『ニシノユキヒコの恋と冒険』川上弘美
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ニシノユキヒコという一人の男の名前が何度となく登場する。「西野君」「幸彦」「ニシノさん」「ユキヒコ君」呼び方や文字はそれぞれ違っていても、音としての「ニシノユキヒコ」は常に存在する。それが本当に同一人物の「ニシノユキヒコ」であるかどうかは明らかではない。ただ「ニシノユキヒコ」というひとつの音がそこに存在し続けるというだけだ。
一方、女たちの名前は次から次へと変化していく。夏美、みなみ、カノコ、マナミ、例、愛・・・。ここに書かれた人々には、律儀にみな名前が与えられている。だが、ひとりひとりの身体的特徴はほとんど描かれていない。場所や時間を限定する具体的な言葉も見当たらない。パフェ-を食べたレストラン、タイサンボクの生えた空き地、海岸の近くにある旅館。どこにでもあるような、けれどくっきりとした輪郭を持たないぼんやりとした情景。通天閣、江ノ島、具体的な名称が登場するとき、それらの言葉は、固有の場所を喚起すると言うよりも、ツウテンカク、エノシマという言葉の響きが繰り返されるだけなのだ。言葉の運動だけがそこにはある。
「もう、終わったでしょ」幸彦はあたたかな声で、言った。
「もう、終わったんだっけ」ばかみたいに、あたしは繰り返す。
「もう、終わったんだよ」幸彦も、繰り返す。
(「ドキドキしちゃう」より)
二人の男と女がいて、抱き合って、会話をして、それでも男は、セックスはしない、と言う。なぜなら二人はもう「終わった」のだから。このうえなく明確な答えだ。全く反論の余地の無いほど。“そんな簡単に終わってしまっていいの?もっとドロドロしたところまで突っ込んだ方がいいんじゃないの?そんな風に担当の方と揉めたりもしたけれど、私は「ニシノユキヒコ」という男を徹底的に不実な男にしようと思った。”というようなことを、川上弘美は「ダ・ヴィンチ」での一青窈との対談の中で言っている。「終わる」ということをあっさりと断言してしまう「ニシノユキヒコ」に、「好き」なことと「好きではない」ことが簡単に判明してしまう彼らに、現実はそんな簡単じゃないよ、と言いたくもなる。しかし、「別れるよ」と言えば「終わり」だし、片方がどこかへ言ってしまえば「終わり」、そして死んでしまえば「終わり」なのだ。「ニシノユキヒコ」は決して像を持っていない。いくつもの名前を与えられた、よく似通った女達も同様に。すべては言葉によって、音によって決定される。ドロドロした関係など必要ない。言葉の運動は淀みなく続けられるのだ。