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August 23, 2001

《再録》「忘れている」ことを忘れない_『月の砂漠』について
志賀謙太

[ cinema ]

(2001年8月23日発行「nobody issue1」所収、p.4-9)

※WEB掲載及び著者の意向にあたり、タイトル含め初出より加筆修正したものとなります

nobody1_表1.jpg 紀伊国屋書店から、新宿駅に向かってたらたら歩く。バカみたいに暑い。暑いうえに人通りが多くて、非常にうっとうしい。ようやくJR新宿駅の南口に辿り着くと、選挙カーの上で大声を張り上げるおじさん、おばさんに出くわして、興味はないが気が滅入る。小泉がどうしたの。田中外相がどうしたの。この二週間あまりのあいだに、いったい何回、その名前を耳にしただろう。イチローの打率順位の推移なんて知りたくもないのに、何故だかきちんと憶えているように、テレビなんて見なくても、わたしはワイドショー的政局図をすっかり理解してしまっている。「聖域なき構造改革」。キャッチフレーズだってそらで書ける。ほんとに全然興味ないのに。

「イメージのファシズムに対して闘うために見出されたもっとも鋭利な武器は、弱くなったとはいえ、今なお映画なのだから」
映画批評家ティエリー・ジュスは、ナンニ・モレッティの『親愛なる日記』に対した批評をそのように締めくくる。ジュスは、シルヴィオ・ベルルスコーニが初めてイタリア首相に成った事態を、映像表象の問題として思考する。
「ベルルスコーニは、政治の空間からテレビの空間への危険極まりない大変動の産物であり、彼は、デモクラティックなものの時代からテレビ的なるもの(テレクラティック)の時代へと移行を示す男なのである」
イタリア・マスメディアの帝王ベルルスコーニが、政治権力の頂点に登り詰め(...失速し、再度浮上し...)た過程は、「政治の空間」と「テレビの空間」が重なり合っていく過程でもあり、「イメージのファシズム」の強化を表している、ということらしい。

 選挙カーの上で、候補者は「小泉」の名を連呼する。それが肯定の声であれ、否定の声であれ、革新的な「小泉総理」、「田中外相」が、保守的な「橋本派」や「野中元幹事長」と対立し、そこに「野党」が横槍を入れ...、といった図式を前提に、候補者は自らの立場を説明する。その図式は、ワイドショー的な「政局図」と寸分違わず同じものだ。その意味で、彼らはテレビのなかに自らを落としこもうとしている。参議院選は政局ドラマの登場人物を決定するオーディションなのだ。彼らは、新宿駅を通り過ぎる「有権者」に向かって声を張り上げるが、その「有権者」は政局ドラマの「視聴者」と区別されない。ドラマの登場人物は、そしてその視聴者は、「デモクラティックなものの時代からテレクラティックなものの時代へと移行を示す」人々であるようだ。

 安井豊の精緻にして的確な解題が示すとおり、ジュスの『親愛なる日記』評は単なる「テレビの空間」の否定ではない。「テレビの空間」は視聴者の意思を代表し、「政治の空間」は有権者(市民)の意思を代表するという規則が、その二つの空間が重なり合うことでごっちゃになり、誰が何を代表しているのかわからなくなる、その混乱状態を危険視している。だからこそそれはリプリゼンテーション(=表象・再現・代表)の問題となる。議会とテレビの討論番組が取り違えられ、有権者と視聴者が取り違えられ、その代表者はワイドショー的図式のなかでしか認められることがない。それが「テレビの政治空間化」(安井)である。そこが何の実績もない首相の支持率が90%と示される馬鹿げた空間なのだ。

「さまざまな利害を代表する者の公開的な議論の場である「議会」の機能が失調し、そこに「すべてを代表する者」が、スーパーマン(超越者)として登場する。そのスーパーマンが、「議会」における差異や矛盾をすべてひっくるめて想像的に止揚・克服してしまう」。(安井)

