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■30日(日)
『ミシュカ』ジャン=フランソワ・ステヴナン
下り坂を猛スピードで駆け下りる車椅子が素晴らしい。その加速が極限に達して空中に浮かび上がってしまいそれでもそのまま疾走するかのように繋がる、その次の麦畑をなめるように飛ぶ空撮のショットがいい。そんな夢をよく見る。
夢は気付かぬうちに耳に飛び込んでくる周りの音で、その様相を一転する。フェリー乗り場で、近くを通るバスの音の中に聞こえるはずのないジェット機の爆音を耳にしたり、ありえない反響をする救急車のサイレンを耳にしたり。そんな些細なことで確実に何かが変化する。友人達が喧嘩したり、そうかと思えば抱き合ったり。そこには全てを説明する論理なんてない、知らずに耳にした周囲の音のせいだ。
ミューラーの戯言かと思われたジョニー・アリデーが現実となるのは、ヘリコプターの音に導かれて草原へと出て行く時。空を飛ぶヘリもそれが着陸する瞬間も目にすることなく、すでにそこには立ちションしてる男がいる。音が先に訪れる。スコッチを飲みながら、ジャン=フランソワ・ステヴナンは語っていた。「私はロックが好きだ。CDを聞いて理解し、ライヴに行って感じる。その順番が好きだ」。
ロックスターになりたかった。バックステージから入っていって舞台にあがり、まだ誰もいないフロアを眺める。舞台から飛び下りてフロアを歩き回っていろんな角度から大きなステージを眺める。視界はもちろんシネマスコープで。そんな夢も見る。そこには音がないのだが。
夢の中のようなビデオ画像の中、バックステージからふらふらと入っていくジェーンが、溢れる音の中で唯一ジョニー・アリデー自身を目にするのは、「今夜の音響は!!」と叫ぶ姿だ。ジョリ=クールの物真似ですでに何度か耳にした姿、だ。音は反響してぶつかったり離れたりを繰り返して、何かを何処かへ導く「方向を与える」。
演出と呼ばれる方向付けの仕種をカサヴェテスがする自然さをステヴナンは賞賛していた。『ミシュカ』を見る私達は、はじめから最後まで自然に導かれて行く。
このフィルムは海の深い波の音で始まっていた。
(結城秀勇)
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■30日(日)
『HIGH CRIMES』カール・フランクリン
何がいけなかったのか・・・。この物語を支える「嘘」が、物語上成立していなかったことではないだろう。結局どちらが嘘をついているのかなんて、興味の無い話だから。ではなにが?物語の舞台はアメリカ合衆国カリフォルニア。物語の核となる「事件」がかつて起きたのは遠く離れたエル・サルバドル。その間に横たわる時間は、12年という歳月。事件の鍵を握る証言を求めにチャーリー(モーガン・フリーマン)が訪れた先はメキシコ。軍事法廷という小さな舞台を中心に、場所と時間を移動し続け、物語の核心へと迫っていくはずなのだが・・・。
だがしかし、余りにも簡単に事が進行しすぎる。12年前の出来事を誰もが鮮明に思い出し、語る。エル・サルバドルで事件の当事者となってしまった男が、なぜか突然カリフォルニアにいる。まるでお隣の町にでもいったかのように、メキシコに姿を現すチャーリー。それらこの物語を構成する各パズルがいとも簡単に当てはまっていく。
そこに越えがたい距離は存在しない。まるで一通り用意された「壁」を、攻略法に基づいてクリアしていくゲームのように。主人公に群がるマスコミも、主人公に闇の制裁を次々に与える人物たちも、ましてや主人公でさえもが、用意されたシナリオ通りに動く。越えがたい距離を越えた瞬間に訪れる何かは、決して起こらない。
問題は、越えがたい距離(壁)を前にした時の忍耐の時間が欠落していたことかもしれない。クリアできると最初から分かってしまっているゲームを、攻略法に従って進めていくことほど、無意味なものは他にないはずである。
(和田良太)
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■14日(水)
東京から遠く離れて/三鷹
「いやさ、私が聞きたいのは毎日何をしているかということだよ」
「一番頭のはっきりしている時間は、ぼやけさすのに使っていますよ」
--ボリス・ヴィアン『うたかたの日々』
