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October 31, 2003

《再録》ON THE LAKE
松井宏

[ cinema ]

(2003年10月31日発行「nobody issue10」所収、p.33-38)

nobody10_表1.jpegということで

 80年代中期から90年代にかけ、ハリウッドではサム・ライミ、コーエン兄弟、ティム・バートンらが「80年代世代」とも言うべき世代としてすでにその地位を確立しつつあったとしよう (少し後から考えれば、かもしれないが)。彼らはハリウッドの上の世代よりも、 少しばかりクールに、少しばかりフェティッシュに、少しばかり陽気に、そして少しばかり洗練された姿を持ったシネフィルだと言える。しかし突然ながらガス・ヴァ ンサントがそこに決して名を列ねないことは、すぐにわかる。 たとえば彼の姿は少しばかりコッポラに似ているのかもしれないが、まあそれはそれでいいとしよう。とにかくガス・ヴァン・サントは『カウガールブルース』(93)までは、いわゆる非ハリウッドを足場に置いてきた人間だ。確かに、ビートニクを崇め、バロウズの徴をフィルムに散らし、あるいはウォーホルの徴を刻み込み......。一方で70年代におけるニューフィルム的な香りと、日常性を獲得した西部劇的な香りとを持ち......。と、しかし、こんなことを書いてどうなるのか、というほどの強度が『マイ・プライベート・アイダホ』(91)にはあったはずだし、にもかかわらず『カウガールブルース』以降、彼のフィルムが上の3人のように批評家たちの口にのぼることは、ほとんどなくなっていたと言える。たとえば、ティム・バートンのバットマンやエイプにつづいて、ついに『スパイダーマン』(02) を撮り上げたサム・ライミの『ギフト』(00)が、青山真治の新作『レイクサイド マーダーケース』に刻印されているとしても、はたしてそれをどのように考えるべきなのだろうか。殺人の舞台となる「湖」を介して、あたかも両者は通ずるかのようだし、薬師丸ひろ子はケイト・ウィンスレットにのりうつられるようにして、未来を見すぎてしまう。確かに、ベストセラーのミステリー作家東野圭吾の小説を原作とし、青山にとってはいままでにないほどのバジェットであり、ドノヴァンの「魔女の季節」が冒頭に使われ、エンドクレジットではメイヤ(!)が歌うこのフィルムが、サム・ライミという非常に「バランスの良い」作家への参照を持つことは、われわれにとって何ら不思議ではないのだろう。『ギフト』の霊媒師が見てしまう「未来」と『レイクサイド マーダーケース』の受験ママ薬師丸ひろ子が見てしまう「未来」とが、やはり湖底へと沈むわれわれ自身の「未来」を複数的に見せてしまう、それは確かに語るべきことなのかもしれない。だからここではもちろん 「湖」を基点に話を進めてみたいと思う。だがしかし、もうひとつの重要な「湖」、やはり突然ながら、ガス・ヴァン・サントの「湖」がまずはわれわれの対象となる。『ELEPHANT』(03)によるカンヌ映画祭パルムドール受賞記念とでも思って、しばしお付き合いいただきたい。


何か妙だ ひどく妙だ(ドノヴァン「魔女の季節」)

