『ミスティック・リバー』クリント・イーストウッド
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クリント・イーストウッドは旅をする。サン・フランシスコ市警でハリー・キャラハン刑事を演じたり、西部の開拓地で名もないプリーチャーを演じたり、スペインの地で早撃ちのガンマンを演じたり、アフリカで像撃ちを躊躇する映画監督を演じたりするために旅をする。だが、彼自身の聖なる身体をフィルムの表層に晒すことを選ばないとき、彼は、それほど大きくない場所に留まることを常にしている。ニューヨークの小さなジャズクラブ(『バード』)だったり、南部のジョージア州の沼沢地に開発された美しい街(『真夜中のサバナ』)だったり、マサチューセッツ州の州都の中心を流れる川沿いの地域だったりする。
私たちの知っているマサチューセッツ州の州都ボストンを流れる川はチャールズ川という名前で、東部のリッチで知的なこの街(ハーヴァード大学もこの街にある)にふさわしく、この川にはヨットが浮かんでいる光景を思い出す。古き良きアメリカの知的な伝統。寒いけれども空気が透明で、良く晴れた秋の午後には紅葉がチャールズ川に反射している。
『ミスティック・リバー』のリバーとはチャールズ川のことだ。だが、チャールズ川から「ミスティック・リバー」にこの川が名前を変えると、ここがボストンであるという記号は一切姿を消してしまう。サバナならいかにもその街らしい19世紀の邸宅を惜しみなく見せてくれたイーストウッドが、このフィルムではボストンをまったく見せてくれないのだ。否、見せてくれているのだが、そのボストンは、私たちの知っているボストンの姿とは異なっている。空気はどこまでも濁っていて、透明な青い夜の代わりに、底なしの暗さが支配している。チャールズ川にかかる鉄橋を見せてくれはするが、その下には何も見えない。それにこのフィルムが映し出す季節はいったいいつなのか。夏でも冬でもないだろう。光を欠いた空はほとんど常に曇天だ。だが、私たちが季節を知ることになる植物の色合いや、衣服の肌理がこのフィルムには不在だ。まだメジャー・リーグ・ベースボールの放送が聞こえる季節だから夏が過ぎた秋かも知れないが、ストリードの子どもたちが興じているのは、ベースボールではなく路上ホッケーだ。ティム・ロビンス演じるデイヴが息子に「おとうさんは79年から82年に高校野球の良い選手だったんだ」という台詞から、このフィルムが現代のことだと分かるのだが、そのこととクルマの型以外、このフィルムが現代のことであることを示す記号は登場しない。つまり、ここは確かに川の流域にあるそれほど生活レヴェルが高いわけではない街の一角でしかなく、時代も現代なのだが、それが現代であることはまったく重要ではない。このフィルムにはほとんど何も見えないし、途切れ途切れの言葉以外、ほとんど何も聞こえない。マサチューセッツ州警察の刑事の妻は、今は離れて暮らす夫に毎日電話をかけるが、彼女は何も語らない。
つまり、このフィルムにあって重要なのは、見えないという事実であり、聞こえないという事実だ。このフィルムが示すのは、見えていない過去や、聞こえない隠された何かがあって、それらが、登場人物たちを今支配しているということだ。実際には見せてくれないデイヴが年少児に受けた性的虐待や、このフィルムのブラックボックスになっている19歳の娘の殺人事件こそ、3人の主人公をその存在そのものから支配している出来事なのだ。すべての過去の集積の後に生きる人たちにとって、その時間の澱は、現在、振り払おうとしてもあまりに重すぎてますますその重みを実感するだけだ。デイヴが殺され、事件が解決したとしても、生き残ったふたりの主人公は、これからもますます重みを増す過去の時間の澱を背負うだけだ。イーストウッドがこれほど抽象度の高いフィルムを撮ったことはないだろう。そしてこうした抽象性は、アメリカ映画の彼岸にあるものだ。