『運命のつくりかた』アルノー&ジャン=マリー・ラリユー
[ cinema , photo, theater, etc... ]
「映像に映像を重ねる技術は何ていうの?」、マチュー・アマルリック扮する映画監督、ボリスが撮った企業PR映画を見た後で、マリリン(エレーヌ・フィリエール)はさりげなく質問する。「オーバー・ラップ=surimpression」と、ボリスは答える。マリリンが「オーバー・ラップ」に関心を持ったのも当然、二人の社員が恋に落ちるという筋書きを持つおよそ企業PRには似つかわしくないその映画では、ボリスとマリリンのショットに、暗闇の中で正面から向き合い次第に「重なり合う」男女の肉体のショットがモンタージュされていたのだから。「オーバー・ラップ」、それは、映像編集の一形式であると同時に、一つの感覚的表面上に複数のイメージの印象が重なり合うことでもある。登場人物たちがよく名前を間違えるのは、他の誰かのことで頭がいっぱいで、目の前の人物にその誰かの映像をオーバー・ラップしているからだ。マリリンのことを考えているボリスは、ジョセファのことをマリリンと呼んでしまうなど、彼らはもう「オーバー・ラップ」の世界を生きているのだ。そして彼らは自らを、映画監督から、主夫、そしてマッチョな髭面登山ガイドへ、あるいは、平凡な通信会社の社員から、出来心で女性と寝てしまうキャリアウーマン、そしてアメリカ人観光客の通訳へと次々変遷して、その度ごとに、自分のイメージをオーバー・ラップさせてゆく。その過程で映画そのものが、企業PR映画からミュージカル映画、メロドラマ、登山映画に、動物映画へと様々に重ねあわされてゆく。このフィルムは、次々変遷してゆく人物たちやジャンルがその度ごとに重なりあい、オーバー・ラップの中で溶け合ってゆくのだ。目眩めく自由奔放さ。
ラリユー兄弟は、ギロディーらを含む自分たちの世代にとって、ヌーヴェル・ヴァーグはすでに「祖父」であると言う。デプレシャンやアサイヤスの世代にとってヌーヴェル・ヴァーグは「父親」であり、を大きな問題であったが、彼らにとってはもうおじいちゃんだ。そのことが、逆説的にヌーヴェル・ヴァーグの持っていた一つの側面を彼らに与えている。いわく、「自分の好きなように、自分ができるように、撮影するという側面」。ボリスとマリリンがオオライチョウの求愛行為を見つめる感動的なシーンも、オオライチョウと、それを見つめる二人は別々に撮影されたという。彼らは、レアリスムにがんじがらめになることもなく、自由に様々な要素を重ね合わせてゆく。
さまざまなものがオーバー・ラップの中で溶けあってゆくこのフィルムにあって、やはりラストのミュージカルのくだりは濃密で魅惑的だ。マリリンがボリスの部屋に入ろうとする時、暗闇の中に浮かび上がる横顔の頬の線がふっと緩んで微笑む瞬間にはっとしたかと思うと、画面が切り替わって、すでに全裸となった彼女が同じ場所に立っていて、ボリスに問いかける。「私のパジャマ見なかった?」、もちろんそこで二人が出会ったあの日、全裸のボリスが彼女に同じ台詞を言ったシーンがオーバー・ラップする。ここでは、プレイ・バックで撮られた他の二つミュージカル・シーンと違って、風呂場に隠れたカトリーヌが生演奏し、二人が実際に歌っている。ボリスがマリリンの周囲をゆっくり回りながら、やがて抱擁し合い、ベッドの上で重なり合う。そして、この魅惑的なワンシーン・ワンショットに惜しげもなく、翌朝の様子がオーバー・ラップされてゆくのだ。過去と、現在と、未来が一緒に重なり合う。この卑猥なまでに自由奔放に重なってゆくオーバー・ラップに休息はない。