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August 23, 2001

《再録》2000年11月25日/2001年6月24日
澤田陽子

[ cinema ]

(2001年8月23日発行「nobody issue1」所収、p.24-29)

nobody1_表1.jpg  2000年11月末、パルテノン多摩で行われた多摩映画祭の先行上映会に足を運び、そこで『EUREKA』を見た。今が2001年の6月下旬だから、もう半年以上前のことになる。その日から半年以上経っているが、未だにその日のことは鮮明に覚えている。それはその日が私にとって、ちょっとした旅行のようなものだったからかもしれない。前日の夜は雑誌「SWITCH」の「青山真治・大友良英対談」の中で大友良英が述べていた言い付けに従ってジム・オルークの"Eureka"の歌詞を頭の中で繰り返しながら床につき、多摩には行ったことが無かったので朝は少し早めに起き、9時前には家を出ていた。東横線からJR線、京王線へと乗り継いで、確か結構な時間がかかったと思う。
 年が明けて2001年1月下旬、新宿の映画館で封切りされてからも再度『EUREKA』を見に行ったが、その3時間37分という長い上映時間にも関わらず私は自分が『EUREKA』のほとんどのシーンを憶えていたということに素直に驚いていた。どちらかと言えば私は映像の記憶力は優れた方ではなく、見たものをすぐに忘れてしまう方だ。しかし『EUREKA』を再見した時、あるシーンの次にどのシーンが来るかを記憶として憶えていたというよりも身体的に憶えていて、体が慣れていたということを強く感じていた。『EUREKA』のタイトルは映画の最後に映されるが、『EUREKA』の3時間37分は"EUREKA"という何処でもない目的地に向かう旅のようであり、東横線からJR線へ乗換えるようにショットからショットへと移行していたようであり、だから次にどんな車両が乗り入れるか分ってしまっている2度目の旅は少し予定調和的だったのかもしれない。主観的には2つの映画があるかもしれない。新たな発見があるから何度でも見直そうとする映画がある一方で、初めてそれを見たときの身体感覚が鮮明であり、それがたった一度きりのことであるからという理由で、再び見ることを必要としない映画。『EUREKA』のひとつひとつの映像、音声が、京王線の車両から眺めていた風景、車内に差し込んでくる光、頬を刺す晩秋の風の冷たさと等価に私の記憶の中にあったから、2度目の『EUREKA』が不必要なものだったのでは、とさえ思ってしまったのである。多摩映画祭の上映ホールで私は『EUREKA』を"見た"というより"体験した"という方が正しいだろう。そしてそれは一回性のものであって、二度はやって来ないのである。しかしこうも言えるだろう。上映が終わってパルテノン多摩から出てきたときにはもうすっかり日は暮れていたが、まだ"フィルムに覆われている"ような感覚を覚えながら駅までの道を歩いた体験も含めて私にとっての『EUREKA』があり、山手線に囲まれた都心を背にしてまた多摩に行きたい、帰りに下北沢で食べたカレーライスをまた食べたい、と思う時点で私は既に『EUREKA』を再び見ているし、体験している。
 2001年1月20日、『路地へ~中上健次の残したフィルム~』の先行上映が行われるということで日仏学院に足を運んだ。青山真治の故郷である北九州が舞台の『EUREKA』と平行して撮影、編集を行なったというこのフィルムは、中上健次の小説の舞台となった"路地"を求めて松阪から新宮への移動を収めたものである。今はもう失われた"路地"は、中上健次という固有名詞を介さなければ青山真治とは関係のない場所である。場所には恣意的に付けられた「地名」という記号があり、土地と地名の恣意的な関係を見つめることがある時代以後の旅行であり、映像に囲まれた"現代"の旅だと言えるだろう。青山真治は"路地"に行ったことはなくとも、中上の名を介して"路地"という名前はずっと昔から知っていた。"路地"は青山真治にとっての、妄想の故郷とでも呼べる土地だろう。その妄想の故郷を求めて移動する間に見える風景は、井土紀州の視線、フロントガラス、中上の視線によって二重、三重に距離化され、『路地へ』では常にこの"距離"が意識されている。"路地"はもう存在しないのだから、"そこ"までの距離を測ることも出来ないし、距離は眼に見えないし映らない。青山真治は紀州の映像に中上が残したフィルム、中上のテクストを読む井土の声を導入し、時間的、地理的なものを踏破した距離を導入する。
