« previous | メイン | next »

January 17, 2004

中平卓馬展「原点復帰-横浜」 横浜美術館

[ photo, theater, etc... , sports ]

例えば何か感動を覚えるような景色に出会い、カメラのレンズを覗き込み、シャッターを押す。やがて時をおいて印画紙にプリントされてくるグラフィックは、それが写真機で撮られたものであるということを理解している人にとって、<真実性>という性質を帯びた<特別なもの>であるように(そのグラフィックに自分が感じ得た感動が記録されているかのように)感じられる。選択する写真機やレンズによって、またはフィルムによって、あるいはその瞬間の光の状態によって、同じような手順で作成されたグラフィックが時には大きく違うこともあるという事実を知りながらも、写真が<真実性>を感じさせてしまう、ということはいかにカメラという機構が優れた技術であるかということの証であるのだけれど、写真家と呼ばれる、カメラという機構の探求者は、誰もが感じたことがあるであろう<不気味ににやけた自分の写像に対する違和感>なんて低級な発想ではなくて、多分、世界の<真実なるもの>と対峙せんと格闘している。それはつまり、いかに世界の<真実なるもの>を記録するかという格闘であり、「カメラのレンズを覗き込み、シャッターを押すこと」でも表象されることが困難である<なにか>をそれでも記録しようとする探求である。/中平はその著書である『なぜ、植物図鑑か』(一九七三)において、カメラが優れて近代的なロジックであること、つまりカメラこそが「人間中心的な世界との関係のあり方(世界の私物化)」を示してしまっていることを喝破し、人間の世界という存在に対する敗北を認め、世界をありのままに記録することのロジックにひたひたと迫りよる。/中平がそれを記述した一九七三という時間から三〇年ばかりが経っている。あるいは多くの写真家の探求は「カメラのレンズを覗き込み、シャッターを押すこと」による表象の幅を拡張しているようにも私は感じていた。なぜならいくつかの写真やフィルムに写し出されたものは、<<私>という視点の外側>、を認識させるものであったからだ。しかしここで再び中平のテキストを再読し、迫り寄るロジックに身を浸すと、あるいは私が感じていたのは、<私が投射する<<私>という視点の外側>>であったのかもしれないとすら思われてくる。/中平の最新の写真群は100ミリというレンズで全てカラー写真で撮られている。100ミリというレンズが持つ世界と人間との関係は、人間の眼球という機構では決して獲得のできない関係でもある。その無造作に現像された写真に写っているタケノコや猫や神社の旗や寝ている人は、だからどこでも見たことがあるもののようでもまるで見たことがないもののようでもある。中平は、どこにでも存在しているような事柄、それは植物であろうと動物であろうと人工物であろうと関係なく、を非人間的な視点を選択した上でカメラという機構に記録させることを選んだ。自らを世界を凝視し続けるカメラという機構に埋没させることを選んだ。/『きわめてよいふうけい』(ホンマタカシ、2003)に記録されている(あるいは記録され得なかった?)、マイクでは拾うことができない中平の発声する音の群ととユラユラと動き続ける中平の一連の所作が想起させるのは、まるで植物のそれであり、中平が<植物図鑑のように撮ること>ではなく<自らが植物図鑑という機構>であることを選んだようにも感じられ、背筋に寒気を覚えた。/こうして中平は世界に同化し、何かを語りかけ続けている。/今求められているのは、中平を世界から取り戻すための新たなロジックによる世界の止揚である。

藤原徹平(隈研吾建築都市設計事務所)