 ガス・ヴァン・サントには謎がある。「ハリウッドにおけるサンダンス映画祭出身者の先駆け」。そんなガス・ヴァン・サントのフィルモグラフィーには、まず明瞭に『カウガール・ブルース』と『誘う女』(95)との間でひとつ目の区切りが置かれる。『カウガール・ブルース』は、彼を彩った形容詞「ビートニクの香り」の最後を締め括るフィルムとして批評的にも興行的にも見事に失敗した。だが、というか、だからこそ、というか、つづく『誘う女』では、以後スターへの階段を上がるニコール・キッドマンを使い「スタジオで使える監督」としての地位を確立し始める。そして『グッド・ウィル・ハンティング』(97)では興行的にも大成功を収め、『サイコ』(98)でのギャグめいた振る舞いで周囲を戸惑わせ、などと言いながら『小説家を見つけたら』(00)では良質なスタジオ監督としてまたしても成功を手にしてしまう。
 フィルモグラフィーを並べただけではどうしようもない。ここで焦点が当てられるのは、もちろん『誘う女』だ。といっても、当時すでに周囲からの失望に彩られていたこのフィルムを覚えている人間など何人いるかとの不安もあるゆえ、ストーリーの説明を少々しておく。要は、ニコール演じる「嫌な感じのハイソな女」スザンヌがやっぱり嫌な女で、地方のテレビ局に務めながらキャスターとしての地位と名誉を得るために何でもしてしまう(原題は『To die for』──つまり「何でもやってやるわよ!」)という話。どうしようもない少年少女を唆して夫ラリー(マット・ディロン)を殺させ、その裁判すら利用して見事、全米中にその名を知らしめる。ニコールは言う、「私わかったわ。人生のすべては〈大きな計画〉で決まっている。でも先が読めないこともある。新聞の写真に近づきすぎると点しか見えないでしょ。全体像を見るためには離れること、そうすれば焦点が合ってくる」。
 まずこのフィルムは二重の視線のサンドウィッチでできている。裁判が終わった後のスザンヌによる回想 (ビデオカメラの前で語っている) の視線がストーリーのほぼ全体を挟み、さらにそれを、どうやら事件のドキュメントを追うチームらしきキャメラが挟み込む。上の言葉は裁判に勝利した彼女がフィルムの冒頭、ビデオカメラの前で発したものだ。だがすぐに、ラリーの姉ジャニスへのインタヴュー (もちろんこれも裁判後だ) がつづく。これがどうやらドキュメンタリー風チームの視線である。そしてラストは、まさしくその視線によって終了させられる。
 つまり『誘う女』はスザンヌが語るらしいエピソードと、事件を追うドキュメンタリー風チームが語るらしいエピソードとが奇妙に入り混じり、どのシーンがどちらの視点なのが判明し難くなる、そんなフィルムだ。だがもっと奇妙で注目すべきは、そのふたつの視点の間に、まるで空白地帯のように存在してしまうシークエンスだ。つまり、スザンヌが自らのビデオ撮影を終え、それを持って「ハリウッドの映画プロデューサー」(実はラリ一の家族から復讐のために刺客として送られた男、クローネンバーグ!)に会いに「湖」へと赴き、見事に氷付けにされてしまう、ラスト直前の一連のシークエンスだ。ここでの視線が、ひどく妙なのだ。空白地帯、というよりはまるで開かれた放浪の空間を曝け出してしまうかのようなのだ。そしてそれこそが 「湖」である。もちろんそのシークエンスは、ストーリー展開上、ラストの落ちとして絶対不可欠なものではある。だがたとえば68年5月の直前、ニーチェについて語るジル・ドゥルーズの言葉はやはり見過ごされるべきではない。少々長いが引用する。「われわれは長い間二者択一のなかに抑えつけられてきました。あなたがたは個体で人間であるか、それとも未分化の匿名の基底に合流するかです。それにも関わらずわれわれは前─個体的で非人称的なひとつの特異性の世界を発見します。それらの特異性は、個体にも人間にも差異のない基底にも帰着しません。それは流動的で、泥棒を働き、空飛ぶ特異性であり、一方から他方へと移行し、不法侵入を繰り返し、戴冠せるアナーキーを形成し、ひとつの放浪の空間に住みつきます」(ジル・ドゥルーズ 「無人島 1953-1968)。つまりスザンヌの「人間である」視線と、ドキュメンタリー風力メラの未分化の匿名の基底」である視線との間に、あのシークエンスは位置している。とはいえ、それでもやはり妙であることに変わりはないのだが。