家から、もしくは三鷹駅から自転車に乗って3分の所にそのカフェはある。階段を上り、あつい日差しを避けて店内に入る。平日の昼過ぎということもあって3、4組の客がのんびりと談笑をしている。いろんな形の椅子とテーブルがあるなかで、2人がけの窓辺のソファーに座る。カフェラテを注文して、タバコに火をつける。風邪気味でちっともさえない頭。シナモンを少し入れて、カフェを飲む。読みかけのプルーストに目を走らせる。どうもこの本を読んでいると、甘いものが食べたくなる。チーズケーキを注文して食べる。一口大にフォークで切り分けたチーズケーキを口に運ぼうとした瞬間、ケーキは床にぽとりと落ちる。ぼくはなんだかいたたまれない気持ちになる。
その昔、ぼくは山口にある祖母の家の前で川に落ちた。父のぶかぶかのサンダルを履いたまま川をのぞき込んでいたので、足を滑らせて落ちたのだ。真ん中の兄が溺れるぼくを必死で川から引き上げていた頃、6つ離れた一番上の兄は流れたサンダルを追いかけていった。ぼくが助かった後で、父は長男を叱った。弟の命とサンダルとどっちが大切なのか、と。その時見えていたはずもないのだが、ぼくの頭の中には映画のワンシーンのように俯瞰で撮られた映像が鮮明に蘇る。ぼくの頭から離れないのは、落ちていく自分の姿ではなくて、流れていくサンダルの方である。それが、なんだか悲しくてしょうがない。子供が風船を離す、もらったばかりの服が汚れる、大事にしていたものが、待ちに待っていたものが、目の前で急に失われるのを見るがつらい。
ふと我に返ると、あたりは夕暮れ。店内のBGMもポサノヴァから打ち込みの夜っぽい音にかわっている。客層も、暇つぶしの若者から、仕事帰りのお姉さんへと移行しつつあるようだ。友人からのメールが来る。しまった、サッカー見なきゃ、会計を済ませて外に出る。サッカーは、先ほどのセンチメンタリズムとは無縁のスポーツだ。純粋に、面白いゲームを見たいものである。
ここは、一応東京都なのだが、多摩川上水や、ぱっとしない商店街を自転車で抜けながら山口を思い出す。美味しいケーキ屋も、レコード屋も古本屋も井の頭公園を抜けたお隣の吉祥寺にあるのだが、ぼくには自転車があるさ。
(松井浩三郎)
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■5日(水)
『条理ある疑いの彼方に』フリッツ・ラング
死刑反対のキャンペーンをはるために、自ら無実の罪で投獄される男。予定通り殺人容疑で死刑判決を受けるのだが、彼の無実を裏付けるために周到に準備されたはずの写真による証拠は偶然の事故によりあっけなく灰と化す。しかし発見された手紙により立場は逆転、無罪に。しかしさらに彼は実際に殺人を犯していることを知った婚約者の電話により、再び彼は監獄へと連れ戻される。当時のプロットとしては確かにやりすぎかもしれない、会社や観客が戸惑ったのもわからなくはない。もはや感情移入を誰にも許さない孤高に達しているようにも見える。だが果たしてそうだろうか、それはラングがドイツで置かれた状況だけにはとどまらない。彼がハリウッド時代に繰り返し描くテーマ、メディアに翻弄される社会のなかで孤独な状況に追い込まれる男の運命は現在の私たちが置かれている状況と何ら変わりはしないのだから。
偶然と必然、記録されたものとと失われた記録が交錯するのは何もこの映画だけではない。記録することが可能になった現代に置いては記録が無ければ事実が立証できなくなるという倒錯が起きる。アウシュビッツが記録できなかったことはその存在を否定するという詭弁をはくことすら可能にしてしまうという恐るべき世界。
残された記録は圧倒的な力で私たちの思考に影響を与える。テロがワールドトレードセンターに衝突する航空機の映像で代弁されたように、日本大使館から連れ戻される親子の映像が繰り返し流されているように。それらは偶然に撮影されたものなのか、それらは意図的に撮影されたものなのか、そして何のために今ここで流されているのか。勿論あるものはある。だが私たちにはあるものが見えているのか?そして無いものは本当に無いのか?見えるものを判断できないばかりでなく、私たちは見えないものに対する想像力までも奪われている。写真や映像といった記録メディアは全てではないのに。記録に真実があるとは限らない、が、事実は常に存在する。
(松井浩三郎)
