「息子のまなざし」ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ
[ book , cinema ]
「距離を感じる」「距離を置く」「距離を縮める」人と人との間にある距離を操作することは、いつもふたりの人間間でしか起こらない。一対一で向かいあった時、ふたりの間には直線が引かれ距離を測ることが出来る。それは決して概念としての距離ではなく、数値としての距離である。
一枚の紙を一心に見つめながら、「オリヴィエ!」という声に顔を向け走り出す。オリヴィエが少年の存在を知るのは紙に書かれた名前からである。少年の姿を目にするかどうか、映画は彼の決断によって始まる。オリヴィエは、少年を自分の担当するクラスに入れることを一度は拒む。自分のクラスは既に定員オーバーだから、と正当な理由をもっており、必ずしも個人的な問題を持ち込んでいるわけではない。しかし、自分のその行動が、少年の名を以前に知っていたせいなのか、あるいは元からそうするはずだったのか、彼は悩む。少年を受け入れるべきか否か、という問題ではなく、少年を生徒として認めることと認めないことと、どちらが公平であるか、という問題である。もちろんそこに少年の姿を自分の目で確かめたい、という欲望が含まれていたとしても。少年にとって、罪の償いは年月によって執り行われる。だが、オリヴィエにとっての償いは、時間ではなく言葉なのだ。それは、「後悔している」というようなメッセージではなく、言葉によって戯れることであり、コミュニケーションの成立へと至る過程である。教師と生徒という、オリヴィエが頑に守ろうとした社会的関係は、ふたりの会話や共同作業によって別な関係へと発展していく。少年の口から少しずつ事実が積み重ねられていった時、オリヴィエは初めて自分の言葉を投げかける。行為を模倣する(息子にした行為を少年に対して行おうとする)ことは、単なる模倣にしかなりえない。完璧に繰り返すことなどできない。少年が息子を殺したことと、オリヴィエが少年を殺すことはそれぞれが孤立した行為であって、そこに何らかの関係が生まれることはない。
オリヴィエと少年との間にある一定の距離は、その正確な数字を測ることで徐々に縮められていく。オリヴィエの元へ近づいていく少年の身体を、オリヴィエは拒否しようとする。時間と共に変化するのは二人の関係ではなく、少しずつ緩和していくオリヴィエの身体である。彼を見つけること、彼に見つけられること、二つの事柄は断絶し対立したまま、ただオリヴィエの視線だけが変わらずそこに在る。これらが同等に扱われた時、映画は終わりを迎える。