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October 31, 2003

《再録》Back To The Future Studio
黒岩幹子

[ cinema ]

(2003年10月31日発行「nobody issue10」所収、p.33-38)

nobody10_表1.jpeg 青山真治のフィルモグラフィーはここ2年でいままでの倍以上に膨れあがった。しかしここで重視すべきはその「量」ではない。あるいはその「多様さ」ですらないだろう。つまり、沖縄音楽、自動車会社タイアップのウェブシネマ、大学のPRビデオ、文芸もの、探偵ドラマのTVシリーズ、といった具合にいくらヴァラエティに富んだ企画(題材)が並ぶとはいえ、その多様さ自体・・は、それ自体・・として受け入れればよい。重要なのはその「変わらなさ」である。誤解を避けるために付け加えておくと、それは「変化がない」ということではない。むしろこの2~3年は後日、青山真治という映画作家にとってひとつの大きな変革期であったとされることだろう。また私自身その作品を目前にしてより「驚く」ようになっているわけだし、「以前」の青山作品とはどこか「別の見方」をしているところもあるのではないかと思う。ただ、それこそその「以前」というものが、一体いつを、いや何を指すことになるのかはどうにも判断できないのだ。
 たとえばティエリー・ジュスが『EUREKA』を前にして「青山真治は以後にやってきたのだ」と言い切るとき、その「以後」はフォードの、アントニオーニの、レネの、あるいはヘルマンやヴェンダースの後に置かれる(はたまた北野武の後にさえ)。
「彼がわれわれに与える印象は、もうその影さえもほとんど忘れられている遙か彼方にあり見ることもできないような亡霊たちの棲む未開の領野をくっきりと描き直しているということだ」(「青山真治と以後の映画」ティエリー・ジュス 梅本洋一訳「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」No. 31)
 仮にジュスの述べるように、『EUREKA』が「以後の映画」だとすれば、それ以降の青山真治の作品もまた「以後」としてあるはずだし、また彼は常に(もちろん『EUREKA』以前においても)「以後」を生きる宿命を自らに課してきた。ゆえに、たとえその指す(意味する)ところが違っていようとも、青山真治の映画に「以前」を対峙させることは非常にやっかいなことだ。たとえそれが彼自身の映画を指す場合でも。
 だから、そのフィルモグラフィーをそれこそ初期だとか、第何期だとかに分類することも困難をともなう作業だ。それもまた変化が少ないということではなく、1本1本にかならず変化があるという点が変わらないということだ。そして、新たに撮られた作品が、言い換えるならば、「その後」にある映画が、常に最も重要な作品となるのだ。