 よってそのかぎりで、冒頭の彼女のセリフはこのシークエンスと反響し合う。たとえば、ここで彼女の笑う顔が印刷された新聞紙を想像してみよう。〈人間〉──確認しておくが ここで言われる〈個体〉や〈人間〉はフーコーの言説を踏まえたものであり〈個体〉は古典主義時代に〈人間〉はそれ以降の時代、つまり表象の発生にそれぞれ対応している──とは新聞紙上の点が連なったスザンヌの顔であり、焦点を合わせて「全体を見るために離れて」いる状態だと言えよう。そして「差異のない基底」とは「新聞に近づきすぎて印刷された点と点ばかりが見え彼女の顔像が見えない状態だと言える。では、その両者の間の、あの妙なシークエンスの妙な視線と空間とは、この新聞紙の話においてはどんな状態を指すのか?その視線は一体、スザンヌの顔が印刷された新聞紙を、どのように見ているのか?
 だが答えを出すのは性急にすぎる。われわれはとりあえず以下のことを確認しておく。 スザンヌは、点々しか見えないことに注意し、全体を捉えるため離れて見るが、しかしそこの状態においてすら、彼女は死へと至らざるを得なかった。言い換えれば、復讐されるしかなかった。誰に、何に?そうもちろん「家族」に、だ。
 ふたつの視線と、その間の視線。そのアナーキーな視線によって開かれる空間、そしてそれこそがふたつの視線とそれに支配される空間を呑み込み復讐する。たとえば話をもう少し明瞭にするため、そのふたつを仮に「作家」 (人間の視線) と「スタジオ」(差異なき基底)としてみたらどうだろう。もちろん、後者に関しては留保が必要だが、ここでは、その国々における大量消費への傾斜というか、「作家」の否認というか、「作家主義」の忘却というか......とりあえずそんなところを便宜上「スタジオ」と呼んでおく。ともあれこのことは『誘う女』がガス・ヴァン・サントのフィルモグラフィーでどういった位置を占めるのかを考えれば納得できるはずだ。「確かに『カウガール・ブルース』は受けなかった。ただ矛盾のようだが、新たなエポックが始まったのだ。つまりトロント映画祭で『カウガール・ブルース』が受け入れられなかったそのとき、すでに『誘う女』に入っていた。スタジオとの契約も済ましていたしね。それまでとはまったく違うフィルムになると確信していた。そしてインディペンデントからハリウッドへと渡って行くこともね!」(「CAHIERS DU CINEMA」No.529)。『誘う女』で彼の名は、見事に監督以外クレジットされていない。そして以後 『Gerry』(01)──日本未公開のこの中編は『ELEPHANT』の兄弟だとガスは語る──まで、『サイコ』を除き(これは本人も語る通り『グッド・ウィル・ハンティング』の大ヒットのおかげで許された試みだ)、彼のそのポジショニングはつづく。が、とにかく『誘う女』のガス・ヴァン・サントは明らかに「スタジオ」からの介入を受けており、そのなかで自らの「作家」性というものを意識させられることとなる。
 となると彼はスザンヌ=ニコールにこそ自らを投影しているのか?否。それは甘い。彼女が誰に殺されるか、考えてみよ。「偽の映画プロデューサー」である。ビデオカメラの前で、自らの作家理論を繰り広げながらシナリオ(もちろん『誘う女』の物語だ)を語り続けるニコールは、「映画プロデューサー」を名乗る偽者にほいほいと騙され、殺されてしまう。そう、それは映画製作におけるひとつの喩え話のようだし、ガス・ヴァン・サ ントが「新たなエポック」に突入する際に課した自らの戒め話でもあるかのようだ。だから「作家」スザンヌも「スタジオ」としてのドキュメンタリー風チームも、とりあえずどちらも存在するがしかし、彼の視線とはならない。彼が自身を賭け、そして開こうとする場所とは、そのふたつとは異なる場所、つまりは先にも挙げた、あのシークエンスである。だがしかし、それは「作家」と「スタジオ」との関係において、一体どこにどのようにして存在し得るのか?
 
