失恋は生に関わるひとつの技芸

結城秀勇

「恋愛を好き勝手にやるように、失恋も好き勝手にやる、失恋をやり切るって大事ですよね」。
 2023年12月8日東京日仏学院、ジャック・ドワイヨン『放蕩娘』上映後、学生時代の師である三浦哲哉とのトークで、突如発せられたゆっきゅんの一言がブッ刺さった。映画とはあまり関係ない(ように思えるが、下記の文脈では、ジェーン・バーキンという女優のありようとしてどこかでつながる)この発言、すげーと思った。失恋とは、ただ恋愛の終点(あるいは恋愛という状態が生起せずに終わった地点)を指すのではなく、積極的にそれを生きることができる持続的な状態なのだ。失恋自体は他者(相手、あるいは多様な社会的状況など)から結果的にもたらされる受動的なものに過ぎないのだとしても、それをあたかも"自らが主体的に選びとったもの"として生きることが可能なのだと、ゆっきゅんは語る。すげー、なんかミシェル・フーコーもそんなこと言ってなかったっけ?そうそう、「(……)自由とは、人が他の人々に行使する支配力の枠のなかで、自分自身に行使する支配力のことである」(『性の歴史Ⅱ 快楽の活用』)。
 その発言が曲として結晶化したのが、このアルバム所収の「次行かない次」なのはみなさんご存知でしょう。そして「行けない」のではなく「行かない」ことの重要さについては、多くのインタビューでゆっきゅん自身の語る通り。ただ、このフレーズのほんとうのすごさは、「次に行く」という暗黙のうちに是とされている価値観にNOを突きつけること自体ではなく、その口ぶりが習慣化され無意識化された紋切り型(女バス的かけ声)を意図的に模倣していることにある。無条件に次があるというマインドセットにおいてのみ存在するはずの「次行こ次」の2回目の「次」は、「行かない」と宣言することによってなんら自明のものではなくなるはずなのに、それでもそこにある。「次」そのものを拒否する代わりに、ひとつめの「次」とふたつめの「次」の間の距離をどこまでも引き伸ばす。その柔らかな拒否とでも呼びたくなる物腰は、インタビューで思わずポロリとこぼしてしまったように、ハーマン・メルヴィルが書くところのバートルビーの回りくどいがそれゆえに断固たる拒否に、どこか似ている。
 いやそもそもそれは、このアルバムのタイトルである『生まれ変わらないあなたを』からすでに明らかなのであって、そこでもまた可能の否定ではなく、単純否定が選び取られている(しかしゆっきゅんの歌詞の中に可能の否定がないわけではないのだ。「読めない小説 観ない映画のフライヤー」。本当にやりたいことをやるためには行動力の問題もある)。ゆっきゅん自身が語るように、可能の否定と単純否定を並べることで生まれるかもしれない「エモい」効果と引き換えに、単純否定による過去の出来事の主体的な選択がそこで行われている。まるでフリードリヒ・ニーチェの描くツァラトゥストラのように。「一切の〈かつてそうであった〉は、断片であり、謎であり、怖るべき偶然であるにすぎない、ーーしかしついにある日、創造せんとする意志は、それに向かって、「だが私は、それがそうであったことを欲したのだ」と言うのである」(『ツァラトゥストラかく語りき』)。否!そればかりか、ゆっきゅんは、〈かつてそうではなかった〉ことさえも選び取るのだ。「行ったことない駅ビルの 過ごしたことない放課後が…蘇るじゃん」(幼なじみになりそう!)
 ねえこれ、革命ですか?

 こんなことを長々と書いたのも、別にゆっきゅんの作詞における「哲学」だとか「世界観」だとかの話がしたいからじゃない(ていうか、フーコーもメルヴィルも特に関係ないことは本人に確認済み出し、たぶんニーチェもそう)。そんなふわふわしたなんか高尚そうな背後にありそうなものなんて実はどうでもよくて、問題はどう生きるかなのだ。失恋も引越しも友達の結婚も私たちの生活に分かち難く結びついていて、どうしようもなかったり、どうにかできたかもしれなかったけどどうにもならなかったあれやこれやについて、私たちはよく考える、ただそれだけ。
 だから「プライベート・スーパースター」という孤独についての歌が、君島大空を交えたふたつの声で歌われていることがとても重要なのだ。この曲は「スーパースター」の「プライベート」についてのもの(スターはほんとは孤独うんぬん)ではないし、「プライベート」な「スーパースター」の話(あなたは私だけのスーパースター❤)でもない。ふたつの声が、呼びかける者とそれに答える者という対応関係にないことはインタビューで語られている通りだが、同様に「プライベート」と「スーパースター」という概念が合体することによって「プライベート・スーパースター」が誕生するわけでもない。はじめに「プライベート・スーパースター」という言葉が「意味よりも速く」存在する。それは部分の集合によって組み立てられるのではなくむしろ、ひとつのこうでしかありえない言葉がふたつの声に分割される時にはじめて実現される。
 阿部はりかによるこの曲のMVの冒頭のタイトル手書きシーン、「プライベート」と「スーパースター」の隙間で書き手が代わるように、サビの直前で「ありえない孤独を」とヌルッと君島の歌声が入ってくる時(この曲を最初に聞いた数回は、ふたりの声がどこで切り替わっているのか構成的に理解できなかった)、そしてサビでふたりの声が重なる瞬間、これが「プライベート・スーパースター」なんだ!しかもふたりも同時にだ!(安西先生)となる。でも、ゆっきゅんがこの曲を「光の突風」のようだと形容するように、そんなことはこの曲とふたつの声が通り過ぎた後になって、振り返って思うことなのだ。まるで「プライベート・スーパースター」に出会えた後で、それまでは喜びが寂しかったと気づくみたいに。
 はじめから言っているように、私たちは失恋も孤独も選べない。それは「この世に燃やされ」るように、なにかの影響、他者の支配力の直中で、強制されたものに過ぎない。しかし「今を選んで生きてきた」私を主体的に選び取ることはできる。運命を肯定するが必然性を否定すること、自分の自由を奪う傷の原因に自らなること。まあなんでもいいがとにかく、『生まれ変わらないあなたを』を聞くことは(あるいは歌うことは)、生に関わるひとつの技芸なのである。

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