 さて、上で引いた文章のなかで、ジュスは「以後」という言葉を使うにあたって、「ポスト・シネマというよりはむしろ、マニエリズムやポスト・マニエリズムの枠の外部にあるすべてのパーツを含んだ『以後』」であると念を押している。まず、「ポスト・シネマというよりは」という前置きがなされているのは、「リベラシオン」紙の映画評でデイディエ・ペロンが『EUREKA』を取り上げる際に、ポスト・ロックのアナロジーとしてのポスト・シネマについて言及していたことに対してのものだ。もちろんそこにはジム・オルークという存在が絡んでいると思われるが、そもそもポスト・ロックのアナロジーとしてのポスト・シネマというのはどれくらい有効なのだろうか。
 いまでは、ポスト・ロックという呼称もひとつのカテゴリー(ジャンル)名として広く用いられるようになったが、もともとは音楽評論家のサイモン・レイノルズという人が、ステレオラブやシーフィールといったバンドが出てきたときにその音楽を指して使ったのが始まりとされているらしい。それがたぶん1993年ごろのことで、その年に誰もが否応なしに耳にしていたのは、もちろんステレオラブなどではなく、ジャミロクワイでありアシッド・ジャズなるものが流行っていた。つまり強引にまとめてしまうと、当時ロックはいまだ「以前」のものとして捉えられていたと言えるだろう。
 しかし、一方でジャミロクワイでさえロック的なるものを背負い、背負わされていたのも確かだ。何しろ、反戦ソングを歌えば「スティービー・ワンダーの声とジョン・レノンの心を持つ男」と評され、あるいは「高級外車乗り回してるくせに環境問題について歌ってんじゃねえよ」と批判されてしまう。それは要するに楽曲以前の生きかたの問題だとも言えるが、生きかたを問題にされてしまう不条理さを持つのもまたロックだったのではないか。そして、ジャミロクワイ自身も件の反戦ソングに「Too Young To Die」というタイトルを付けてしまうあたり、あからさまにロックを意識していたのではないかと推測できる。むしろ、のちにポスト•ロックと呼ばれることになるステレオラブやらトータスなどのバンドのほうがロック、あるいはそれ以外のジャズやら何やらに対してもポーズを取っていない(構えていない)ように見える。
 ポスト•ロックの定義は詳しくわからないし、はっきり言って確固たる定義はないと思うのだが、音楽の分類に対する意識という点でそれまでとは何かしら違うというのは大きいだろう。ポスト•ロックという言葉が用いられる音楽は、さまざまな要素が取り入れられていること、特にエレクトロニカ/アコースティックをはじめ背反するものとしてあった要素が混在してあることを特徴とされる場合が多い。ただ、そこで重視されているのは多様性を取り入れることそれ自体ではない。一方で90年代初頭に活躍していたロック・バンドに求められていたもののひとつは多様性だった。スカ、レゲエ、ファンク、アイリッシュ・トラッド、その他もろもろのワールド•ミュージックをロックのなかでいかに生かすかということに奮闘していたバンドが数々いた。一見その両者には「音響」への重点の置きかたという差異しかないようにも見える。が、さまざまな分類のなかからある選択を行う際の意志、もしくは意志するところに大きな違いがあるのではないか。
 その違いとは、選択するという行為自体に対する意志であり、前者(ポスト・口ック)は「何を選択するか」という意志は働いてもその行為自体を意志する力は後者ほど要されていない。しかし後者(ポスト•ロック以前)にとっては「何を選択するか」と同じくらいの、場合によってはそれ以上に、「なぜそれを選択するのか」という問いに対する確固たる答えを必要とした。なぜなら、後者は、常にsomething newを意志し、またそれを求められていたからだ。そしてそのsomethingにはかならずロックが内包されなければならなかった。つまりポスト•ロックとはsomething newよりもむしろsomething individualな姿勢(性格)を持っていると言えるだろう。


 このように見てくると、ポスト•ロックのアナロジーとしてポスト・シネマを措定することは不可能ではないとは言えよう。だが、同時に、ジュスが「ポスト・シネマというよりは」と付け加えなければならなかった理由も明白だと思う。ポスト•ロックのアナロジーとして見出されるポスト・シネマと青山真治の映画には齟齬が生じてしまう(それは、もしかしたらジム・オルークがポスト・ロックだと呼ばれるときに感じる違和感と似ているかもしれない)。しかも、その齟齬は次第に大きくなっているように思われる。ではその齟齬とは一体何か。
 ここで、執拗にも再度ジャミロクワイを登場させたい。件の反戦ソング「Too Young To Die」は楽曲としては小洒落た流行歌で済ませてしまえばいいのだが、ただひとつ解さないのは、耳が腐るほど聴いたそのサビの部分がどんなに能動的に聴こうとしても「トゥルットゥットゥットウッー」というふうにしか聞こえないことだ。意図としては「You know we're too young to die」とリフレインしていることになっているらしい。そうすると「too〜to〜 ...」という部分しか聞こえていないということになり、「...には~すぎる」という構造のみが、文意が消えたかたちで耳に入る。ある種パンク・ロックを象徴するようなフレーズとして用いられてきたものが、その行為や状態を欠落させ、しかし「過剰」であることのみを残してしまう。それはたとえばラモーンズが"I am a tu tu tu tu tu tu tu tu tough tough guy"(「Too Tough To Die」)と歌うのとはまるで勝手が違ってくる。
 つまり「Too Young To Die」というこの歌は、聴き手に二重の互いに背反する抑制を与えている。ひとつは、言葉(意味)と音を剥離させて受け取れという抑制。もうひとつは、音を聴くことによって意味(言葉)を推し量れという抑制。その両方の抑制に従うことは土台無理なので、たいていの場合は「トゥルットゥットゥットウッー」と聴き流しつづけることになり、過剰(過激?)さの影さえもマンネリズムに吸収される。このような点でもジャミロクワイはロックではないがゆえに、ぐにゃりと潰れた(ロックではない) ロック的なるものの残骸を変形させようとしてしまった。
 もうロックにおいて言語は力を持つことはない。事実ポスト・ロックと呼称される多くの楽曲はそれを前提とする俎上でつくられている。しかし本当に私たちはポスト~としてまな板の上に寝転がることしかできないのだろうか?


