『男性誌探訪』斉藤美奈子著(朝日新聞社)
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「十人十色」というように、人にはそれぞれ個性があって、ひとりひとり別々の顔があり、別の声を持っていて、ひとりとして同じ人はいない。雑誌もまた、それと同じように、大まかなグループ分けはできても、それぞれが別の個性を持っている。本書には、それぞれの男性誌の備えるそういった「たたずまい」が記されている。たとえば、「文藝春秋」は「保守でオトナな日本のセレブ」であり、「サライ」は「家庭で、病院で愛される高齢者雑誌」であり、また「『なんとなく、クリスタル』の世代が、いまや四十代の立派な中年になって」読む雑誌が「ブリオ」であり、「最後のナンパ誌」である「ホットドッグ・プレス」は「妄想全開」である、などなど……。対象となる31誌の男性誌のなかには知っているものもあれば、読んだこともなければ、聞いたことすらないものもあって、知識を補うことができた。しかし、本書に魅力があるとすれば、それは些末なヘェネタの数々ではなく、ここでとられている著者の一貫した態度によって雑誌そのものが孕む性質がほの見えることだ。
本書のあとがきである「編集後記」にはこうある――「男性誌に限らず、雑誌というものは一種のサークルみたいなところがあって、常連の読者からすると美点も欠点も知り尽くした旧知の間柄、あうんの呼吸だけでわかりあえる空間である」。雑誌がその個性を提示し、読者がそれを受け入れることでそのような閉じられた空間が生まれる。雑誌を読むことは、その空間へと一歩足を踏み入れることなのだ。斉藤はその閉鎖性を告発することはしない。ただ「それぞれの雑誌の『たたずまい』を記す」だけだ。興味深いのは、その「たたずまい」が当の雑誌のものなのか、それともその読者のものなのかいまひとつはっきりとしないところである。雑誌についての記述がその読者についての記述に重ね合わされている。
ぼくは10代のころ雑誌を読んで、そこに「東京」を夢見ていた。自分の思い描く理想的なイメージをそこに投影していたのだろう。大晦日の夜、実家に帰っていたぼくは、歌合戦とは名ばかりの「紅白歌合戦」の流れるリヴィングを抜けて、自室でこの本を読みながらすこし郷愁に浸っていて、いつのまにか年が明けていた。かつてのぼくのように雑誌を読むのなら、本書は格好の入門書になるのかもしれないと思った。このなかから自分のイメージに合致するものを選ぶだけでいい。