う藤沢さんを映し出す。山添くんが藤沢さんの雰囲気を感じ取りながら少しずつ近づく様子と、見なくとも山添くんを認識しているような藤沢さんの振舞い。近づきすぎず、しかし、お互いの存在を確かに感じられるその距離感。シーンの最後、横並びでまったく別の箇所を洗っている二人が窓越しに映るショットにも、彼らの関係がやはり表れている。
©瀬尾まいこ/2024「夜明けのすべて」製作委員会
洗車シーンの後、夜のオフィスで二人は隣のデスクに腰掛けている。山添くんは資料を読んだり、机にあるプラネタリウム解説用の原稿に目を通したりしていて、藤沢さんはスマホを見ながらオフィスチェアをくるくる回転させている。藤沢さんが山添くんにところでなぜ日曜日に出勤しているのか尋ねると、山添くんは原稿の参考にするための音声テープを探しに来たのだという。日曜なのにわざわざ?と訝しげに言う藤沢さんに対して、「僕パニック障害なんでね」と山添くんが答えると、藤沢さんがすぐに「パニック障害の人って平日はやる気ないのに土日になると急に出社したくなるの」と冗談めいた口ぶりで言うのだが、山添くんはその言葉の途中で思わず笑ってしまう。フレームの中で変わる位置関係とともに変化していくのが、藤沢さんが山添くんと話すスピードや彼にかける言葉である。ぶっきらぼうであまり言葉を推敲せず発する彼の会話のスピードと揃っていき、悪戯で冗談めいた言葉をかけることも増えていくのだ。フレームの中で反復される隣り合う位置関係が二人にとって心地よい関係を作り出していく。横並びの位置にいると相手の表情の機微を読むことなく会話をすることが自然になる。だからこそ二人の間で交わされる言葉は、例えば「お互い無理せず頑張ろう」というような、相手を励ますためのものでも、慰めるためのものである必要もなく、思ったことをそのまま口に出すように変わっていくのだ。彼らの位置関係や会話のスピードが段々とこのように変化していくことで、まさに心が隣り合っているような信頼関係を見事に描き出す。移動式プラネタリウムを上映するシーンにおいて、中で二人で作り上げてきた原稿について話す藤沢さんと、外の受付席に座ってプラネタリウムの方を少し振り返り、彼女の声に耳を傾ける山添くんの表情が映される時、隔たった場所にいるはずの彼らが不思議と隣り合っているように思えるのは、見なくともお互いを感じ合うという関係性がここでも反復されているからに違いない。
映画終盤、藤沢さんはコピー機の前で隣にいる山添くんに会社を辞めることを伝える。すると山添くんはあ、そうなんですかとだけ答え、すぐに藤沢さんの転職先の話になる。さらに藤沢さんが山添くんに今後どうするのかを尋ね、山添くんは栗田科学に残ることにしたと告げるのだが、このシーンは山添くんが同僚に呼ばれることで早々に終わってしまい、その呆気なさには観ているこちらが拍子抜けしてしまう。山添くんと藤沢さんの関係には力みがないのだ。互いの存在に依存したり、価値観を押し付けたりするわけではなく、相手の不調を察し、見守る気遣いがごく自然に存在している。「ただ隣にいる」人がいるだけで、病気が根本的に快方に向かうことはなくとも、今日の憂鬱が少し軽くなるかもしれない。藤沢さんは転職した後もPMSの症状に苦しむだろうし、山添くんのパニック障害も治るまでにどれだけ時間がかかるかわからない。しかし、プラネタリウムの上映を終えた後、来てくれた人たちに横に並んでお礼をし、最後にやり切ったと言わんばかりに笑顔で微笑み合う二人の表情を見た時、こんなにも満ち足りた関係はないと思わずにいられない。山添くんと藤沢さんの隣り合うあり方は、他者と関係を作っていく上でのひとつの希望だ。