 そのとき私たちのなすべきことははっきりしている。悪魔払いをするのではなく、それを確認しようとしつづけること。たとえば『ポーラX』(99)の「過剰さ」を過激さに転化させるのではなく、「亡霊」として捉えること。
 周知の通り「世界のたががはずれてしまった。何の悪意かそれを直す役目に生まれるとは」というハムレットの引用で始まり、ぽんやりと薄暗い森へと何か(カメラ)がふらふらと入り込んでいくショットで終わる『ポーラX』は、無論「世界の終わりの後」を描いた映画ではある。そして「たががはずれてしまった」とされる世界の像はぶちぶちなままで結ばれることもなければ、ふらふらとして定まることもない。ピエールとイザベルのふたりはいつまでたっても「片方になったようなふたり」でしかいられない。ゆえに彼らの間で「片方」に対する疑念が生じてしまえばそのふたりは切り離され、また存在してはならなくなる。「実際は恐らく『たががはずれてしまった』世界を映画で表象することなど不可能」(青山)であるのだから、「たががはずれてしまった」世界を直すこと(を映画で表象すること)など到底不可能だ。が、レオス・カラックスはその不可能性に抵抗せずにはいられない。不可能を可能にできると思っているわけではないが、しかし、たぶんその姿勢を貫く以外に方法はないと思っている。最後のぼんやりとした森へ入り込んでいく視線はその意志にほかならない。
 一方でほぼときを同じくして撮られた『SHADY GROVE』の主人公、理花と甲野は「片方がいないようなふたり」である。甲野は登場するやいなや「片方の喪失」の存在を吐露し、理花が婚約者に別れを告げられた原因として唯一思い付くのは、自分が「ひとりっ子」であることだけだ。この・・世界でふたりが片方と向き合うことはない。さらにこの・・世界は「たががはずれた」世界としてさえも描かれないので、直す役目すら必要とされない。ふたりが向き合うのは写真のなかの、もしくは夢のなかの森であるのだから。
 そうすると、この映画である種の過剰な存在になり得てしまうのが、「見る役目」を担っているはずの探偵である。彼らを「見る役目」であるだけでも過剰なのに、さらにこの映画のナレーションの声までもがその探偵のものである。
「それは、探偵のナレーションというよりも、たとえて言えば主人公たちの壁に掛かった写真が示す、臍の緒の途切れた先の世界の記憶によるナレーションと言うべきだろう。だがしかし、探偵は、ビデオカメラの角度を変えた液晶モニターを覗く者として、事件の現場=連続した空間に姿を現す。彼はあくまでも現場にいなくてはならない。しかしそのためにはいなくならなくてはならない」(「世界をスタジオ化するマジック-1 ービデオ/フィルムー」樋口泰人「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」No. 28)
 私たちはその探偵の姿をはっきりとこの目で見る。だが、彼が観察する「対象者から見れば、探偵はその場にいるのだがいない」(同上)。つまり彼は「亡霊」であると同時に、私たち観客でもある。逆に、「我々もまた、探偵と同じ位置にいるのであり、だとするとこの映画にとって我々もまた登場人物なのである」(同上)とさえ言える。
『ポーラX』の森に入っていく見えない何かは決して私たちではなく、また私たちがあの森へ入っていくことはできない。ノイズとつながり損なったのではなく、つながり損なわれているカットとカットの隙間をひたすら追いつづけて、その影でも捉えられればめっけもんである。
 それに対して青山はいともあっさりとそのかたちを描き出す。ある意味で捏造していると言ってもいいかもしれない。しかし忘れてはならないのは、それは同時にそこにいないのだ。それはフィルムを外部に開く、あるいは私たちがそこに入ることが可能になるための手段である。もっと言えば私たちはそれをあえて捉え損なうことすら可能なのである。