魔女のダンス

 スザンヌに死刑執行人がいたように (彼女は、どうしようもない若者たちによってラリーを殺させた)、家族にも死刑執行人がいる。全編をふたつの視線で挟まれていながら、しかし存在してしまうあの放浪の空間は、実はこのフィルムにおいて唯一の「家族」の視線だと言える。それを可能としたのが、刺客である「偽者の映画プロデューサー」だ。ニコールの視線のうちにしか収まらなかった「家族」(それは人間という純然たる制度の元に収まっていたことを意味する「家族」だ)は、ふと、彼の存在によって新たな「家族」の貌を獲得してしまう。「偽者の映画プロデューサー」によって「家族」は変容する。つまり、あのアナーキーな空間に刷り込まれることで「家族」は変容するのだ。となると、ガス・ヴァン・サントとわれわれにとってもっとも重要な人物が誰であるかがわかるはずだ。本当のラストショット、つまりエンドクレジットにおいて、あの凍り付いた「湖」の上を滑り踊る、ラリーの姉ジャニスである。ラストショットは、彼女が「湖」の上で──スザンヌが氷付けにされて埋まっているあの「湖」──アイススケートを繰り広げるというワンシーン・ワンショットだ。そのとき「湖」は「作家」スザンヌの視線を消し去ったようでいて、しかしなお死後もその視線を湖底に残してしまう(彼女の死体がはっきりと眼を見開いていたのを確認してほしい)。そしてそこで踊る〈人間〉は、そのとき「家族」から何か妙なものへと変容してしまう。つまり〈人間〉は何か妙なものになる。それはけっして特定の誰かのみが被る変容ではなく、誰もがその可能性を有するものなのだが、しかしラリーの姉が何か妙なものになるのを見るわれわれに、やはりその「誰か」が彼女でなければならなかったという感触を覚えさせる。それがあの「湖」の力能なのだ、とでも言いたくなるような。
 ともあれ、死んだ「作家」スザンヌの視線を足下に、ドキュメンタリー風カメラの視線を敷き、ジャニスは死のダンスを繰り広げる。そしてこの存在によって、ガス・ヴァン・サントはやっと信じるべき対象を発見する。「湖」によって、かろうじて存在する何か妙なもの、この危うい何ものかに彼は自らを賭けようとする。エンド・クレジットのワンシーン・ワンショットは、まさに変容の瞬間を捉えているのと同時に、彼自身のほうが何か妙なものに捕われ始めた瞬間でもある。カメラは凍った湖に立つ彼女の上半身を映し出す。カメラの正面を向いたままバックして、だんだんと画面奥へと遠ざかってゆく彼女。見開かれた眼に惹き付けられるわれわれは、ふと画面内の風景が変容しているような錯覚を覚えてしまう。だが実際にはカメラは微動だにしていない。被写界深度もまったく変わらない。その風景が変容しているように見えるのは、ただ「姉」のスケーティングによってだ。この風景はとてつもなく浅くペラペラで彼女は絵画の上を滑っているようであって、その動きこそが、われわれに風景の変容を感じさせてしまう。そう、そのダンスは永久に作動する機械であるだろうし、言うなれば、1本の樹木を廻りつづけてバターに変容してしまう3匹のトラのように、もはや「湖」と入り混じったひとつの流動性である。カメラは任意の定点でありながら、かつ特異的でもある点となり、「湖」と姉とを組織ならざる組織へと導く。だがもはや何が何を組織するのか、何が何を発生させるのかなど、わからないしどうでもいいし暫時的でしかない。「囲いも所有地もない開かれた空間のなかに諸々の特異性を配分する」(ジル・ドゥルーズ、前掲著)ことにおいて、特異性は特異性であるがゆえに交換の可能性を持つのだ。