「映像とその内容を暗示する言葉が一人歩きし始め、映像と言葉からある程度意味が失われ、その地平が奪われ、テレビに映ったその映像とテレビから聞こえるその言葉だけにしか価値がなくなってしまったのもそうした番組(討論番組)の中においてのことである。そうしたテレビは自己の宣伝にふけり、テレビが、社会的なカタルシスであることと、テレビの中では市民の誰もが語る権利を持っている野蛮な政治的議論の特権的で唯一の場であることを、テレビ自体は一瞬たりとも疑うことはない」。(ジュス)

―彼らはリプリゼンテーションが機能不全に陥るそうしたプロセスを総称して「ファシズム」と呼ぶ。

 くそ暑い中、蝉に先駆けて喚き出したオーディション受験者に対して、あるいは街中を歩いているだけでドラマの視聴者に仕立て上げられることに対して、要するにこれはファシズムの進行を目の当たりにしているのだろうが、わたしはとりたてて危機感を持っているわけではない。ただうんざりするだけだ。こんなことを書きつけるわたしは度し難く平和ボケしているのだろう。しかし危機感を持つには、わたしにはあまりに記憶がなさすぎる。わたしはその「忘れている」状態に居心地の悪さを感じ、ほんの少し飽き飽きもしていて、しかしその倦怠感を強引に消し去ろうとするものたちには心底うんざりする。たとえば是枝裕和の 『DISTANCE』という映画にはJR新宿駅の南口が一瞬映っていたなと思いだし、あの映画、全部ここで撮れば良かったのに、と余計なことを考える。

 1995年3月に起きたオウム真理教のテロ事件に着想を得たであろう『DISTANCE』は、加害者、つまり新興宗教信者の親族に焦点をあてた作品である。事件から数年後、加害者の命日(それはすなわち事件が起こった日でもある)に湖へ花を添えにいく親族たちが信者のひとりに出会い、信者たちのアジトだった山中のロッジで一晩を過ごすことになる。...是枝の編集が巧みであることも、ARATAや伊勢谷友介が魅力的な俳優であることも、山崎裕のカメラがある種の繊細さを有していることも、理解できる。しかし、湖の美しさや過剰に自然を装おう演技に、とてもうんざりする。何故彼らは、あんなにもノーテンキに深刻でいられるのだろう。何故、過剰なまでに「自然体」でいるのだろう。ロッジで敦(ARATA)と勝(伊勢谷)が「神の存在」について話し合うシーンがある。 「神っているの?」「いない」「じゃあ神に変わる存在は敦君の中にある?」「それはあるね」。「神」の代替として、新たな超越者の存在の可能性を口にする彼らは、無自覚なだけでなく危険だ。「それはでも神だよね。...俺だったら、まさに自分の中に神に替わるものはいるんだ。で、それは、絶対かどうかわからない。そのときそのとき自分の中で信じることっていうのが、それが神に値するものだと思うから...」。テレビが「自己の宣伝にふけり」自らを「一瞬たりとも疑うことはない」ように、「神の存在」を疑う彼らは、自らの存在を疑うことはない。「わたし」における「差異や矛盾をすべてひっくるめて想像的に止揚・克服してしま」えると確信する彼らは、ワイドショー的登場人物とまったく変わることがないし、彼らが求める超越者は「現実に変わって記載されるテレビ局のロゴのようなもの」(ジュス) である。そして、隔離された山の中のロッジでは、彼らに「馬鹿!」と呼びかける人物も、無視をして傍を通り過ぎる人物さえも登場しない。湖畔にたたずみ、古い家族写真を焼く敦が口にする「父さん...」というつぶやきが、『DISTANCE』に映し出されたすべての事物を代表するように、スクリーンにべったりと貼りつくことになる。

