爆走するユニゾン

浅井美咲

 声について。はじめてアルバムを通しで聞かせてもらって、「プライベート・スーパースター」が流れてきた時、なにか新しいものが生まれていると思った。好きなアーティスト同士のコラボ曲を聞いた時、お互いの声の良さが相乗効果を生んでいるな、とかは思ったことがあるけれど、ゆっきゅんも君島さんもこの曲のために選んだ、というか調合したオーダーメイドの声を使っているような感じで、ふたりのソロ仕事ではあまり聞き馴染みがない声だった気がする。そして、サビで始まるふたりのユニゾンでは、あろうことかふたりの声がひとつの塊になっていた。ふたつ声があることを認識はできるんだけど、うまく切り分けられない。切り分けがたいほど、ひとつになっている。これは「なんかまあ仲良くなったし、いい落とし所で曲作ってみましょう」とかいう生温い話じゃない。実はふたりの声質が似ているんですよね、ということはゆっきゅんも言っていて、確かに本当だと思いながら、それに加えてふたりにははっきりと目指すもの、この曲で歌いたいものがあって、このコラボレーションではそれを形にするために、何か彼らがこれまでやってきた仕事以上の可能性を模索しながら、心を重ねて爆走したんだと思った。そんな本気を見せられたら、私の心のすべても攫われてしまって当たり前だと、たまらない気持ちになった。

 声と声が混ざって、形を変え、新しいなにかを作り出す。それは『生まれ変わらないあなたを』に収録された、他のソロ曲でも起こっていることだと思う。今回のアルバムでは12曲で12人の人の生について歌っているとのことで、ゆっきゅんがそれぞれの曲で使っている声があまりにも違う。曲ごとに人格を変えようとする試みがアルバムを通して聞いただけでわかってしまうのってすごいと思う。なんでこんな芸当が可能なのかというと、ゆっきゅんがインタビューでも言っている通り、いろんな声の引き出しがあるからだろう。数えきれないほどの歌姫たちの声がゆっきゅんの喉には住んでいて、引き出しから引っ張り出してきたり、はたまた調香師みたいに混ぜ合わせたりして、詞に命を吹き込むために、曲の主人公にぴったりな声を作る。ayuも川瀬智子も、ゆっきゅんが『生またを』の中で歌っていることとまったく同じことは歌ってこなかっただろうけど、それぞれの曲の中に彼女たちの声が息づいている。

 ところで、新しいものを聞いたり見たり、触れたりするのって本当はとっても体力がいる。個人的なことを言うと、ここ最近は好きなアーティストでも、新作のフルアルバムを通しで聞けたためしがほとんどない。聞けてリード曲くらい。でも私が『生またを』を何度も通しでリピートできているのは、限界者への眼差しがあるからだったと思う。何も受け付けない気分でベッドに横たわっている時も、「誰にも何も思われたくない」と歌う「ログアウト・ボーナス」が、「何をやったって 何にもならないって 思う日もあって」と歌う「いつでも会えるよ」が部屋で流れていることと自然と共存できる。ゆっきゅんの声で歌われるそれぞれの曲の主人公が、部屋の隅っこだったり、もしかしたら私の中に現れてくれているのかもしれない。もうどんな音楽を聞いても何も感じられないかもしれない、って思う日もあるけれど、そんな私の心が感応することができた不思議。『生またを』を生み出してくれて、使い物にならなくなりそうな心のそばにいてくれて、ほんとありがとう。

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