 こうしてガス・ヴァン・サントは「作家」と「スタジオ」との存在を認めながらしかし、 自らが信ずることのできる特異な場所を発見する。それを何と名指すか。たとえば「作家主義」とでも言うのか。もちろんそれは「僕は〈作家主義〉をおおいに信じている。それこそ唯一価値のある政治だ。だが〈作家理論〉を僕はあまり信じない。それによってでは、自分が映画で発見するすばらしい事柄を語ることはできない」(「Les Inrockuptible」No.259) と、アルノー・デプレシャンが語る意味においての「作家主義」ではある。たとえば『ドラッグストア・カウボーイ』(89) や『マイ・プライベート・アイダホ』であれば、いいだろう、それらは「ガス・ヴァン・サントのフィルムだ」と言って済まされるはずだ(もちろんそんなこともないが)。だが『誘う女』に関しては、いや、あの凍った「湖」に関しては、それだけでは済まされない。十分ではない。何かが変容し、何かが発生し、そしてこのフィルムは何かに確実に触れてしまう。
 だが答えを出すには性急にすぎる。その前に、とりあえず付け足しておかねばならないことがある。エンド・クレジット、ジャニスが「湖」で踊るそのワンシーン・ワンショットにはドノヴァンの「魔女の季節」が添えられている、ということだ。うだつの上がらない真面目男が主役で共演者が魔女であるという、あの曲だ。いかにも。その男がラリーで魔女がスザンヌだとすれば収まり良いだろうが、しかしここまできたわれわれは、ラリーの姉ジャニスこそが魔女であるのを知っている。いや魔女とは、もはや、あの「湖」以外の何ものでもないと、そうとさえ言えるのだろう。そして魔女のダンスが永久作動するあの「湖」は、何かひどく妙なのだ。「作家」スザンヌの死体が、なお眼を見開きながら埋まりつづけるこの湖」は、何かひどく妙なのだ。『誘う女』は「湖」の、としか言いようのない視点を獲得する。
 こうしてガス・ヴァン・サントは『誘う女』によって「スタジオ」との「新たなエポック」を開始させるとともに、流動的でアナーキーな視点を獲得する、のだ。そしてメジャースタジオでヒット作を世に出してゆく。だが2001年マット・デイモンやケイシー・アフレックという若き盟友とともに『Gerry』という短編を撮りあげ、2003年には、これまた小規模な 『ELEPHANT』 (これはHBOというケーブルテレビ局によって製作された) でパルムドールを受賞する。 かつて、「スタジオ」との「新たなエポック」の開始として『誘う女』をつくった彼は、いままた、この2作によってインディペンデントな場へと戻ろうとしているのだろうか? まあきっと、戻るも糞もない、とでも言うのでしょうが......。
 青山真治の新作『レイクサイド マーダーケース』はその名の通り、湖畔の別荘を舞台の中心とする。まずはドノヴァンの「魔女の季節」によってフィルムが開始されると言っていい。その冒頭は、スタジオらしき場所で女性ファッションカメラマン (彼女は主人公並木俊介の愛人である) がモデルにカメラを向け、デザイン会社の社長である俊介がそれを見つめているというもの(ただし彼は光に弱いゆえ、フラッシュ光を遮るためにサングラスをかける)。 小説『レイクサイド』には存在しないこのシーンが、「魔女の季節」と響き合いながら『レイクサイド マーダーケース』を貫くだろう。魔女を捕え、現像し、印刷するためにシャッターを押し、強烈なフラッシュ光をまき散らす。そんな彼女の撮影行為は、1枚の写真に、過去とそして未来さえも写し込もうとする試みにも見え、どこか予言めいた行為に見える。登場人物のみながみな生気を削がれているなか、並木夫妻 (役所広司、薬師丸ひろ子) のみが〈人間〉としての視点を持って微かな反抗を試みようとするが、しかし彼らさえも魔女の光に捕えられ、やがて「湖」へと混じり合ってゆく。薬師丸ひろ子はすでにカメラに捕えられていたことがわかるし、役所広司は、光を遮るためのサングラスを外しながら、その光を受け入れてゆく。つまりは『誘う女』のラストで開かれたのと同じ「湖」こそが、 このフィルムを開始させるのだ。ジャニスがスケーティングで風景と自らを変容させたように、登場人物たちは別荘内を縦横に歩き、身体を歪曲させ、そしてそれらを反復して、画面を変容させつづける。この「湖」は何か妙だ。ひどく妙だ。凍ったその水のなかには「作家」が潜み、氷上では魔女がダンスを作動させる。この「湖」は、しかし青山真治の「新たなエポック」の始まりである。それだけは覚えておいていい。