 しかし劇場公開作品第1作にして、青山真治はすでにこの"距離"に対して意識的であった。私はこれまで『Helpless』をフィルムで見たことはなく、ビデオでなら何度か繰り返してみてきた。つい先日も『Helpless』を再見したが、そこで私を捉えて離さなかったあるシーンがある。そのシーンとは、主人公健次が部屋から外を眺め、次に工場全体を捉えた映像が映され、その次に部屋の外から窓辺に座っている主人公にカメラが徐々に近づいていくという、編集によって繋がれた3つの映像である。最初に『Helpless』を見た時私はこの3つの映像を、健次の部屋の向う側に工場があり、工場全体を捉えた映像は窓辺から工場を見つめる健次の視線であると安易に納得し、全く気に留めていなかった。しかしここには、何か謎めいたトリックのようなものがあるのではないかと『Helpless』を再見していて思ったのだが、そのトリックとはそこで鳴っている音である。1つ目の映像では外から蝉の鳴き声が聞えてくるだけなのに、2つ目の工場全体の映像の途中で突然何かの騒音が挿入され、3つ目の外から窓辺に座る健次に近づいてゆく映像でもその音が残響のように響いている。工場全体を捉えた映像が健次の視線だとするならば、健次の部屋"ここ"と、工場"そこ"は近接しており、部屋と工場は目と鼻の先であると思えてしまうにもかかわらず、カメラが部屋の外へ出たとたんに街の騒音が大きくなるので、部屋と工場の間にそれら騒音を発している何かがあるに違いないと思ってしまうのである。その騒音の出自を例えば工場と一緒に映すこともできただろうし、工場と健次を同じフレーム内部に収めることも出来ただろう。たまたまそうした方法を採らなかったとも考えられるが、私にはどうしても青山真治が2つを同じフレーム内に並置することを敢えて避けていたようにしか思えない。つまり、健次の部屋と工場の、"ここ"と"そこ"の距離を映像によって示すことを敢えて避け、そして間に"音"を導入することによってそれが響いた瞬間"距離"というものが、地理的なものから逸脱した、抽象化されたレベルへと移行したのではないだろうか。突如聞えてきた音、それはそこで響いていてもなんら不思議ではないごく自然な喧騒だったのだが、それが突然聞えてくる事によって、また健次が視線をそらすと同時にその残響が消えることによって、その前に見た工場の映像、健次の視線の先にあると思い込んでいた工場が距離を失った、どこにも存在しない場所がふっと浮かび上がった映像のように見え、そしてその場所は健次が「見る」ことによってのみ存在しうる幻想の中の場所のように思えたのである。さらに加えると、そこで響いている地鳴りのような音は、次に映される安男が電話をかけている飛行場の騒音と同じような音にも聞え、その飛行場の騒音の残響が健次の家にまで響いているようにも聞こえるのだ。その音によって、離れているはずの健次の部屋と飛行場もまた距離を測ることの不可能な2つの空間へと移行し、残響に突き動かされるように健次は階段を駆け上がり、安男と再会する。
 青山真治にとっての妄想の故郷とも言っていいだろう"路地"は、『Helpless』で健次が見つめる工場のようなどこにも存在しない、中上のテクスト上にしか存在しない土地であり、中上の小説を読んだ時の記憶は残響のように現在まで響き、青山真治を動かしているのだろうか。『路地へ』の旅は、その音が生まれる場所へと引き付けられるように移動する旅のように思われた(彼らが移動していたというよりも、中上のテクストが彼らを移動させていたような)。妄想の故郷とは"思い入れ"のような極めて個人的なものだが、青山は中上に思い入れがある。そして私は行ったことのないパリに思い入れがあった。
 ここで記憶は4年前に遡る。4年前の冬と言えば、初めてフィルム体験と呼べるような経験をしたことぐらいしか記憶には無い。その映画館に行くのは確かそれが2度目だった。上映時間ぎりぎりに飛び込んだときには私の予想を裏切って座席はほぼ埋まっており、最後部の座席に私は腰を沈めた。孤独な2時間余りであったが、その2時間は私の心臓の鼓動と同じ速さで進み、パリの街の瑞々しさを呼吸するように私は見ていた。パリと名付けられた都市があることはもちろん知っていたが、フランスの都市云々以前にこのフィルムがパリとなり、その日以来、パリと言えば私の前には地図以前にまず映像、フィルムがあった。ここでパリにエキゾチックな思いを馳せた日のことを回想することが本意なのではない。実際単なる憧れであったのは分っているのだが、憧れの一言で片付けてしまっては何も言ったことにならない。要は、私が4年前のある日、あるフィルムを見て、そして今日まで私がその日のことを"忘れていない"ということだ。今のところは私はその一日、そのフィルム、フィルムに映ったパリの風景によって動かされている部分があることに意識的である。