『LIFE GOES ON』高橋恭司
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もし明日写真集を作れと言われたら何を考えるだろう。いや、写真を撮れというのではなく、写真集を編集してくれと言われたらの話。はい、と答えて、じゃあどんなものにしたいか尋ねられたら。ぼくはきっと「小津のように作りたいです」と答えるだろう。
『晩秋』の、壺のシーンはシンポジウムでも話題になっていたが、あの京都旅行中の清水寺のシーンの直前、なに山かの稜線が斜めに画面を横切るショットが挿入される。たしかその前が旅館で笠智衆と原節子が歯磨きするショット。で、茂々の稜線がきて、つづいて清水寺。
ストーリーの意味の連なりとは関係ないショットをグサリと並べるさまは、小津の特徴としてみなが指摘することだ。あの稜線のショットも、それから壺のショットも、それからショットの並べ方も、その裏に意味はない。それはいいのだけど、おかしな言い方になるが、その直後には何かがある、とぼくは思う。もちろんその直後には次のショットがあるのだが、そうではない、もっと違った「直後」もあるのではないか。逆に言えば、小津(厚田)のショットはいつも「直前」の状態にあるということだ。
それがいったい何の「直前」かはいままだわからない。でもその「直前」というさまは、小津が好んで語る物語や、たとえば原節子の身体にも当てはまるだろう。肉が溢れる直前のさま。それが原節子だ。
高橋恭司の『LIFE GOES ON』は97年に2000部限定で発売された。古本屋で見つけたそれには1103/2000と記されている。渋谷、恵比須、目黒という、当時きっと写真家本人の近所だったろう場所で撮られたカラー写真。それらが15枚、クリームの画用紙に適当に貼られている。8×10で撮られた15枚は、どれも鮮明極まりない。人工的に作られた色合いは明らかに狂っている。ガールフレンド、本人、木、花、カーテン。それぞれのショットは、これもやはり何かの「直前」のさまだ。光が溢れる直前。それから、そこに写る花が花であることの直前。もしかしたらガールフレンドと別れる直前、結婚する直前。これらに裏はないが「直後」はある。そしてその並べ方もまた、裏ではなく「直後」というさまを生み出す。高橋恭司とともにAD角田純一が、この「直後」をつくり出している。写真もまた、映画と同じく時間を扱うものだ。
「小津のように写真集を作りたい」とは何とも恥ずかしい考えだけど、『LIFE GOES ON』を見ると、つい、そう言いたくなるのも事実だ。こんな写真集を作ってみたい。何かの「直前」の断片を並べて。そして、それでも、人生はつづく。