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June 30, 2003

《再録》犬が吠える

『月の砂漠』青山真治

結城秀勇

[ cinema ]

(2003年6月30日発行「nobody issue8」所収、p.50-52)

nobody8_表1.jpg ティエリー・ジュスは「青山真治と以後の映画」(「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」XV 所収)と題する文章を次のように始める。「まずニーチェの言葉。『砂漠が大きくなる』」。
 その砂漠の中で『EUREKA』(01)の3人の人物は「内部と外部の区別をすることなどない。内部が外部を覆いつくしているか、外部が内部を覆いつくしているからだ。彼らは完全なまでに相互浸透しあっている。つまり彼ら自身が砂漠であり、砂漠は彼らの中にある」。
 『EUREKA』の、白昼の下に内部と外部の区別もなくさらけだされる砂漠において、私たちは目にしうる限りのすべてのものを見逃さぬように強いられる。だが『月の砂漠』ではむしろ、月明かりの下で、目にしなかったものを見たかのように振る舞ってはならず、見たものを見なかったように振る舞ってはならない。「Caroline no」が流れる冒頭でひとつの起源が提示されるのだ。"I remember how you used to say you never change, but that's not truth."「君は変わった」と容易に言い得るかのような錯覚さえ覚える2分50秒の10年間。
 そして再び3人。

 男は、決して叶わないという諦念の下で、それでもまだ妻と娘を求めているかに見える。永井(三上博史)を中心とするいくつかの関係は三角形のモデルをいまだ形態として有しているが、その中のある要素が欠けているかないに等しい状態にある。妻と娘がいない、父を殺したいがいない、会社には社長がいない。家はあるが家族がいない。会社設立当時からの同僚であり親友であるふたりの男が永井の元を去ると告げ、また三角形からひとり取り残されるとき、彼はこうつぶやく。きれいだと思った月は、来てみたらただの砂漠だった、と。パソコンのモニターには、月面着陸の様子が映し出され、星条旗が立っている。彼はそこから帰還してきた。
 彼の会社が抱えた負債(親友たちの言葉によれば、それは「彼」の抱えた負債なのだともとれる)は絶対に解消されることはないだろう。引き替えに代わりの何かをえることもない。むしろ、それは新たにあまりに多くのものを奪っていく。逆にいえば彼にはまだ奪われるべきものがあり、そのゲームの中で投資と回収の素振りを演じている。ここは砂漠ではない。
 「実際に、デカルトはオランダに亡命して考えている。彼にとって、オランダは、マルクスにとってのロンドンと同様に、世界最大の商業都市としてあると同時に "砂漠" であった。つまりデカルトは、諸共同体の "間" すなわち交通(コミュニケーション)の場所としての砂漠に立ったのである」(柄谷行人『探究Ⅰ』)。彼がいる場所が砂漠なのではなく、それゆえに彼が多くのものを失うのでもなく、砂に撒いた水が音もたてずに染み込んでいくかのような演じられた悲愴感の裏で彼が求めたものこそが、砂漠だったのである。「反社会的」で、「専用のアプリケーションとネットワークでやる」ほとんど「P2P」で「知的所有権とかもぶっこわれる」ような「革命」。いま行われているゲームの外側に出ることが夢だったが、それを夢見ること自体がこのゲームの中で行われているのだった。このいくつも連続して閉じていく円環の中で、月と砂漠は徹底して外部にあり続ける。
 永井は探しているのが自分の妻と娘ではなく、アキラとカアイなのだと知っている。知っているが、彼にとってそれはあくまでこのゲームの中で回収されなければならない。妻と娘でなければならない。このために彼は「誘惑」(野之宮)を、ついで「交易」(キーチ)を売価として導入しようとするが、これはゲームの中で他者を獲得しようとするその場しのぎの方法でしかありえず、追いかけながらも永井はひたすらにその場にとどまり続ける。頭上で「灰出川」の着信音が響く。ここは東京だ。

 その「東京」の縁、多摩川に、キーチ(柏原収史)は住んでいる。その縁から「向こう側」が見渡せるのだと言わんばかりに、キーチは永井の要求通りに他者を演じてみせる。「オレにはあんたら金持ちの考えてることがよくわかる」が、「あんたにオレの考えてることはわからない」。彼は永井の無意識でもあるかのように、抑圧された永井の欲望を「代行」してやる。だが、彼は「こちら側」しか見ようとしないのだ。巨大な水門に掲げられた、自分を見下ろす巨大で威圧的なふたつの目の代わりに見ることしか彼には許されていない。もちろん、酔った女の妄想も見えない。「誘惑」し、「商売」する身分の彼は、それだけに自分の属するゲームのルールに忠実である。資本主義のルール、「欲しかったものは、手に入れるとなくなる。それは妄想になる」という規律に。たとえ妄想であっても、何かの代わりには決してならない。
 キーチを介して、自分の思う以上に思い通りにことが運ぶことは、永井を困惑させる。自分でも何がしたいのかわからないのになぜこの男はこうも自分の願う通りに動いてくれるのか。この男を買うことで妻だった女を買う。この男の住む段ボールを焼くことで家を焼く。行きたいのに行くことができないあの女の家、この男はそこに行けと拳銃を突き付けている。どうしようもない笑いの中で、フラッシュバックし、草原にふたりの人物が倒れている。それはもう、妻でも娘でもない。最大にして最後の願いがまさに成就しようとするとき、永井とキーチは水槽のモーター音の中で溺れている。ここは砂漠ではなく、依然として東京だ。