その日に見た冬のパリの風景と、帰りの電車から眺めていた名古屋の街は私の頭の中に並置され、"そこ"と"よそ"の間の宙吊りになった場所で私は今日も皿を洗い、洗濯物を干している。現在私は愛知とパリの間の東京にいるが、「1996. 12/17」の残響は私が現在いる"ここ"まで、"そこ"で呼吸するように見たフィルムの速度と同じ速度で"ここ"まで響き、私を動かしている。それは歩く速度ではない。言葉で説明し難いが、それは電車の速度、バスの速度、『EUREKA』のバス、『路地へ』の車と同じスピードだ。よって私はそれを心地よいと感じる。(私は歩くのが苦手だ。視界の先に何かがあると「それは一体何なんだろう」ということに意識が集中してしまい、それに思いを馳せてしまい、脇にある風景を見る余裕が無くなってしまうから。)目の前の風景が近づき、過ぎ去り、今のは何だったのだろうと思っているうちにもう次の風景がやって来ている。フィルムの速度とその速度は、正に同じスピードなのだ。
 行ったことのないパリに私は思い入れがあり、そして1983年に東京へやって来たヴェンダースと同じように、何がしたいわけでもなく、単なる好奇心から3ヶ月前にそこに行った。私が実際にパリの街を歩きながら感じた"臭い"は、4年前の冬にフィルムを前にして嗅いでいた臭いとは異質なものであったが、3月24日、シャイヨ宮の広場でエッフェル塔を前にした時、私は私の妄想の故郷の「在」に思いっきり立ち合ってしまった。何も変わらずに「そこにただいて欲しい」と同時に、「本当は在って欲しくない」ような、こわいもの見たさで出掛けたような気がするが、4年前に見たエッフェル塔が、そのままの形で何も変わらず、飄々とそこに立っているのを、私はただ呆然と眺めていた。距離化できなかったものとの間にある、れっきとした距離を目の前にして動揺していたと思う。
 今日6月24日、旅行から帰ってきて以来初めて昼間の東京タワーを見た。桜田通りの慶應義塾大学の前で。私はこんな風に東京タワーが見える場所があることを今日まで知らなかった。それは遠近法で私の斜め前に建っている12階建てのビルと同じ背丈になったために距離感を欠いた、光化学スモッグによって色彩を欠いた東京のランドマークだった。そのビル、排気ガスを"東京"と呼んでもいいかもしれないが、その"東京"によって私は東京タワーがエッフェル塔に似ていると思ったのである。私は自分が、東京に"戻ってきた者"であると同時に東京に"やってきた者"でもあると感じた。東京タワーを見ると同時に、私はパリのランドマークも見ている。妄想の故郷が"ここ"にもあると思った。でも"ここ"は「東京」であり、私はいま「東京」にいる。それは幻想ではない。
 私は今、幾つかの日付が列ねられた文章を書いている。最後にもう一つ、青山真治の新作『月の砂漠』を見た2001年6月20日の日付を加えよう。このフィルムの冒頭では、ある日付のついた家族の記念写真が映され、それは地下鉄サリン事件、湾岸戦争の映像と並置される。多くの人がそれを許しがたいと言うのは、それらが比較できるものではないからという理由からだろうか。しかし家族写真のような個人的な記憶と湾岸戦争のような出来事を別の次元のものと捉えることも、出来事を何らかのカテゴリーの枠の中に当てはめることも不可能であることは、例えばセルジュ・ダネーの『不屈の精神』を読んでも、フィリップ・ガレルのフィルムを見ても明らかなことだ。そして私達は、『EUREKA』というフィルムを見てしまった。『EUREKA』に対して万人が納得するような論理的な思考で批評を投げかければ、このフィルムはそれに対して背を向けるだろう。何故ならば冒頭のバスジャック事件によって、論理的な思考は停止された状態のままこの映画は進行し、終わるからである。例えば「A=B」「B=C」よって「A=C」であるというのを論理的思考とすれば、Bを出さずに有無を言わさずAはCであると言い切ってしまう力学が『EUREKA』には働いている。(そしてそれはオウム真理教の事件、湾岸戦争に到っても同じだったではないか。)だから『EUREKA』は、このフィルムを見た人の数と同じ数だけ言葉を必要としているのだし、そして湾岸戦争の映像もまた、世界の人口と同じ数だけの記念写真を必要としているのである。
 正直に言えば、私も『月の砂漠』の冒頭を見たときには反射的に拒否感を覚えた。しかしだからこそ私にこのモンタージュは必要なのであり、誰も受け入れがたさを感じないのではあれば『月の砂漠』の冒頭が存在する必要性は無いのだ。「NO」という人を前にして、あなたがこれを拒否する正にそういう理由でこのモンタージュは私達に必要なのである、と私は言うだろう。