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■1日(土)
『緑の大地』ピナ・バウシュ/ヴッパタール舞踊団
何について話したいかというと、ペータ−・パプストの舞台装置。大きくて、でかい。「そそり立つ岩壁(高さ10m、重さ5t)は苔とシダに覆われ、数カ所から水が沸き出している」、制作ノートにはこう書かれているらしい。その通り、本物の苔とシダに覆われた巨大な「大地」は第一幕では岩壁としてダンサー達の背後に立てられ水が音を立てて滴り落ちている、そして第二幕では地面に倒されて「大地」となる。はずだったけど、もちろんその「大地」には厚みがあって、彼らの身長程もあるその黒い厚み(そこは緑の苔にもシダにも覆われていない)は「緑の大地」が虚構であることをはっきり知らせてくれる。
そもそも『緑の大地』は、ピナ・バウシュが86年から始めた都市シリーズのひとつ、そのブダペスト版であり、音楽はほとんどがいわゆる「ジプシー音楽」。2000年初演らしい。パンフのなかで田之倉稔は巨大な岩壁のことを「これがノマドとしてのピナの目に映った<ハンガリー>の光景に違いない」と書いてるけど、もちろんこれは「<ハンガリー>の光景」でもなければ、「トランシルヴァニアの渓谷」でもないし「ゲッレールトの丘」でもない。ここは新宿文化センターだし、岩壁はペータ−・パプストが製作した高さ10m、重さ5tの作り物だ。
突出した装置とダンサーの動きとから意味を読み取る以前に、まず、彼らの動きからもピナ・バウシュの振付けからも逃げてゆくような虚構としての装置に驚くべきだ。その作り物が動かされるとき、つまりダンサーや俳優には無関心に地面へと倒されるとき、「劇場」が作動する。するとそこはブダペストでもなく新宿でもなくて、なんだか、例えば言葉が固まる場所だったり、アクションが固まる場所になったりする。ふと風に揺られる緑色の葉っぱが言葉を固まらせる、そんなことを映画で体験するように、ガタガタと動く装置や照明が言葉やアクションを固まらせる、そんなことを劇場で体験する。するとそこは新宿になりブダペストになる。矛盾してるかな、いや、矛盾はしてない、きっと。
ちなみに僕はブダペストに行ったことないし、新宿にも行ったことがない。
(松井宏)
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■1日(土)
『シアタープロダクツ』、あるいは劇場生産のプロセスについて
Tシャツを布から引っぱがしたことはあるだろうか。僕はある。かなりの快感だ。
「自らを劇団であると称する」、と紹介されることの多い3人だけのアパレルメーカー『シアタープロダクツ』は、しかし直訳すると「劇場」「生産品」であるという辺りに、実は彼らのデザインの本質があると僕は勝手に思っている。ここで仮に「自らを劇場生産者であると称する」と言い直してみると、にわかに事態ははっきりする。そこには、彼らが生産した服があって、しかしそれは布にペッタリと張り付いていて、それをビリリッと布から引っぱがしてみる。それを今度は広げてみて、あるいはまた布に戻したりして、ようやく最後に袖を通す。そんな貴方のユーモラスともいえる一連の行為は、実はあらかじめ服に仕組まれてしまっている。服を買って、服を着るという一連の行為は、元々何気ない日常の行為の連続のなかでは、多分に儀式的かつ高揚感のある作業であるのだが、しかし新しく無性に微笑ましいこの一連の行為がその中に仕組まれることで、事態は決定的に変貌してしまう。貴方が、布に張り付いたTシャツをはがそうと思ったその瞬間に、「服を着る」という行為全体は、全く別の「振る舞い」へと変容してしまうのだ。
確かに武内昭、中西妙佳、金森香の3人は、過剰なまでに「振る舞う」わけで、それは「劇団」と呼ぶにふさわしいのだけれど、彼らの服を買った貴方も、彼らが服に仕込んだ仕掛けによって、確実に「振る舞う」ことになるはずで、そのとき貴方は、その貴方の「振る舞い」が事態のささやかだが決定的な変貌を生みだしてしまっていることに気づくはずだ。
「ビリリッ」。こうして今夜も「劇場」が生産されていく。
(藤原徹平(隈研吾建築都市設計事務所))
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■1日(土)
『PANIC ROOM』デビッド・フィンチャー