 ティエリー・ジュスは『親愛なる日記』において、徹底して「自分自身しか代表しない者」としてのモレッティを見出し、それを「すべてを代表するもの」ベルルスコーニへの絶望的な抵抗として捉える。モレッティは超越者を求めない。自らの身体をカメラの前に露呈し、自らの運動を映像として記録し、表象=代表と事物、事象をひとつひとつ対応させていく。その律儀とも、生真面目ともいえる「抵抗の運動」を指して、ジュスは「絶望的」と口にし、しかしそこに映画の可能性を見て取る。
 一方、安井は、ジュスのそうした見方があまりにヒロイックになり過ぎることを指摘し、モレッティをある意味でもう少しカジュアルな「批判の人」として捉える。モレッティという「代表者」の運動は別の「代表者」(映画批評家、島の村長、医者...)との出会いを生み、カメラはそれらの存在=差異をフィルムに焼き付ける。そこでモレッティはそれら代表=表象機能があまりうまく働いていないことに対して、それらを否定するのではなく、うんざりする。つまりいったんはその存在=差異を受け入れて、ここでも律儀に、というか生真面目に、ひとつひとつにたいしてうんざりする。彼はリプリゼンテーションを批判はするが、否定はしない。否定した時点で、モレッティも「すべてを代表するもの」の機構に組み込まれてしまうからだ。ここでジュスと安井に共通している認識は、モレッティの律儀さ、生真面目さを称揚している点だ。ここでいう「律儀」、「生真面目」はモレッティが無類のギャグ好きであることとなんら矛盾しない。というかギャグ好きは「律儀」と「生真面目」の産物ともいえる。自らが運動すること。置かれている状況を楽しもうとすること。差異や矛盾に対していちいち反応し、怒ったりうんざりしたりすること。モレッティは自らが「忘れている」ことを忘れない。自らが生み出す映像表象は、事物を疎外したかたちで現れ、そこにありもしない「記憶」が投影され、ファシズムの一端として働きかねないことを自覚している。だから彼はひとつひとつの状況に律儀に生真面目に対応する。リプリゼンテーションが何を指し示すのかを正確に見極めようとし、また自らの映画でも正確に表そうとする。そうして「すべてを代表するもの」が示す既成の図式のなかに組み込まれることを拒否する。何故なら図式のなかではすべてが薄っぺらなロゴとなり、それらは単に空虚しか指し示すものがないことをモレッティは知っているからだ。モレッティがファシズムから身をかわす方法、それはとてもカジュアルで、しかしとても困難な方法である。「「忘れている」ことを忘れない」。彼の律儀さ、生真面目さはすべてそこに向けられており、『DISTANCE』はその律儀さ、生真面目さを徹底して欠いている。

 「「忘れている」ことを忘れない」。ジュスや安井が示したリプリゼンテーション(表象・再現・代表)をめぐる倫理は、その言葉に尽きている。つまり「記憶」は常に批判されなければならない。ここでいう「記憶」とは、「わたし」を規定する地平であり、自己同一性の根拠としてのそれである。代表=表象のなかにありもしない「記憶」を投影し、それを疑わないとき、代表=表象はファシズムの歯車としてしか機能しない。しかし代表制は「わたし」あるいは「わたしたち」の意思を第三者に委託するというプロセスの上で必然的に自己同一性を強化せざるをえない。ここにリプリゼンテーションをめぐる矛盾と困難が現れているのだが、そこでわたしたちが採りうる最低限の倫理的行動が「「忘れている」ことを忘れない」ことなのだ。あらゆる代表=表象をほんの少し疑うこと。そのひとつひとつにうんざりしたり笑ったりすること。たとえば映画を見ることは、「わたしは...である」ことを規定するものではない。言いかえれば、ある映画は「わたし」を超越的に束ねるものではない。映画を見ることは、「わたし」がそこに映る事物と不意に出会うことである。その出会いのひとつひとつにうんざりしたり笑ったりすることは、「わたしは...でもあった」ということを絶えず思い出していくことだ。「わたし」は思いだし、それを疑い、また忘れていく。「わたし」は「忘れている」、そのことは絶えず忘れまい。ここで唐突にその名を挙げるなら、青山真治の新作『月の砂漠』はほとんどその決意のみで作られたような映画である。