 アキラ(とよた真帆)とカアイというアナグラムのような名前をもつふたりは、母と娘であるというよりむしろ、母と娘でもあり得ることを後天的に学習する。
 カアイという奇妙な名前が、アキラの本当のファミリーネームである「河合」の音だけをとってつけた名前であることは、小説『月の砂漠』を読めばわかる。「永井カアイ」というフルネーム(それは決して呼ばれることはないが)によって、彼女は自らの起源である限りの系譜を網羅する。彼女はただ関係性においてのみ、存在する。「お父さん」も「お母さん」も彼女の中にあるが、このゲームの中でそれは必要とされない。「永井さん」、「アキラちゃん」、と彼女は呼ぶ。
 関係性を必要とするのは、アキラなのである。彼女はかつて河合アキラであり、両親の死によって母方の叔母の嫁ぎ先の姓である牧原アキラとなり、結婚によって夫の家族の姓である永井アキラとなった。ファミリーネームは彼女の人生を三等分する。そこから先の人生はひと組みの老人となり彼女の前に姿を現す。小説『月の砂漠』には、30歳のアキラの元を25、26、27、28、29歳の5人のアキラが訪れる場面がある。自分自身の老いは決定的な他者として彼女を訪れてくる。彼女はただそれを見る。娘と母親の呼び掛けは、「カアイ」「アキラちゃん」という呼び掛けに変わり、その連なりが「カアイアキラ」を束の間誕生させる。そのまだ「河合アキラ」であった「私」はやはり彼女にしか見ることができない。ただ見るだけのアキラこそが、このフィルムにおける唯一の子供なのである。
彼女はカアイにリンゴの剥き方を教える。『EUREKA』の沢井と直樹の間の車の運転を教える挿話を思い出させる、「手」の仕事の伝達。しかしそれは不完全なものだ。
 「あたしはこうしてカアイにリンゴの剥き方を教えるでしょ。そしたらカアイはあたしにリンゴを剥いてくれて、食べさせてくれる。あたしも永井さんに食べさせてあげる。だから永井さんには3人で食べるリンゴを買ってきてほしいかな」
 「それ全部アキラちゃんひとりでできるじゃない。永井さんもカアイもいらないじゃない」。
 東京のホテルの一室。

 
彼らは、東京の外で一堂に会する。薄っぺらな代行関係だったものが、ちゃちなセックスシーンだったものが、見え透いた自己愛だったものが、ひと所に集められたとき、それらはとてつもなく不穏なものに変わる。妻と子のために命を捧げる英雄的な父親は現れない。夫と妻だった男と女の愛の営みは、交わっている瞬間が見えない。一方的な「アキラちゃん、アキラちゃん!」という呼びかけに「カアイアキラ」は寸断されて、娘は母を「お母さん」と呼ぶ。「東京」の中で起こったことよりどれだけ穏当かわからないこれらの事柄が、途轍もなく居心地を悪くさせる。ここは「東京」ではないし、ましてアメリカでもない。砂漠かどうかは、わからない。
 「お父さんもここにいればいいじゃない」と娘が言うとき、柱時計が11個の音を鳴らすとき、それは最大限に達する。ここにきて、「Caroline no」の終わり、列車が走り過ぎ犬が吠える、あの音が、どうしようもなく不穏に響く。


 「Caroline no」が流れている。打ち上げられた放物線を描いて飛ぶ花火、空母から発進する戦闘機、油に塗れた海鳥。ガスマスクをつけた人々、救急車に運び込まれる担架。それらの映像に女の子の写真とその家族写真が並列されていき、そのひとつひとつが切り替わる度に、不可逆な「変化」が確かに起こっている。そしてデジカメのモニターに映る、ジェットコースターに乗っている妻と娘。決定的に同時性を剥ぎ取られた映像が積み重なる。
 冒頭の文章の中で、ジュスはこう語る。「病気の進行を撮影することは、時間を、つまり観察の時間、潜伏期間の時間が前提になっており、つまりは宙吊り状態を前提にしている。だからこそこのフィルムは3時間37分という信じがたい上映時間を必要としているのだ。それは望遠鏡と顕微鏡を駆使して解体と噴出を観察するのに必要な時間だ」。
 「そのテクストを、私はたえず立ち止まり・・・・・ながら読んだのである。一般に批評は、顕微鏡を用いて作業を進めるか、または、望遠鏡を用いて作業を進める。私はこのふたつの道具を使わなかった。(中略)走っている馬の分解写真に成功した初期のカメラの壮挙にならって、私は『サラジーヌ』の読書を、いわばスローモーションで撮影したのである。その結果得られたものは、純然たる分析ではないし、純然たるイメージでもない、と私は思う」(ロラン・バルト 「読書のエクリチュール」)。
 2時間11分とスタンダードサイズによって映し出されたできごとたちは、2年間の時間差をともなって再び私たちの前に現れる。『Helpless』(96)が描く加速度的な崩壊とそこに刻まれた年号が、『月の砂漠』の起源に一致し、「Caroline no」の犬の吠える声に01.09.11という年号が重なり、その余韻が消えぬうちに6つの数字は今日の日付に変わる。『月の砂漠』はいま見られなければならない。