決して視線が交錯することはない。なぜって、それは両者の間に死をもたらす瞬間だから。だから弱者にとって、視線が交錯することは避けなければいけない。強者は密室への視線を持たない。弱者は密室に留まることしかできず、あるのは強者を見つめるカメラのモニタのみ。力関係に変化が起きようが、その視線の関係は変化しない。複数のカメラに見つめられる対象、複数のカメラでその対象を見つめる存在、そしてその二者間の距離を見つめる複数の僕ら。その距離が果たしてゼロになるのか、或いはゼロを回避するのか、その一点のみが問題となる。
ひたすらに内部を見ようとする者。ひたすらに外部から見られないようにと、モニタで外部を見つめる者。そこに互いの実体はない。だからこそ、(意表を突くような)両者の間を往復する長いワンカット(正確にはデジタル処理が為されている)は重要ではない。互いに視線を欠いた両者の間を平気な顔で、何度カメラが行き交おうがその距離は縮まることはない。重要なのは、両者の距離がまさにゼロになる二度の瞬間。つまり最初の接触と、最後の接触。それまで接触を拒んでいた視線と肉体が重なり合うその瞬間こそ、強者と弱者の立場の転換、そして生死の駆け引きが為される場となり、それがこの映画の命運を握ることになる。
物語を形作る家族関係、貧富の差、裏切り、信頼・・・etcは、一つも説得力を持たないまま、始めから無かったかのように終わる。あるのは、視線と距離と、接触と。この三つだけ。それだけがフレーム内に存在したから、信じられる。つまりこの映画を見る複数の僕らは、一つの運動が為されるまでの、その運動を回避し続ける時間を、ひたすらに見続けなければならないのだ。
(和田良太)
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■1日(土)
『UNloved』万田邦敏
男女の間の言葉の喧嘩というのはこの映画に出てくるような行き違いであることが多い。だれだって一度や二度どころではなくこのたぐいの行き違った会話を繰り広げた経験があるのではないだろうか。
けれど、冒頭からこの映画は手が全てを語っている。雨を受け止める手、ドアを開ける手、資料を渡す手、金銭を交換する手、値札を裏返す手、チケットを破る手、リンゴを渡す手、、、、。クローズアップされた手が語りかけてくるのだ。
光子(森口瑤子)は自然体の自分であることをひどく大切にし、自ら変わることを望んではいない。それはパズルの一方のピースのようなもので、具体的には、その手を重ねることのできる相手を捜しているともいえる。彼女はただ、雨の中一人で握りしめていたその手を誰かと重ねられたらなと思っているだけだ。そこに二人の男が現れるのだけれど、彼らはまったく対照的だ。
勝野(中村トオル)の仕事は人と話すのが仕事である。電話でああ、そうそれでいいよとぶっきらぼうに答えたり、打ち合わせに出かけたりする。基本的には言葉の人であるといえる。だから勝野の手は光子をつなぎ止めることが出来ない。彼の手は誰かの手を受け止めることが出来ない。彼女の部屋で重ねられた手が同じ方向で重なっていたように。唯一彼らが幸せだったのは腕を組んで歩いた『イタリア旅行』のような散歩のシーンにおいてだけである。ついでにキスシーンがぎこちないのも中村トオルのキスが下手なのではなく、つまりはかみ合わないってことなのだ、と思いたい。
一方、下川(松岡俊輔)の仕事はものを運ぶのが仕事である。段ボールを抱え、ギターを抱え花に水をやるその手。そして、結局はその手が彼女の手を受け止めることが出来たのである。最後に固く結びあわされる手。
光子が勝野に嫌いというのは理由があるのに、好きだった理由というのは言い表すことが出来ないように、言葉は相手を納得させるためだけにあり、結局、お互いの違いを証明してしまうに過ぎない。このフィルムにおいて費やされる言葉の多くはキャッチボールではない。実際、勝野は壁に向かって一人でボールを投げていたではないか。あまりの行き違いには彼らは向き合って喋ることすら出来ない。
いくら言葉を重ねたところで、ワンシーンの手の饒舌さには叶わない。それにしても最後に固く結ばれた手は、これから何度も喧嘩をするのは目に見えてるけれど、なかなかほどけないんだよね。
(松井浩三郎)
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