 草地と林に囲まれた、だだっ広い平地、そこにただ一軒建つ家屋、それが『月の砂漠』の極となる舞台だ。そこは「故郷」と呼ばれる場所である。もう一方の極である「東京」から「故郷」に向かうとき、登場人物たちは携帯電話や車を手放さなければならない。不安を欺きたてるような低音が鳴り響くこの「故郷」は、きわめて抽象的な空間といえる。写真からそのまま抜け出たような空間である、といってもいいかもしれない。つまり表象、しかも指し示すものは空虚でしかない表象としての空間である。一方に具体的な生活空間としての 「東京」 があり、また一方に世間から切り離された、抽象的な空間があり、その往復運動によって語りが進んでいくという構造は、『DISTANCE』と『月の砂漠』に共通するものだ。しかし、その運動のあり方は正反対といってもいい。『DISTANCE』においての抽象的な空間は、内省の空間である。彼らはそこでひとりひとり過去を思い返し、とりとめなく話しをし、結局さしたる変化もないまま、「東京」に戻る。その空間で彼らがいくら深刻であっても、というか深刻であればあるほど、その内省はその場限りにしか通じない独り善がりなものになっていき、また自然であればあるほど、彼らは他者との距離感覚を失っていく。端的にいって、その空間では事件に無関心な人、宗教に無関心な人は最初から排除されているからだ。一方、『月の砂漠』の抽象的な空間においては、誰も内省したりはしない。彼らが口にする言葉はきわめて図式的で抽象的なものだ。「家族をする」「責任がある」「あきらちゃん、あきらちゃん、...お母さん!」等々。彼らは徹底して「わたし」を語ろうとはしない。彼らが口にするのは娘―母、男―女、家族―侵入者といった図式を形作る言葉だけだ。彼らは貧しく抽象的な言葉でしか関係が作れない。彼らは同じ空間にいながら互いの存在の根拠を理解できていないのだ。彼らのいう「家族」が何も指し示すもののない、空虚な表象であることを自覚しているのだ。その意味で実は「故郷」と「東京」はそれほど異なる空間でもない。「東京」でもまた、彼らは空虚な表象に囲まれながら貧しい言葉をつぶやきつづけている。「東京」は常に「故郷」と隣り合わせにしてある。だから彼らの居心地の悪さ、不安は消えることがない。「「忘れている」ことを忘れない」。彼らがどんなに酩酊していても、頭 のどこかが醒めているのは、「忘れる」ことが出来ないからだ。「忘れている」ことを忘れられない。『親愛なる日記』のモレッティが「自分自身しか代表しないもの」として「「忘れている」ことを忘れない」と決意しているとすれば、『月の砂漠』の彼らは、モレッティほど勇壮なわけではない。彼らは単に忘れられないのだ。表象=代表は何も指し示さない。忘れようにも、書割のような「東京」の街並みがそれを許してくれない。その空間で彼らが代表すべき自分自身の存在自体、まず明確ではない。『親愛なる日記』が徹底して具体的な運動から表象を再生していくような映画だとしたら、『月の砂漠』はまったく正反対に、貧しく抽象的な言葉で表象とその対象の関係をひとつひとつ断ち切っていくような映画だ。

何故そんなことが必要なのか?わたしたちには「リプリゼンテーションはまず空虚なものだ」という自覚が必要だからだ。「「忘れている」ことを忘れられない」という事実を受け入れる必要があるからだ。「東京」という空間で映画を撮るとき、青山が最低限示す倫理的身振りがそれである。だから、カアイとあきらの「お父さんもここにいればいいのに」という言葉と笑いは、ナガイにとって、あるいは「東京」に住むわたしたちにとっても、とても残酷なものであるはずなのだけれど、その残酷さに耐えてしか、見えないものがあるのだ。そこにおいてようやく、わたしたちはうんざりしたり笑ったり出来る。
『月の砂漠』はわたしたちをそんな場所に導く映画である。