 ところで、『SHADY GROVE』でその探偵の役をやったのが光石研であることはかなり重要だ。かつて青山は『チンピラ』のプログラムで光石についてこのように述べていた。そこには「欠損/過剰」という見出しが付けられている。
「私の中に巣くう謂われのない理不尽なルサンチマンの具象として、光石さんは私の作品に不可欠な存在です。もうひとり、常に挑発的な道化を演じる斉藤陽一郎と共に、両極をなしている。映画が世界に対する過剰としてあると考える時、その過剰とは、私にとってこのふたりの役柄なのかもしれません」
 光石研は『SHADY GROVE』の探偵を経たのち、『EUREKA』で「秋彦」=斉藤陽一郎と(初めて・・・)対面する。そして『月の砂漠』にはどちらも姿を見せない。
 私は冒頭で青山真治のフィルモグラフィーにおいてある地点から以前/以降といったように分けることはやっかいな作業だと述べたが、それに反してどうやら『月の砂漠』以降という線を引く必要があるようだ。『月の砂漠』以降、光石研と斉藤陽一郎が主演している短・中編作品がそれぞれ1本ずつある。その作品のなかでのふたりのありかたは『EUREKA』までのものと大きく変わっているように見える。
 まず『軒下のならず者みたいに』は秋彦が主人公の映画であり、斎藤陽一郎はほぼ全編をとおしてその姿をキャメラの前に晒している。しかし、そこに『Helpless』や『EUREKA』の饒舌な秋彦はいない。あの何かと癪に障る口調はそのままだが、完全に受け身だ。その存在はスケルトンという言葉を思い起こさせる。まるでジョン・ケイルの『Vintage Violence』のジャケ写のように、私たちの眼前というか顔面に張り付くくらいに近くにあるが、それ自体は透明で、その向こうにあるものをフィルターを通して見ているような感覚。カメラとほぼ一体化しているようでもあるが、カメラとの間にはほんのわずかな、しかし絶対的な「距離」が存在している。むしろ、その「距離」を生じさせるものとして、彼は存在している。
 そして光石研ただひとりが出演する大学のPRビデオ『海流から遠く離れて』。大学の卒業生が久しぶりに母校を訪れ、さまざまな施設を見て回るという設定のこの作品で、光石はまた「見る」役目を担い、ナレーションも行っている。しかしそのナレーションは「先生」への語りかけというかたちをとり、またその「先生」に対面することはなく、彼はその場所を去ることとなる。ナレーションは「先生」に向かってのみ言葉(記憶)を投げかけ(投影し)つづけるが、その「先生」の姿がフレーム内に現れることはないので、その場所(フレーム内)にその記憶は映らない。彼はその場所に対する記憶を持たないストレンジャーとして存在することになる(予測することが不可能だからこそただひとりご丁寧に傘を持っている)。だから彼は最後に「図書館」を訪れたのち、「先生」にこう言う、「世界は頭のなかより広かった。世界には私が知り得ない無数のことがある」。
 さて、彼らのありかたはどう変わったか。おそらくこのふたりが世界に対する「過剰」としてあるという点では変わっていない。しかし彼らのいるところが、あるいは彼らに対峙する世界のあるところが変わったのだ。「映画が世界に対する過剰(=彼ら)としてある」というとき、彼らは映画のなかにいた。しかし、いまや彼らは映画を現前させる。その過剰さはその枠(フレーム)を、その広さ(スクリーン)に対する指標となる。
 それを変えたのはもちろん青山真治であり、たむらまさきであり、菊池信之であり、佐賭譲、清水剛であり、......つまり演/技師たちである(特に長嶌寛幸が与えた影響は大きいだろう)。そしておそらくその変化は、『月の砂漠』以降において起こったのではなく、『月の砂漠』においてはっきりと現前化したのではないだろうか。
 残念ながらそれを詳細に検討していくには紙片が足りないので、それは今後の課題にするとして、冒頭に挙げたティエリー・ジュスが提示した「以後の映画」について再度検討しながら、その変化、いや変化ではなく形成というべきだろう、を勝手に名指したいと思う。
 まず、ポスト・ロックのアナロジーとしてのポスト・シネマに青山真治の映画が当てはまらないのは、ある形式・要素の選択において、そこで選択される「何か」と、その選択がどうして(どのような意志のもと)為されるかが、同等であることが前提となるからだ。そして、something individualというよりはむしろ、(something) allであると同時に(something) nothingであることを意志する。ただしそのためには「その終わりのなさに耐えねばならない」。
 こうして、ジュスの言う「マニエリズムやポスト・マニエリズムの枠の外部にあるすべてのパーツを含んだ『以後』」という定義に明証性が与えられる。
 ところで、その「すべてのパーツ」を含むためには、ひとつの方法しかないのではないかという気がする。その方法とは、まさに「〈世界〉をスタジオ化する」こと。それは決して非現実的なことではないと私は信じる。確かに映画のスタジオとまではいかないが、ここ2年ばかりの青山と周りのスタッフたちの仕事を見るにつけ、音楽のスタジオのような何かが形成されていっているような気がしてならない。そしておそらくもっと以前からそれは粛々と生まれつつあったのではないか。外部でスタジオを形成すること。それこそが「以後の映画」にふさわしい。
 そういった意味でも、青山真治はより映画(すべての映画?)へと回帰していっているように見える。もちろんその回帰はさらに先のほうへと接続されるだろう。ついに紙片がつきた。Back to...